第32話 干渉

 目の前に恐ろしいほどの闇が広がっていた。

 闇の奥の奥から、まるで木霊のように自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


(おいで、こちらにおいて……私とひとつになるのだ……)


 やがて、闇の中から無数の触手のようのものが伸びてきて、自分の身体を絡めとろうとする。


(いやっ! 離してっ!)

(そうか。まだ、現世の肉体に執着があるのだな。捨て去りなさい。それはただの殻、しかも抜け殻だ。自らを縛り付ける檻にすぎん)


 絡みつく触手から逃れようと激しく暴れるうちに、腕がもげ、脚がもげ、四肢がバラバラに引き裂かれていく。

 触手は、身体の内部にまで浸透していき、細胞のひとつひとつ、いやDNAの塩基配列にまで干渉し、分子レベルまでバラバラに分解して全てを闇の中へと飲み込もうとする。


(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ! 気持ち悪いっ! こないでっ! これ以上、私に近づいてこないでっ!)


 自分という存在そのものすら維持できなくなりそうな中、喉の奥から最後の最後に絞り出した叫び声が周囲に響き渡り、鋭利な刃物のように空間そのものを引き裂いていった。



 エリカは、まるで棺のような白いカプセルの中に『目』を見た。

 ドロドロとした不定形の液体の中に浮かぶその無数の『目』が、エリカを一斉に睨みつける。


(立ち去れ! 『私達』に干渉するな! お前の声は世界を破滅させるノイズだ!)


 エリカは悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。

 目の前が暗転し、自分の身体が、周囲の空間が、激しく踊り回るような感覚に襲われながら、エリカの意識は次第に遠のいていった。



 その日、首都圏を襲った直下型地震は、マグニチュード9.5にも達する超巨大なもので、震度7の揺れが首都圏全域で数十分にも渡って続いた。

 その地震は、およそ通常の地震ではありえぬような異常な振る舞いを見せた。

 内陸部の直下型地震では考えられぬほどの桁違いのエネルギーもそうだが、地下数キロほどの震源域が、東京中の地下を数十分に渡ってそれこそ這い回るように移動したのだ。

 この地震による、東京を中心とする首都圏の被害は甚大なもので、被害を受けていない建造物はほぼ皆無といった有様であった。

 耐震構造の一部の超高層ビルですら、常識外れの長時間の激しい揺れに耐えきれず、倒壊してしまったほどである。

 しかも、その後の大規模な火災や、東京湾岸を襲った大津波が、被害をさらに拡大させていた。

 最終的には、この地震による死傷者は数百万にも達し、東京は壊滅的被害を受けて機能麻痺状態に陥ったのである。



 エリカは、白いテントの中で目を覚ました。


「気がついたかね」


 目の前には、エリカと一緒に地下施設に入った黒服の男がいた。


「ここは……」

「地上だよ。まだ研究所の施設内だ」


 エリカは地下ドームで目撃した、あのおぞましい『目』を思い出す。


「あれは、あれはなんだったんですか! あんなの凛なんかじゃありませんっ!」


 エリカはそう言って顔を覆った。


「落ち着きたまえ。君は三日間も昏睡状態だったんだから」

「三日間?」

「そうだ。その間に地上の様子もすっかり変わってしまった。君とあの地下施設に入った直後に東京で大地震が起こったんだよ」


 黒服の男はそう言ってタブレットを差し出すと、壊滅的被害を受けた首都圏の動画をエリカに見せた。

 想像を超えた惨状に、エリカの顔は青ざめる。


「こんな……親が、両親が心配です。早く家に帰らないと!」

「この地震で、交通機関は全面麻痺状態だ。それに、倒壊した建物が道を塞いているし、まだあちこちで火災が発生していて、今出歩くのは非常に危険だ。ここは他の場所よりは幾分安全だから、しばらくはここにいた方がいい」

「でも……」

「君の心配はわかるよ。両親の安否確認は、今私の方でやってるとこだ。ただ、あまりにも被害が大きすぎてね。安否確認に時間がかかってるんだ。」


 男の説明にエリカは肩を落とす。


「こんな時に聞くのもなんなんだが、君はあの地下施設にあったカプセルの中に何を見たんだい?」


 エリカはしばらく沈黙した後、口を開く。


「『目』です。液体みたいなものの中に無数の『目』が浮かんでて、私を……」


 そこまで言って、エリカは再び顔を覆った。


「わかった……余計なことを聞いて、すまないね。」

「君の両親の安否がわかったらすぐに知らせるよ。それまではここで大人しくしてるんだ。いいね?」


 エリカがうなずくと、黒服の男は立ち去った。



(エリカ! エリカ!)


