第81話

 天正十年 五月 二条城 織田信忠




 ふと空を見上げれば、黒煙が真っ直ぐ伸びているのが見える。そろそろ京の民達も起きる頃合、此度の一件で京は大混乱に陥るだろう。


「よもや、こんな事になるとは…………」


 横に視線を向ければ、父上がおびただしい包帯に包まれながら床に伏せっている。




 ――何とか、生きて帰らねば……。




 そんな事ばかりが、脳裏を埋めつくしていく。助けを待つしか無いこの状況が、歯痒くて堪らない。


 だからだろうか……あの日の事を、未だに鮮明に覚えている。京へ向かう事になった……運命の日を。父上が襲撃された……絶望の幕開けを。






 俺も父上も、本来ならば京に滞在する予定では無かった。父上は安土城にて茶会の準備を進め、俺は徳川殿の接待で堺にいる筈だったのだ。


 あの日は、堺の豪商今井宗久殿の館にて、徳川殿と茶を嗜んでいた。


 素朴ながらも、そこはかとなく雅さを感じさせる素晴らしい茶室。城に匹敵する価値を誇る茶器。今井殿が点てられる茶は、とても味わい深く心の安らぐモノであった。


 まさに、天下の豪商の名に恥じぬ催し。徳川殿も、満足気に微笑んでいた。


「徳川殿、堺遊覧はどうでしたか? 」


「いやはや、誠に素晴らしい歓待にございました。このような粋な計らいをして下さった上様並びに、岐阜中将様には何と御礼申し上げれば良いか」


「いえ、徳川殿に楽しんで頂けたのなら、それで良いのです。それに、私は所詮父上の前座ですからな。安土城にて行われる茶会が、今から待ち遠しいですよ」


「それはそれは…………否が応でも、期待してしまいますなっ」


『ふふっ……はっはっはっ』


 冗談を交えながら、朗らかに笑い合う二人。第三者から見ても、良好な関係を築いていると思えよう。


 対面している俺ですら、徳川殿の立ち振る舞いに違和感を感じられない。心底楽しんでいるように思えてならない。


 もしも、これが擬態だとしたら……化け物だ。




 そんな中、お供として同行していた長谷川が、一通の文を片手に駆け寄ってきた。


「失礼致します。殿、上様より文が届きましてございます。ご確認くださいませ」


「なにっ? 父上が? 」


 視線で長谷川に問いかけるも、無言で頷かれてしまった。致し方無く、徳川殿に断りを入れてから内容を確認すると、『本能寺にて、公卿との打ち合わせ有り。奇妙も、参加されたし』と、書かれていた。


「うむぅ…………」


 公卿が、一体何用か? 確かに、安土城にて行われる茶会に出席予定だが、わざわざ呼び出すとは……。


 もしや、三職推任について……か? 否、アレはもう話しがついた筈。では、暦…………か?


 いくら考えても答えは出ず、悩みに悩んでいると、そんな俺の様子が気になったのか徳川殿が尋ねてきた。


「岐阜中将様、どうなさいましたか? 」


「いや……実は…………」


 俺は、少々恥ずかしげに父上からの呼び出しを語ると、徳川殿は心配そうに気遣ってくださった。


「なんと、上様がっ! それは、いけません。私のことは置いといて、今直ぐ上様の元へ馳せ参じた方がよろしいのでは? 」


「いえ、客人である徳川殿を放置して京へ向かうなど、無礼でございましょう」


 俺は、首を振って難色を示すも、徳川殿は朗らかに笑ってみせた。


「私は大丈夫ですぞ。長谷川殿もおりますし、京で長居する訳でも無いのでしょう? でしたら、私はこちらにて待っております故、岐阜中将様は上様の元へ」


「……本当によろしいので? 」


「いやはや、私も少し疲れが溜まっていましてな。ここで、ゆっくり休ませていただきます」


 腰に手を当てながら、苦笑気味に話す徳川殿。そんなおどけた姿に、思わず毒気が抜かれた俺は、お言葉に甘えさせていただくことになった。






 堺を出て二日、京へ入った時には既に陽が落ちており、父上との謁見を明日にし、妙覚寺にて身体を休めることにした。




 事態が急変したのは、その晩のこと。


 安らかに眠っていた俺は、突然の物音に気が付き目を覚ました。ふと周囲を伺えば、皆やけに騒がしくしている。


 そんな様子に疑問に思っていると、小姓の声が聞こえてきたのだ。


「失礼致します。と、殿……お目覚めでしょうか? 」


「何の騒ぎか! 説明せよ! 」


 俺の問いかけに、小姓は静かに部屋に入ると、顔面蒼白な様子で語り始める。


「う、上様が……先程運ばれてまいりました。酷い火傷を負っており、皆……混乱しています」


「ち、父上が? ど、退けっ!!! 」


 嫌な胸騒ぎと共に駆け出すと、人溜まりが出来ている場所に辿り着いた。


 そこには、苦しげな表情を浮かべる父上の姿があった。息も荒く、着物の隙間からはおびただしい包帯が見える。素人目で見ても、危険は状態であった。


「ち、父上っ! 一体これはどういう事じゃ! 」


 焦燥感に駆られながら周囲の者達に問いかけると、一人の女が歩み寄ってきた。


「…………岐阜中将様」


「お主……確か、三法師の……」


 そうだ……確か、桜と言ったな。三法師子飼いの忍びが、何故ここに居るのだ?


 そんな疑問は、彼女から語られる衝撃の事実に、一瞬で上書きされてしまった。


「明智光秀が、一万の軍勢を率いて本能寺を襲撃致しました。救い出せたのは上様のみ、本能寺に居た御共衆は……おそらく……もう……」


「十兵衛……だとっ!? 何故彼奴が……」


 謀反……その言葉が、一瞬にして脳裏を埋めつくす。確かに、父上は数多くの裏切りに会ってきたが、まさか忠臣である十兵衛がっ。


 俺は、悔しくて悔しくて右手で裾を握り締める。




 ――あぁ……そうか、アレは罠か。






 明智光秀の次の狙いは、確実に俺だ。この妙覚寺では、防御も薄く心許ない。それ故に、二条城へ移り籠城の構えをし、今に至る。


 そろそろ日も明ける頃合、いつなんどき明智軍が攻め込んで来ても不思議では無いだろう。


 正直に言えば、このままでは勝ち目が無い。この二条城には、五百の兵しかおらんのに対して、相手は一万の大軍。攻め込まれれば、一刻と持たないだろう。


 闇に紛れて、安土城に向かう策もあった。だが、重症の父上の治療に手間取ったこと、京中に放たれた明智軍に見つかる可能性を考え、救援を待つことになったのだ。




 ――明智光秀に見つかるのが先か、救援が来るのが先か………………。




 そんなことを考えていた直後、慌ただしい足音と共に小姓が駆け寄ってきた。




「失礼致します。殿っ! ――――――」


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