第86話
天正十年 五月 安土城
――間に合った。
泣きじゃくる茶々を抱き締め、俺は天を仰ぎながら、そう……実感した。
岐阜城から長浜城まで、強行軍で突っ走り、五月三十日の陽が落ちる寸前で到着。そのまま一泊して、早朝に船で安土城へ向かった。
出来る限り急いだが、今は五月三十一日。本能寺が明智光秀に襲撃されてから、既に三日が経過してしまっている。
相手は、策謀と戦略の達人。こちらが、如何に迅速に対応しようとも、それを上回る策を出されるのでは無いか……。
そんな不安はいつまでも付き纏い、夜寝る時には最悪の場合を想像してしまったのか、毎晩のように悪夢に悩まされていた。
故に、この腕の中にある確かな温もりを、俺はもう手放さないように強く抱き締めるのだ。もう……二度と、手放さないように……。
暫く茶々と抱き締め合っていると、背後からジトッとした視線と共に、咳払いが聞こえてくる。
「……んんっ! ……若様、今は戦時中ですぞ」
新五郎の言葉に、ハッと正気に戻ることが出来た。恐る恐る周囲を伺ってみると、何やら生暖かい目だったり、熱の篭った視線だったりと、沢山の人から注目されていた事にようやく気付いた。
俺は、何食わぬ顔で茶々から手を離し、悠然と立ち上がると、二回手を叩く。
「…………さて、まつはおるか」
「ここにっ! 」
俺の呼びかけに呼応するように、右斜め後ろに現れた。松には、先程追い払った敵勢の行方を探ってもらっていたのだ。
流石の俺も、やることはちゃんとやっている。
「さきほどのてきぜいは、いまどうなっておる」
「はっ! 一目散に京へ逃走した模様にございます。おそらく、轟音に恐れ慄いたのでしょう。近辺に破壊された大岩があったことから、着弾はしたようですが少し座標が逸れたと思われます」
「……そうか。だれか、つけておるか? 」
「はっ! 数名ではありますが、逃走兵に紛れ込ませております」
「やつらのうごきを、ちくいちほうこくせよ」
「ははっ! 」
京へ逃げたのか……十中八九、明智軍本隊と合流するつもりだろう。奴らの動きを先読みせねば、いつまでも後手に回る事になる。
ただでさえ、俺達は圧倒的に不利な状況なのだ。どこかで挽回せねば、何かの拍子にひっくり返されるぞ!
頭の中で、これからの展開を思い描いていると、不意に裾を引っ張られる感覚があった。不思議に思いながら下を向くと、そこには瞳を輝かせる茶々の姿があった。
「そうじゃ! あの雷鳴は三法師が生み出したのか!? 凄まじい轟音が、安土中に鳴り響いたと思いきや、安土城の目と鼻の先まで迫った敵勢を追い払ってしもうた! まさに、神の御業よっ!!! 」
ふんすっ! っと、鼻息を荒くしながら語る姿は、まるで神話の戦いを見たかの様に興奮を表していた。
全く大袈裟な……そう思っていたのは、どうやら俺だけだったらしく、周囲に居る民達も興奮気味に話し合っている。
「んだっ! オラなんざ腰抜けにまったよぉ! 」
「三法師様は、私達を救う為に敵を追い払ってくれたに違いないべ! 」
「かみのみわざ……って、なんだ? 」
「つまり、三法師様は神仏の生まれ変わりって事だよ! そんな尊い御方が、私達を救う為に力を使って下さったんじゃ! 」
「なんとっ! それは、なんとも慈悲深い御方じゃ〜ありがたやぁありがたやぁ……」
「今尚、三法師様を照らすあの光こそが、神仏の化身である証っ! 我等には、神仏の御加護がついておるのだ! この戦いも、間違いなく勝てるぞっ! 」
『ぅぅぅううぉぉぉおおおおおおおおっ!!!』
人から人へ伝わる毎に、次々と尾びれ背びれが付いていき、終いには崇め始めてしまった。
『そんな大層な存在では無い……』そんな俺の叫びは、民の信仰心の前には何の意味も無かった。このままでは、新興宗教の教祖にされかねん。
そう思った俺は、足早にその場を去り安土城へ向かって行く。
正直、心臓の鼓動が痛いくらいに高鳴っており、動揺が諭されないように必死だった。
敵勢を追い払ってみせたモノの正体は、船に詰め込んでいた大砲『雷轟』である。一年前から鍛冶屋の正兵衛に造らせており、金に物を言わせて改良に改良を重ねた物だ。
命中率に難はあるが、とにかく飛距離に力を入れて造らせたのだ。俺には、数式やら化学式とか良く分かんなかったが、角度が大事なのではと思い至り、トライアンドエラーの末に完成したのが『雷轟』である。
キャッチボールから思いついたのだが、完成して良かったものだ。
なので、敵勢の近くに着弾したのはただの偶然であり、奇跡と言っても過言では無いのだ。決して、神の御業では無い!
