第80話
天正十年 五月
上野国 丹羽長秀 五月二十九日
「東の抑えに専念せよ……か」
そう……ぽつりと呟くと、儂は文を畳んだ。
先刻前、陽が落ちる間際に届いた文には『明智光秀、謀反』と言う衝撃的な内容が書かれていた。
正直に申せば、明智殿を許すことは到底出来ないっ! この手で、その首をたたっ斬らねばこの怒りを抑えることは出来ない程に……。
だが、今ここを空にする訳にはいかん。武田征伐が終わって日も浅く、信濃国・甲斐国・上野国・駿河国は未だに不安定だ。それに、上杉家や、関東・奥州勢を抑える必要もある。
三法師様も、それが分かっているからこそ、儂には援軍を求めなかったのだろう。
口惜しいが、致し方無し……か。
儂は、文を丁寧に懐にしまうと、返答を待っていて下さった水仙殿と目を合わせた。
「御命令、しかと承りました。東の抑えは、この五郎左にお任せ下さいませ。……そう、三法師様にお伝えくださいませ」
「御意」
あぁ……上様、奇妙様。どうか、御無事でっ。
この時、儂は思いもしなかった。まさか、滝川殿と北条殿が大軍率いて上洛する気だとは……。
分かっていたなら、絶対止めたと言うのに……。
摂津国 神戸信孝 五月二十八日
それは……長宗我部討伐の為、摂津にて最終打ち合わせをしていた際に起こった。
本陣には、総司令官の俺と、その横に副将池田恒興・九鬼嘉隆・津田信澄がいた。少々到着が遅れているが、これに蜂屋頼隆率いる三千も加わり総勢一万六千にも及ぶ大軍になる予定であった。
計画は順調、六月上旬には進軍開始の目処が立っていた。
だが、その軍議中に現れた三法師の忍びを名乗る女がもたらした情報は、我が陣中をかつてないほどの混乱に陥れることになる。
「も、もう一度申してみよ……」
「はっ! 明智光秀謀反! 本能寺にご宿泊中の上様を襲撃! 幸い御無事にございますが、未だ明智軍の脅威は健在にございます! こちらは、三法師様よりの文にございます。お確かめくださいませ! 」
俺は震える手もそのままに、文を読み始める。そこには、確かに三法師の直筆で明智光秀謀反と書かれていた。
「う、嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃぁぁぁぁっ!!! 父上……兄上……そ、そんな…………」
俺は、思わず頭を抱えて蹲ってしまう。あまりにも衝撃的な内容に、思考が全く追いつかない。
一体、俺はどうすれば………………。
「神戸殿っ! お気を確かにっ! 神戸殿ぉっ! ……おい女! 貴様、誠に三法師様の使いなのか!? 儂等を混乱に陥れる為に、何処ぞの大名が放った間者では無いのか! 」
「九鬼殿、言葉が過ぎますぞ! 竹殿は、間違いなく三法師様の配下の者。面識がある某が保証致す! 」
「ぬぅ………竹殿、失礼致した」
「……いえ、気にしておりませぬ故」
「まぁまぁ……落ち着きなさいませ。仲違いしている場合では、ござらんでしょう」
「随分落ち着いておりますな。確か……津田殿は、明智光秀の娘婿でしたなぁ。よもや、此度の謀反に加担しておるのではありませぬか? 」
「ば、馬鹿を言うな! 誰が主君殺しに加担などするものか!!! 私は、織田家に……上様に忠誠を誓っておる! 」
「口では、何とでも言えるわぁっ! 」
「貴様っ!!! 」
――ふと気が付くと、軍議は混沌と化していた。津田と九鬼は、今にも太刀を抜きかねん程険悪な雰囲気を漂わせており、それを池田が必死に止めている。
そこで、ようやく正気に戻ることが出来た。あぁそうだ……俺は、偉大な父上の息子。一軍を束ねる将なのだ。
俺が……俺がしっかりせねばならん!