 その夜、テントの中で眠っていると、どこからかエリカを呼ぶ声が聞こえてきた。

 その声につられて、エリカはうっすらと目を開ける。


「えっ! 凛! 凛なの!?」


 簡易毛布にくるまり横たわるエリカを見下ろしていたのは、紛れもない凛の姿であった。

 凛の身体は純白のローブに包まれていて、暗いテントの中、凛の身体の周りだけがぼうっと柔らかい光を放っていた。


(そう、私……)


「ああ、凛!」


 今にも泣き出しそうな顔で、エリカは手を伸ばし、目の前にいる凛の手を握ろうとした。

 だがその瞬間、エリカの手は凛の身体の中をすり抜けてしまう。


「えっ! なんで?」


(ねえエリカ、歌を歌って)


「歌?」


 突然の凛の言葉に面食らうエリカ。


(そう、私のために作ってくれた歌。あなたの歌は私という存在をつなぎとめてくれる……)


 エリカは起き上がると、凛の前に立った。

 いつの間にか、周囲の物音は全て消え失せ、テントの中を静寂だけが支配していた。

 エリカは、かつて凛のために作った曲のうち、一番最初に作った思い出深い曲の一節を静かに歌い出す。

 エリカの歌声に、目の前の凛は目を瞑り、心地よさそうに身体を揺らす。

 狭いテントの中に、エリカの涼やかな歌声が満ちていった。

 テントの外では、今なお至る所で破滅的事態が進行しているというのに、テントの中はまるで別世界のように二人だけの時間が流れていく。

 エリカは歌いながら、次第に自分の周りが上も下もなくなり、全てが眩く輝く光の中に包まれていくのを感じていた。

 その光は、自分の目の前にいる凛の全身から放たれていて、エリカの歌声に合わせて、無数の光の渦が舞い踊った。

 凛の身体から放たれる光は信じられないほど眩いのに、エリカの目には少しもまぶしくなく、身体全体を柔らかく包み込んでいくような優しい感触があった。

 歌い続けるエリカに、やがて凛がゆっくりと手を伸ばし、エリカの両手をしっかり握る。

 エリカは、自分の手に、暖かく柔らかな凛の手のひらの感触を確かに感じた。


「凛っ!」


 エリカの呼びかけに、凛は微笑む。

 手を握り合ったまま、いつの間にか二人の身体は宙に浮いていた。



「やはり、ここにいたのか凛!」


 突然割り込んできた男の声に、テントの中に構築された音と光の伽藍は瞬く間に崩れ去った。


「三神先輩! なんでここに!?」


 目の前に突如現れた三神立志に、エリカは驚いて立ち尽くす。

 だが、三神はエリカの呼びかけを全く無視し、エリカを押しのけ凛の前に立った。


「凛、お前の父親に会ったよ。クソみたいなイカれたオヤジだったが、最後にオレに『印』について教えてくれた。だから、オレは東京がこんな有様になっても、死に物狂いでここにやって来たんだ!」


 そう言うと、三神は凛に手を伸ばそうとする。

 だが、凛は眉をひそめると、三神の手を拒否するように身体を捻った。


「凛! あなた……」


 凛の身体全体の輪郭が、いつの間にか薄くぼやけてきている。


「凛、またオレを拒否するのか?」

「お前をレイプしたあのクズ野郎からオレが助けてやった時、お前は確かにオレに『ありがとう』って言ったよな?」

「だが、あの時もお前はオレに抱かれるのを嫌がった」


 三神は、手の甲に刻まれた傷跡を凛に晒してみせる。


「この傷は、お前があの時ハサミで突き刺したもんだ。目の前のお前の存在と同期シンクロして、ズキズキ痛むのよ。」


「凛、お前はここでオレと一つになれ。お前を牢獄から救い出してやれるのは、他ならぬこのオレだってことを証明してやる!」


 すぐそばにエリカがいるのにも関わらず、三神は凛を押し倒してその上にまたがる。

 三神はそのまま凛の身体を押さえつけると、嫌がる凛の唇を無理やり奪った。

 突然のことに、エリカは足が震えて何もできない。


「や、め、て……」


 凛の唇が微かに動いて、その言葉を発したように聞こえた。

 次の瞬間、凄まじい音と光が周囲を覆って、エリカの身体は吹き飛ばされた。

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