第82話
天正十年 五月 日野城 蒲生忠三郎
それは、陽が昇り始めた早朝のこと、安土城より訪れた急使が始まりだった。
その日の私は、庭先にて槍術の鍛練に勤しんでいた。あまり歳の変わらない勝蔵が、先の武田征伐で武功を挙げ若狭国国主にまで、瞬く間に上り詰めたことが切っ掛けだ。
彼の努力を知っていた私は、凄く嬉しかった! 報せを受けた時、思わず泣いて喜んでしまう程にだ!
だが、それ以上に私も頑張らなくては! ……そんな思いが、胸を熱く刺激した。私も負けていられない! このまま、置いて行かれたく無い!
――私は、勝蔵の好敵手でありたい。
そんな一心で、日々精進していたのだ。
そんな折に、血相を変えた父上が私の元に駆け込んで来た。普段、温厚な父上が見せないその姿に、酷い胸騒ぎを感じてしまう。
「忠三郎っ! こっちに来なさい! 」
「えっ? ち、父上!? 」
父上は、困惑する私の右手を強く掴むと、一目散に父上の私室にまで引きずり、周囲を伺うようにして襖を閉じた。
「はぁ……はぁ……父上! 一体何事ですか!? 」
ようやく右手を解放された私が、父上の言動を問いただす為に近付くと、そこには悲痛な表情を浮かべた父上の姿があった。
「ち、父上? 」
「昨夜未明、本能寺に宿泊中の上様を明智様が襲撃なされた。上様は何とか脱出出来たのだが、重症を負っているとのこと。現在は、二条城にて岐阜中将様と共に身を隠しておられるそうじゃ」
「……なっ!? 明智様が、謀反っ!? 」
父上から語られる情報に、思わず身体がふらついてしまう。いっその事、このまま倒れてしまった方が楽になれるだろう。
だが、私には上様に返しきれない大恩のある身! 最愛の妻に出逢えたのも、蒲生家が大きくなれたのも全ては上様のおかげでは無いか!
――今、ここで忠義を示さねば、一体何処で示すと言うのか! 私は、この『忠三郎』の名に恥じない生き方をしたいっ!!!
そんな決意が力に変わったのか。今、自分が何をすべきなのか、それが脳裏を駆け巡っていく。
「二条城に居られる上様と岐阜中将様の救出。それが、私達のすべきこと……ですね」
私が先に答えを出したからか、父上は一瞬驚いたように右眉を動かしたが、直ぐに満足気に頷かれた。
「うむ、その通りだ。事は一刻を争う。今直ぐにでも、二条城へ出陣せねばなるまい。我等の手勢は二百と心許ないが、幸いなことに安土城より千の兵が合流する手筈になっておる」
安土城からの援軍を入れて、これで千二百……か。明智軍一万と対峙するには、あまりにも小勢と言える。
であれば、自ずと私達に求められる役割が読めてくると言うもの。
「私達は、あくまで上様と岐阜中将様の救出に専念し、明智軍と対峙せぬように速やかに安土城まで撤退する」
「うむ、上出来だ。良いか、お主は上様と岐阜中将様のことだけを考えよ。例え、途中で誰が死のうとも、決して足を止めるなっ!!! 」
「……っ! はいっ! 」
後になって思う……きっと、父上にはあの未来が見えていたのだ……と。
その後、日野城を出発した私達は、巳の刻頃に京へ入った。そこには、私が知る京とはかけ離れた光景が広がっていた。
「人が……居ない……のか? 」
辺りを見渡しても人っ子一人見つからず、まるで廃墟のような寂しい空気が漂っていて、無意識に冷たい汗が流れる。
普段だったら、この時間は道沿いに人が溢れていて、都らしい活気溢れる姿を見せると言うのに……これは、一体…………。
呆然と立ち尽くしていると、いきなり頭に衝撃が走る。何事かと振り向くと、そこには握り拳を震わせる父上の姿があった。
「愚か者! 己の責務を忘れたかっ! 」
父上の怒声が鼓膜を刺激し、そのおかげで正気に戻ることが出来た。そうだ……今は、京の様子を気にしている余裕は無い。直ぐにでも、二条城へ向かうことを優先せねば!
