第56話

 天正十年 一月 安土城




 年賀の挨拶も無事に終わり、俺は部屋に戻っていた。親父達は評定に参加している為、ここに居るのは俺と雪だけだ。


 評定が始まったのは午前中、今回は長くなりそうだから終わるのは夕方頃かもしれないな。


 各戦況の報告もあるが、やはり一番の議題は武田討伐だろう。日ノ本最強と謳われた武田家も、今や見る影もない。


 名門武田家、武田騎馬隊、甲斐の虎武田信玄……日ノ本の大名達ならば、知らない者はいないだろう。


 そんな武田家に対して、どのような対応をするかで今後の織田家の行く末を決めることになる。


 一族郎党皆殺しか、慈悲を与えるか……両方にメリットデメリットが有り、その時の状況次第で適切な対応をしなければならない。


 …………策はある。これが吉と出るか凶と出るか。




 部屋の中央に座り込み、様々な考えが脳裏を駆け回る。これからどうするか、どうすれば良いのか……そんなことばかり思っていると、不意に誰かに両手を握られ思考の海から帰ってくる。


 視線の先には、儚い微笑みを浮かべる雪の姿があった。


「殿……また、恐い顔になっておいでですよ? 」


「ゆき……」


「何事も、考え過ぎてはなりませぬ。どうか、私と共にいる短い間だけでも、心を休ませてくださいませ」


 ゆっくりと優しく抱き締め、頭を撫でてくれる。そんな彼女の温もりは、確かに俺の心を癒し穏やかな気持ちにさせてくれた。


「ゆき、ありがとう」


「ふふっ殿が望まれるのでしたら、いつでもお傍で寄り添いますよ」


 そう言って微笑む姿が、どれだけ頼もしかったか。雪だけでは無い、他にも多くの人達が俺を支えようとしてくれる。


 それだけで、心が軽くなるようだ。




 雪の腕の中で寛いでいると、静かに戸が開き藤姫と甲斐姫が入ってきた。二人は、俺と雪を見比べると、穏やかな表情で近付き抱き締めてきた。


「また、一人で抱え込んでいたのですか? わたくし達は、婚約者です。生涯支えると誓い合ったのですから。そのことを、どうか忘れないでくださいませ」


「うむ! 旦那様は少々抱え込み過ぎですね! 辛くなったり、困ったことがあるならば私共に言ってください。共に悩み、共に苦しみ、共に喜びを分かち合う……そんな家族になろうと約束したではありませんか! どうか、もっと私共を頼ってくださいませ! 旦那様っ! 」


 ……なんて、真っ直ぐな想いなのだろうか。


 俺は、ただただ彼女達を抱き締めることしか出来なかった。この腕の中にある確かな絆を、絶対に手離したくない……そう願って。


 彼女達こそが、俺の帰るべき場所だ。どんなに辛くても、どんなに苦しくても彼女達はきっとこの場所に居てくれる。守ってくれている。俺が帰って来れるように……。


 ありがとう……そんな言葉しか出て来ない自分がもどかしい。いつかきっと、もっと相応しい言葉でこの想いを伝えることが出来るだろうか。






 それから四人仲良く談笑していると、突如として勢いよく戸が開かれた。


 あまりにも突然の出来事に、先程まであった和気あいあいとした雰囲気も消え去り、痛いくらいの静寂が場を支配する。


 開かれた戸の先にいたのは、一人の美少女。


 つり目だがキツくはなく、スッと高い鼻に桜色の唇、勝気な表情がなんとも魅力的であり、何処か見覚えのある女の子であった。


 そこで不意に、一年前の出来事を思い出す。確かあの時も、こうやって勢いよく戸が開かれ…………あ、あぁ! 茶々じゃないか!


 言われてみれば、確かに茶々の面影がある。一年という時間の中で、彼女は更に美しく成長していたからか、全然分からなかった。


 ようやく正体に気付いた俺は、茶々に声をかけようとするが、何やら俺達を指差しながらぷるぷる震えている。顔は真っ赤に染め上がり、瞳は燃えるような輝きを秘めている。さながら、噴火直前の火山のようだ。