しかし、この事実をあの狂信者に知られたら、どんな目に会うか分かったモノでは無い。ここは、士気を上げる為だと腹を括り、秘密は墓場まで持っていこう!
――数百年後、安土山が雷神降臨の地として聖地にされるなんて、俺は知る由もなかった……。
安土城へ向かう道中、民から熱烈な歓迎を受けながら進んで行くと、遂に城門まで辿り着いた。そこには、俺の到着を聞きつけたのか多くの家臣達が集まっており、その中には源五郎叔父上やお義父さん達の姿もある。
『三法師様っ! 家中一同、貴方様の御越しを心より御礼申し上げますっ!!! 』
一同、一寸の狂いも無く片膝をついて平伏し、俺達の到着を歓迎してくれた。俺は、そんな彼等の前に一歩近付くと、精一杯の笑顔で彼等の勇姿を称える。
「よくぞ、わたしがくるまでもちこたえてみせた。かような、すばらしいかしんをえたこと、じいさまもちちうえも、よろこんでいよう」
『ははっ! 』
「わたしも、そなたらのことをほこりにおもう。じつに、たいぎであったっ!!! 」
『……っ! 有り難き幸せっ!!! 』
あちらこちらで、声を押し殺したようなすすり泣きが聞こえてくる。度重なる凶報に晒される中で、決して諦める事無く未来への希望を待ち続けてみせた。
それは、生半可な気持ちでは到底成し得ない偉業である。此度の作戦は、間違いなく彼等無くしては成し得ないのだ。
その事を、どうか誇りに思って欲しい。
家臣達が感涙にむせぶ中、俺は源五郎叔父さんのところへ向かう。
「おじうえ、おしさしぶりにございます。おじうえが、いくさをきらうやさしいおかたなのに、かようなたいやくをせおわせてしまい、もうしわけのぅございます」
俺は、心からの誠意と感謝を込めて、深々と頭を下げる。源五郎叔父さんは、俺と同じで戦の無い世を願う優しい人だ。
きっと、このような危機的状況に心身共に疲れきっているだろう。しかし、源五郎叔父さんはそのような様子も見せず、いつもの優しげな微笑みを浮かべていた。
「なに、心配はいらぬよ。儂かて、誇り高き織田家一門衆の一員だ。兄上と甥を守る為ならば、幾らでも戦場に立つ覚悟よ」
「……おじうえは、つよいおかたですな」
「……なっ! いきなり褒めるでない! 全く……」
源五郎叔父さんは、照れ隠しなのかやたら早口で喋り始めた。だけど、俺は心から強い人だって思ったんだ。
人は、己の為に力を振るう奴が殆どだ。何故なら、その方が分かりやすく力を振るう理由になるからだ。怒り、悲しみ、恨み、妬み……そんな感情を、思いのままに振るう方が楽なのだ。
そんな中で、他人を守る為に力を振るう事が出来る人は殆どいない。
俺は、後者こそが真の強者だと思う。それこそが、人として正しい在り方なのだろう。人望が集まるのも、圧倒的に後者だしな。
源五郎叔父さんは、ひとしきり喋り倒すと、不意に正気に戻ったのか恥ずかしげに咳払いをする。
「……んんっ! ……儂より、北条殿の方が凄いぞ。彼等がいなければ、ろくに籠城の準備も出来なかったであろう」
力強く頷く源五郎叔父さんを後目に、お義父さん達と目を合わす。
「はなしはきいております。おとうさま、こたびはまことにありがとうございました」
「ふっ、なに大した事ではございませぬ。安土城に居る皆が一丸となって動いた故に、今があるのです。皆、本当に大した方々ですな」
「それに、私は父上共々織田家に忠誠を誓った身、上様と岐阜中将様を御救いするなど、当たり前のこと。勿論、義理の息子の為でもありますし……ね」
氏政・氏直お義父さん達は、そう言ってカラカラと笑ってみせた。本当に頼りになる人達だ。
お義父さん達が安土城に居るならば、幾らでも持ち堪える事が出来るだろうな。
俺は、不意に父上達の姿が無い事に気付いた。もしかして、まだ治療中なのだろうか……?
「じいさまとちちうえは、いずこにおるのだ? 」
俺の素朴な疑問は、風に乗って家臣達の耳にも入る。その途端に、一同暗い顔で俯いてしまい、俺の中では嫌な予感がぐるぐると渦巻いていた。
「…………三法師様、御案内致します故こちらへ」
やって来た小姓に案内され、俺はある一室の前に通された。そこには、重苦し空気が漂っており、どうにも嫌な予感がした。
「…………ここ……か? 」
「はっ、私は此方で控えております故、どうぞお入りくださいませ」
「………………わかった」
一度深呼吸してから中へ一歩踏み込むと、そこには床に伏せるじいさんと親父の姿があった。
「そんなっ! ……じいさまぁ……ちちうえっ! 」
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