「も、申し訳ございません」
「ふぅ……分かれば良い。皆も聞け! 儂等が京へ入ったことは、直ぐにでも明智光秀の耳に入るだろう。ここからは、時間との勝負じゃ。遅れる者は、容赦無く置いて行く……良いな! 」
『御意! 』
父上を先頭に、最短距離で二条城へ向かう。
あぁ……どうか、どうか間に合って下され!
休憩すら取らず走り続け、遂に二条城が見えてきた。周囲を伺っても、戦いが始まっている気配も無く、ひっそりと佇む様子に思わず胸を撫で降ろす。
そして、私達一行はそのまま門番の所まで駆け寄って行った。
「もし! 日野城より参上致した蒲生にございます! お通し願いたい! 」
「しょ、少々お待ち下さいませ! 」
私達の登場に、門番の片割れが急いで中へと駆け込んで行く。時間が無い私は、思わず焦燥感に駆られてしまい、必死に苛立ちを抑えていた。
『もしも、すぐ側まで明智軍が近付いていたら、一体どうするのか! 』そんな思いが、脳裏を駆け巡っていく。門番の彼等からしたら、至って己の職務を全うしているだけなのに……だ。
そんな当たり前のことに気付けぬ程、今の私には余裕が無いのだ。半刻以内で無ければ、彼奴らどうしてくれようか。
しかし、私の心配は杞憂だったらしく、直ぐに一人のご老人が顔を出てきた。
「あぁ……蒲生殿。貴方が救援に来てくださったのですね。誠に忝ないっ」
「む、村井殿! 御無事でしたか! 」
父上と抱き合いながら、喜びを分かち合うその姿に、私はようやくご老人の正体が分かった。
村井吉兵衛殿……上様から厚い信頼を受け、京都所司代を務めた御仁。しかし、今の彼は酷くやつれており、痛ましいお姿に変貌していた。
「吉兵衛殿……」
「おぉ……これは、忠三郎か! 立派になりおって! お主も駆けつけてくれたのだな。忝ない」
嬉しそうに手を握ってくる村井殿に、思わず目を逸らしてしまった。……その両手が、あまりにもやせ細っていたから…………。
「いえ……それより、上様は? 」
「………………案内致そう」
村井殿は、そう顔を伏せながら答えると、重い足取りで中へと案内してくれた。
そんな彼の様子に、少々胸騒ぎを感じながら進むと、とある一室に案内された。私は、震える手で襖を開けると、そこには床に伏せる上様の姿が見えた。
「上様っ!!! 」
慌てて駆け寄ると、僅かにだがしっかりと息をしていることが確認出来た。
『上様が、生きておられる』ただそれだけで、瞳から溢れた涙が畳を濡らしていく。
「よく来たな……忠三郎」
涙を流しながら座り込んでいると、突然声をかけられた。私は、驚きながらも声の方を向くと、岐阜中将様が近付いて来るのが見え、慌てて平伏する。
「こ、これは、岐阜中将様! 挨拶が遅れまして、申し訳ございませんっ! 蒲生忠三郎賦秀、参上仕りましたっ! 」
「はっはっはっ! そう固くなるな。良くぞ、来てくれたな! 大儀であるぞ! 」
「ははっ! 」
このような状況ではあるが、いつもと変わらぬ気さくな御姿だ。思っていたよりも、元気な御様子に胸を撫で降ろす。
「来て早々で悪いが、直ぐにでも二条城を出ねばならん。力を貸してくれるな? 」
「勿論にございます! この身に変えましても、上様と岐阜中将様を無事に安土城まで送り届けてみせまするっ!!! 」
「うむ、期待しておるぞ」
「ははっ! 」
絶対に、この御方を救ってみせる! そんな決意を固めた私に、死神の足音が近付いて来ていたのだ。
「失礼致しますっ! 」
血の気の引いた様子で、慌ただしく小姓が部屋に駆け込んで来ると、絶望の幕開けを語った。
「明智軍が来ます! お逃げ下さいませっ!!! 」
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