第29話 彼方の旋律
ここは深海の中なのだろうか。
だが、暗闇の中で周囲に瞬く光は星明かりのようにも見える。
上下左右の感覚もなく、自分の身体はただ漆黒の闇の中を漂っている。
(身体? そういえば私の身体ってどこ?)
意識そのものは明確に存在しているのに、自分自身の身体を手足を胴体を認識する事ができない。
周囲の暗闇の中に、自分の皮膚も筋肉も内臓も全て溶け出してしまっているような、そんな居心地の悪い感触を覚える。
肉体は失われ、広大な空間に意識のみ取り残されたような感覚は、一体どれくらい続いたのであろうか。
もはや時間の感覚すらも失われようとした時、周囲に浮かぶ無数の小さな星明かりの一つから、聞き覚えのある旋律が流れ出した。
(ああ、何だろう、なにか懐かしいような……)
その旋律はやがて暗闇に満ち満ちて、空間に溶け出した自分という存在を一つの弦のようにかき鳴らしていく。
(あれっ、手が!?)
自分の手足が、自分の身体が、暗闇の中、明確な形となって現れ、はっきりと認識できる。
(この歌、私知ってる。)
周囲に鳴り響く旋律に、明確になった自分の肉体そのものを同期させて共に歌う。
やがて、自分の身体から眩い光が溢れ出し、周囲の暗闇を全てを包み込んでいった。
「塩海君、大丈夫かい?」
根来の研究室で実験に協力していたエリカは、何パターンかの歌を歌ったところで、突然意識を失ったのだ。
「だ、大丈夫です。ちょっと、目眩がしただけで、体はなんともありません」
「今日は、これぐらいにしとこう。いきなり色々させちゃってすまないね。慣れない環境での実験が、君の心身に予想外の負荷をかけたのかもしれない。三神君、念のため彼女を医務室に連れて行ってくれないか」
「わかりました。塩海さん、立てるかい?」
「はい、自分で立てます」
三神に付き添われ、エリカはキャンパス内の医務室のベッドに横になっていた。
エリカは、体調は問題無いと何度も三神に言ったのだが、念のためしばらく安静にしておいた方が良いと言われて、仕方なくベッドに横になっていたのだ。
「顔色も悪くないし、今のところ体調に問題なさそうだね」
「はい、全然大丈夫です。付き添って頂いてありがとうございます」
「オレは研究室に戻るけど、しばらくはここで安静にしといた方が良いよ」
「わ、わかりました」
「あ、それと戻る前に塩海さんに一つ聞いときたい事があるんだ」
医務室から出て行こうとしていた三神がふと振り返り、エリカに尋ねる。
「何でしょう?」
「塩海さん、自作の歌を吹き込んだCD持ってるでしょ? それ、今度オレに貸してもらえないかな?」
(三神先輩、なんで突然CDの事聞いてきたんだろう。私、先輩にあのCDの話とか一度もした覚えないのに。)
エリカはそんな疑問を抱きながら、大学から自宅に戻り、自分の部屋に入る。
その瞬間、エリカは部屋の中に何か違和感のようなものを感じた。
(あれ、こんなんだったっけ?)
本や雑誌、そしていくつかの小物類の位置が、今朝出かけた時と違う気がするのだ。
「お母さん、私の部屋に入った?」
「いや、今日は一度も入ってないけど?」
エリカは首を傾げ、居間のテレビをつける。
エリカがしばらく居間でぼんやりとテレビを眺めていると、ニュース速報が入った。
都内の医療研究施設で爆発事故があり、複数の負傷者が出ているという速報である。
そのニューステロップで流れた重症者の名前を見て、エリカは思わず目を疑った。
この前エリカのもとを訪れた、石動というヘルスコーディネーターの名があったからである。
エリカがニュースに釘付けになっていると、玄関のチャイムが鳴った。
「エリカ、今手が離せないから、ちょっと出てもらえる?」
母親に言われて渋々立ち上がったエリカは玄関に向かい、ドアを開ける。
ドアの外には、黒いスーツとサングラスをかけた数人の大男たちが立っていた。
ギョッとしたエリカは、思わず後退りする。
「塩海エリカさんですね?」
黒服の大男の一人がそう言ってエリカに声をかけた。
その場に固まったまま何も言い出せないエリカに構わず、男たちはドアを開けズカズカと玄関の中に入ってくる。
「単刀直入に申します。今すぐ我々に御同行いただきたい。非常事態なのです」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「お話は後でします。とにかく我々と一緒に!」
抵抗する間も無く、エリカは男たちに腕を掴まれると、そのまま引きずられるようにして表のワンボックスカーへと運ばれて行った。
エリカがワンボックスカーから降ろされた場所は、先ほどテレビニュースで見た爆発事故のあった医療研究施設の近くであった。
現場は多数の警察や消防、マスコミ関係者で騒然とした雰囲気である。
訳もわからぬまま、混乱状態の事故現場に突然放り込まれ呆然としていたエリカは、黒服の男たちの手によって、今度は待機していた警察の装甲車の中へと連行されていく。
装甲車の中には、数人の警官に囲まれるようにして、エリカが見知った顔の女性がいた。
「凛のお母さん!」
エリカの声に、装甲車の中で俯いて座っていた凛の母親が気づき顔を上げた。
だがその顔は、見知った人間を見つけて安堵するといったものではなかった。
エリカは、なぜか凛の母親から凄まじい形相で睨み付けられたのだ。
「あっ、あの……」
「あんた、凛に何をやった」
「えっ!?」
「何をやったんだよ! お前!」
そう叫ぶと、凛の母親は、いきなりエリカにつかみかかってきた。
周りの警官たちが、慌てて凛の母親を取り押さえる。
「落ち着いてください!」
警官たちに取り押さえられながらも、凛の母親は狂ったように暴れ回り、喚き散らす。
「凛は死んだんだっ! 死んだんだっ! 死んだんだっ! 死んだんだっ!」
「それなのに、お前がっ! お前がっ!」
「おい、あれを!」
エリカを連行してきた黒服の一人が、暴れ回るその身体を押さえつけ、腕に注射らしきものを打って、ようやく凛の母親は大人しくなった。
「あの、一体、これはどういう……」
「色々あって、凛さんの母親も精神状態が不安定になっているんだ。君にも手荒な真似をして申し訳ない。ただ現状は、もはや一刻の猶予もないのだ。我々と一緒にあの建物の中に入ってくれないか、塩海エリカさん」
エリカの目の前にいた黒服の男が、装甲車の防弾ガラスの向こうで、未だ黒煙を上げ続ける建物を顎で指して言う。
「えっ、訳がわかりません! 凛のお母さんや私みたいな人間が、どうしてこんなとこに来なきゃいけないんです……」
「あそこにいるんだよ。あなたの親友、久野原凛さんが」
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