「そこまでだっ!!! 」
俺の叫びが陣中に響き渡り、一同驚愕の視線を向ける。それもそうだろう。先程まで、無様に醜態を晒していたのだからな。
だが、今は違う。覚悟を決めたのだ。
「長宗我部討伐は中止! 我等はこの摂津にて、陣を敷き対明智光秀に備える! 」
「な、何故ですか? ここからならば京も近く、逆賊明智光秀を討伐する絶好の機会ではありませんかっ! 」
俺の言葉に、九鬼は食い気味に反対した。確かに、ここから京は近い。
だが、それには大きな見落としがある。……皆の顔を見渡してみれば、池田だけが納得の表情を浮かべていた。
「成程、畿内には明智光秀の息のかかった者達が多い。筒井順慶・高山右近・中川清秀……そして、細川藤孝。これらが明智光秀に組みしているのならば、奴らを牽制する為にも摂津に留まるのは上策かと」
「そうだ! 三法師からの文にも、父上達を救出次第、安土城にて諸国の軍勢を待つとある。我等が見据えるのは、その後起こる明智光秀との決戦である! 」
それに……兵達の混乱も酷く、これではろくに戦えぬだろうしな。
「津田信澄……お主は、我等の監視下に置かせて貰う。疑いたくは無いが、事が事だからな。不当な扱いはせぬが、文などは禁止だ。……良いな? 」
「…………御意」
不承不承ながらも納得した津田を、配下の者達が連行して行った。俺は、それを後目に右手を強く強く握り締める。
……三法師、頼むぞっ。
堺 徳川家康 五月二十八日
安土城へ向かう為に、出立準備を進めていたワシ等の元に『明智光秀、謀反』の報せが届いた。
「そ……そんな…………」
「長谷川殿っ! お気を確かにっ! 」
「誰か、早く水を持って来い! 」
岐阜中将様より、ワシの接待役を引き継いだ長谷川竹殿が、三法師様から届いた文を読み気絶してしまった。
その場は、まさに混乱と化しており、誰も彼もが自由気ままに感情を曝け出す始末。ワシは、この胸の内を悟られぬように必死だった。
――あぁ……信長を討ち漏らすとは、使えない男よ。せっかく、半蔵が間者を始末してやったと言うのに…………。
一人物思いにふけっているうちに、どうやら長谷川殿が目を覚ましたようだ。
ワシは、恐怖に怯える長谷川殿の手を握り締めながら、気丈に振る舞ってみせた。
「長谷川殿っ! このワシにお任せ下さい! 直ちに京へ向かい、逆賊明智光秀を見事討ち取ってみせましょうぞ! 」
「と、徳川殿っ」
「徳川家は、織田家の一番の盟友にございます! 例え、そこで息絶えようとも、命をかけて一矢報いる!!! それこそが、忠義と言うものっ!!! 」
ワシの宣言は、今までの騒動が嘘だったように、周囲の者達を静まり返させた。
そんな中、いち早く正気に戻ったのは、ワシに同行していた徳川家家臣達である。
「お、お待ちくださいませ! こんな手勢で攻め入っても、返り討ちになるだけにございます! 」
「小五郎殿の言う通りにございます! どうか、どうかお考え直しを! 」
縋り付くように説得してくる小五郎達を、右手で薙ぎ払い勇ましく吠える。
「戯けが! 敵を前にして逃げるなぞ、武家の風上にもおけぬ恥さらしぞ! 後世に汚名を残すくらいならば、ここで勇ましく散ってくれるわ! 」
滅多に見せぬ凄まじいワシの剣幕に、家臣達がたじろいでいる中、平八郎だけが冷静にワシを諭してきた。
「……冷静になってくださいませ。上様も岐阜中将様も、御無事なのです。ここは、三河国に帰り態勢を整え援軍を送ることが上策かと」
「うむぅ…………」
平八郎の忠言にたじろぐワシに、正気に戻った長谷川殿が駆け寄ってきた。
「そ、そうでございます! 未だ、上様も岐阜中将様も健全! 明智光秀の謀反は失敗したのです! 直ぐにでも、諸国の大名達が軍勢を率いて討伐に向かう筈」
長谷川殿は、そこで一旦話しを区切ると、感極まった表情を浮かべながら手を握り締めてきた。
「徳川殿の厚い忠義、感服致しました! 忝のぅございますっ! ですが、今は各々自国に戻り態勢を立て直すことが最善でしょう。何より、徳川殿のようか忠義に厚い御仁を失うのは、この私が耐えられませぬっ」
「……………………」
長谷川殿の言葉を受け、俯いたまま微動だにしないワシに、多くの視線が集まる。そして、数拍した後に顔を上げたワシは、重苦しそうに頷いた。