「ふ、増えてるではないかぁぁぁあああああああああぁぁぁっ!!! 」


 茶々の怒号は、思わず身を縮こませる程の恐怖があった。茶々の放つ覇気によって、空間が歪んだのでは無いかと思ってしまう程、凄まじいプレッシャー。流石は、魔王の姪だ。




 ずんずん近付いてくる茶々に対して、ガタガタ震えるしか出来ない。……何故、こんなにも怒っているのだろうか? 俺にはさっぱり分からん。


「久しぶりじゃのぅ三法師。まさかとは思うが、妾のこと見忘れたか? 」


「……きれいになっていたから、きづかなかったよ。ごめんね? 」


「…………なぁっ!? 」


 とりあえず思ったことをそのまま伝えると、急に狼狽えだした。視線は忙しなく動き、頻りに髪の毛を弄っている。


 先程まで感じていたプレッシャーも、いつの間にか無くなっていた。どうやら、危機を回避出来たようだな。




「ふ、ふん! こんなにも女を囲っているだけあって、随分口が回るようになったでは無いか。そうやって、幾人もの女を口説いたのじゃろうな」


 しかし、どうやら未だに不機嫌なのか。そっぽを向きながら、罵倒してきた。


 少し悲しい気分になっていると、突然藤姫が立ち上がり茶々を思いっきり睨んだ。流石にここまで言われて、我慢出来なくなったのだろう。


「先程から、随分な言い草ですわね。それ以上、旦那様を侮辱するならば容赦致しませんわ」


「だ、旦那様!? そうか……貴様が件の婚約者の片割れか……。妾は、叔父上……織田前右府様の姪にあたる茶々と申す。名を名乗るが良い」


「北条相模守が娘、藤姫と申しますわ。お茶々様どうぞ、お見知り置きを」


「…………ふん! 」


 両者の間に、凄まじい火花が散っている。両者一歩も引かない意地と意地のぶつかり合い……先程とは、違う意味で震えが止まらない。


「かい、なんとかならんかのぅ? 」


 ヒシッと甲斐姫に縋り付きながら救援を求めるも、甲斐姫は首を縦には振ってくれなかった。


「旦那様、女には負けられない戦いがあるのです。そして、二人にとって今がその時! 邪魔建てするのは、無粋と言うもの! 男ならば、黙って受け止めてあげなさい! 」


「そ、そんな……」


 あまりにも無慈悲な沙汰に、思わず視界が真っ暗になる。逃げ出したい気持ちを必死に堪えて視線を前に向けると、更にプレッシャーの高まった二人がいた。




「では藤とやら、そこを退くがよい。三法師は、これから教育が必要じゃからのぅ」


「あらあら、それは無粋ではございませんか? 旦那様はお疲れのご様子……今はゆっくりと身を休めることが適切でしょう。まさか、そのようなことも分からぬとは、言いませんわよね? 」


「…………ならば、一門である妾自らもてなそう。古くから親交があり、この安土城を熟知している妾こそ適任と言えような。貴様は、ここで休んでいると良い」


「…………それこそ、愛し合い心を許しているわたくし達の方が、適任と言えますわ。こうやって傍で寄り添うだけで、心は穏やかになると言うもの。城内を巡る必要性は皆無ですわね。タダの親族であるお茶々様は、どうぞお引き取りくださいませ」


「……っ!! ほぅ、随分な言い草では無いか。タダの政略結婚の分際で、愛を語るか」


「あぁ、お茶々様にはお分かりになられませんよね? それは、致し方無いことですわ。だって、お茶々様は所詮部外者ですもの」


「………………逆光源氏でもする気か、この醜女が」


「……はぁっ? 」


『ふ、ふふ、ふふふふふふっ!!! 』




 空間が揺れる。傍にいるこちらまで害を成す程、重苦しい空気が漂いまさに一触即発だ。


 何故こんなことになってしまったのか、世界はいつだって理不尽の連続だ。


 どうにかして欲しい。そんな願いを込め、頼みの綱である甲斐姫の袖を掴むと、彼女は柔らかく微笑んだ。


「そう言えば、旦那様は椿殿と懇ろな関係だとか」


「かいっ!? 」


 甲斐姫から飛び出した爆弾発言に、思わず声を荒らげるも、すぐ横から放たれる殺気にぎこちなく顔を向ける。


 ………藤姫も茶々も、能面のような顔で俺を見詰めていた。眼だけはドロドロと濁りきっており、二人がやたら美人なだけあり、凄まじく異彩を放っていた。


「旦那様? 」


「三法師? 」


『少し、お話しが必要みたいですね(じゃな)』


 ジリジリと近付いてくる二人に、思わず後ずさってしまう。甲斐姫の方を向けば、如何にも『私、怒ってます! 』と言わんばかりに、ぷりぷりしている。雪は、先程から姿は無い。


 四面楚歌……この状況を適切に表す言葉だろう。思わず、懐の扇を握り締め師匠に助けを求める。


 <師匠! お願い助けて!!! >


 <…………三法師様、何事も諦めが肝心ですぞ>






 世界は、いつだって理不尽の連続だ。

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