「長谷川殿がそこまで言うのでしたら、致し方無し。浜松城まで、帰還致しましょう」
「徳川殿っ」
「そして、直ぐにでも軍勢を率いて上洛致します。少々お待ち下さいませ! 」
「……っ! 忝ないっ………………」
長谷川殿に道案内をして貰いながら、一行は伊賀を目指す。そんな道中、静かに半蔵を横につけると、他の者に聞かれぬように小さく呟いた。
「半蔵……首尾はどうだ? 」
「…………ご心配なく、安心してお進み下さい」
「うむ。大儀である」
ふふっ、ワシが間者を始末したことは明智光秀に背負って貰うとするか。奴の敗因は、本能寺で信長を討て無かったことよな。
徳川家が生き残る為にも、ワシ自ら軍勢を率いて出陣し、織田家への忠義を示さねばな。
――まぁ……元々、ワシは便乗しただけだ。明智光秀が捕らわれても、ワシの名は出るまい。
備中国 高松城 羽柴秀吉 五月三十日
高松城を攻め始めおよそ二ヶ月、水責めにて高松城を孤立させて十日が過ぎた。
この水責めによって高松城の士気は下がり、落城寸前。長らく膠着状態であった戦いも、いよいよ大詰めを迎えようとしていた。
そんな時、『明智光秀、謀反』の報せが入ったのだ。アレは……そう。官兵衛と共に、毛利家が提示した和睦内容を吟味していた時のことじゃった。
「日向守……が、謀反だと……っ!? 」
「はっ! 二十八日未明、本能寺にご宿泊中であった上様を一万の大軍で襲撃致しました! 」
陣中に突如として現れた桔梗殿は、普段の凛とした涼やかな印象とは異なり、泥に塗れ余裕の無い強ばった表情を浮かべていた。
そんな桔梗殿の姿に、報せの信憑性の高さを思い知らされ、震える手で文を読みといた。
そこには、『毛利家に、明智光秀謀反を知られてはならない・毛利家との和睦、但し完全決着をつけること・期限は無し』と、書かれていた。
わしは、情報の秘匿をする為に文を腹に収めると、未だに平伏を続ける桔梗殿と目線を合わした。
「良くぞ……良くぞ報せて下さいました! 桔梗殿の忠義、この藤吉郎が無駄には致しませぬ! 三法師様にお伝えくださいませ! 必ずや、御命令を達成してみせますとっ! 」
「……っ! ははっ! 」
音も無く去って行く桔梗殿を見送ると、早速とばかりに官兵衛に指示を出す。
「官兵衛っ! 恵瓊を呼び出せ! 毛利家との和睦を進めるぞ! 但し、毛利家に悟られぬように慎重に事を運ぶ。わしが、逆賊明智光秀を討つ必要は無い。とにかく、毛利家が一気に京へ攻め入ってくるような最悪の事態を招いてはならん!!! 良いなっ!!! 」
「……………………」
鼻息荒く陣から出て行こうとするも、後ろから官兵衛がついてくる気配が無い。
一体どうしたのかと後ろを振り向くと、そこには薄暗い笑みを浮かべる官兵衛の姿があった。
「官……兵衛? 」
「殿、これは好機ですぞ! 貴方様が明智光秀を討てば、一気に織田家家中を統べることも可能! 上様と岐阜中将様の状態によっては、貴方様が天下を…………」
官兵衛が最後まで言い切るのも待たず、わしは全力で殴り飛ばした。右手の震えを左手で抑えようとするも、全く治まる気がせん。
それほどまでに、官兵衛への怒りが一向に治まらんかったのだ!
「この痴れ者がっ! 二度と、そのような戯れ言を申すな! 次は、その首をたたっ斬るぞっ!!! 」
「………………申し訳ございませぬ」
「ぐぬぅ……分かったなら早く来い! 」
わしは、何とか怒りを抑える為に陣から出て行った。官兵衛の顔を見ていると、怒りで頭が染まりそうだからだ!
だが、わしには官兵衛の頭脳が必要不可欠。ここは、我慢致そう。それよりも、重要なことがあるのだからな……。
上様……奇妙様……三法師様……どうか、どうか御無事でいてくだされっ。
「…………殿……貴方は、いつからそんな……つまらない男になったのですか…………」
天正十年五月二十八日午前十時半。明智軍が、本能寺跡より織田信長の遺体らしきモノを発見。そして、本能寺跡からほど近い二条城に織田信忠が居ることを掴むと、兵を進めた。
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