第28話 ゆらぎ

 エリカは告別式で、初めて凛が母子家庭であることを知った。

 凛の母親は、背が高く、華やかで凛々しい雰囲気を持った娘の凛とは対照的に、小柄で痩せていて、生活に疲れたような地味な中年女性であった。

 凛の母親は、一人娘の死にも涙を見せることなく、淡々と参列者のお悔やみに対応していた。

 エリカは、最後の別れに凛の顔を一眼見たかったのだが、その希望は叶わなかった。

 凛の母親が、参列者の誰にも頑なに凛の死顔を見せようとはしなかったからである。

 エリカはただ凛の棺の前で手を合わせることしかできなかった。


 凛の告別式から1週間ほど過ぎた頃のこと、エリカの元に一通の封筒が届いた。

 差出人は凛の母親で、封筒の中にはただ1枚のCDだけが入っていた。


(これ、私が凛に見舞いで差し入れたオリジナル曲の入ったCDだ。凛のお母さん、棺に一緒に入れずに、わざわざ私に送り返してくるなんて……)


 病室の中で凛が繰り返し聞いたであろうそのCDをエリカはプレイヤーにセットし、久しぶりに再生してみた。

 CDから流れる曲は、かつて自分が作詞作曲して、自分の声で歌った曲なのに、まるで見知らぬ他人が歌っているようにも聞こえる。


(なんだろう、この感じ……)


 歌を聴きながらエリカは目を瞑り、ありし日の凛の姿を思い描く。

 ただただ心を無にして凛の姿だけを思い返していると、突然聞き覚えのある声が、プレイヤーから聞こえてきた。


(エリカ……私は……ここに……いる……)


「えっ! 何今の!?」


 エリカは慌てて先ほどの箇所を再生する。

 だが、何度再生してみても、先ほどと同じ声は聞こえてこない。


(でも、さっきのは聞き間違いじゃ無かった。間違いなく凛の声だった。凛が何か私に呼びかけようとしてた)


 ただ一度きりしか聞こえてこなった声に、エリカはなぜかそう確信したのである。


 その後、エリカは何度もCDを再生したが、どうしてもあの凛の声のようなものを聞き取ることはできなかった。

 だが、エリカはそのCDを肌身離さず持ち歩くようになった。

 凛が最後まで大切にしていたであろう自分の歌が入ったこのCDには、何か凛の思念のようなものが宿っていると考えたからである。



 凛を見送った後、エリカは大学に進み、しばらくは人並みな学生生活を送った。

 大学では、人見知りのエリカにも何人かの友人ができた。

 高校を卒業することも叶わず逝った凛のことを思うと、学生生活を謳歌しているようにも見える自分に心がチクリと痛むのだが、その度にエリカはカバンの奥深くに仕舞い込んだ例のCDに触れるのだ。


(このCD、まるで私の免罪符だ)


 エリカは自分の行為に対して、自嘲気味にそんな事を思う。


 そんなある日、エリカは高校時代以来止めていた動画配信を久しぶりに行った。

 凛の命日に合わせて、凛が一番好きだった自作曲をアップしたのである。

 今回は覆面もせず、エリカは素顔のまま、ただ凛を思って歌った。

 自分でも、なぜ今頃動画配信をやろうとしたのかわからない。

 もしかしたら、あのCDから声が聞こえてきた時のように、何かのタイミングでこの世界から去った凛に自分の歌が届いて欲しかったのかもしれない。

 死顔を拝めなかったせいもあるかもしれないが、エリカには、凛が姿を変えてまだどこかにいるように感じていたのだ。



 自作曲の動画配信から数日後のこと、大学のキャンパスで一人の男子学生が声をかけてきた。


「君、心理学科の塩海エリカさん?」

「えっ、そうですけど……」

「オレ、君と同じ心理学科三年の三神みかみ立志たつじ。君が動画サイトにアップしてたあの歌に興味があってさ」


 凛のために歌った歌であっても、不特定多数が見る動画サイトに動画をアップすれば、赤の他人がこうして興味を抱くこともある。

 しかも、今回は顔出しで動画をアップしている。同じ大学のしかも同じ学科の人間であれば、個人の特定も簡単だろう。その事をエリカはいつの間にかすっかり失念していた。


「あ、ありがとうございます、先輩。私の下手な歌なんかに興味持ってもらって」

「いや、かなり上手いよ君。それにあれ自作曲なんだって?」

「はあ、まあそうです……」

「でさ、君の歌に興味持ってる人がもう一人いてね。オレのとこのゼミの教授なんだけど、君、根来ねごろ教授のこと知ってる?」

「あの音響心理学の?」

「そうそう。その根来先生のとこに一度来てもらえないかな? 先生がぜひ、君の話を聞きたいっておっしゃっててね」


 根来先生というのは、エリカの大学の心理学科の教授で、音響心理学の専門家である根来純一のことである。

 エリカがこの大学を選んだのも、根来の研究に興味を抱いたからという理由もあった。


(でも、根来先生がなんで私の歌なんかに……)


 疑念を抱きつつも、好奇心も手伝ってエリカは翌日には根来の研究室に顔を出した。

 研究室には、エリカに声をかけてきた3年の三神立志もいた。


「良く来たね。まあ、座ってコーヒーでも飲みなさい。」


 根来にすすめられ、エリカはブラックコーヒーをすする。

 渋い顔をしながら無理してブラックコーヒーを飲むエリカの表情を見て、根来が笑いながら砂糖を差し出した。


「ごめんごめん、砂糖が必要だったかい?」


 エリカは苦笑いして、申し訳なさそうに根来から砂糖のスティックを受け取った。


「三神君に勧められてね、君の歌ってる動画見たよ。それで驚いたんだ。塩見君は今まで歌のレッスンとか受けたことあるの?」

「い、いえ、本格的なレッスンみたいなのは全く。合唱とかもやったことないです」

「そうか、『天然物』なんだね」

「『天然物』?」

「1/fゆらぎって聞いたことある?」

「あっ、なんか聞いたことあります」

「1/fゆらぎって、生体リズムにも関係してる音の周波数なんだけど、塩見君の歌声って、この1/fゆらぎを持った歌声なんだ。ちなみに、1/fゆらぎってヒーリング効果があるって言われてるんだよ」


 根来の説明で、凛がなぜエリカの歌にあんなにもこだわっていたのか、少しわかった気がした。


「ただ1/fゆらぎって、自然界にも無数に存在してるし、プロの歌手でもこの周波数の歌声の持ち主も少なくないから、そんなに珍しいもんじゃない」

「で、ここからが本題なんだけど、君の歌声を分析してみて他にも色々分かった事があったんだ」

「興味深いことに、君の歌声ってね、宇宙マイクロ波背景放射のゆらぎに波形が酷似してたんだよ」

「えっ、宇宙……何ですか?」


 突然「宇宙」という言葉が根来の口から出てきて、エリカは面食らう。


「宇宙マイクロ波背景放射ね。宇宙誕生、ビッグバンの時の電磁波のゆらぎだよ」



 根来の話は、エリカにはあまりにも突拍子もないものに思えた。

 心理学とはかけ離れた、常識外れの話としか思えなかったのだ。


(私の歌声が、ビッグバンの直後に宇宙に鳴り響いていただろう音に似ているって言われてもなあ。あまりにも現実離れした話でピンとこないよ)

(それに、そもそも宇宙に音なんて響くのかな?)


 根来からは、エリカの歌声は非常にまれな特質を持っているので、今後の自分の研究にぜひ協力してくれないかと頼まれていた。


(根来先生の研究、ちょっと興味はあるけど、でもモルモット扱いされたりしたらやだなあ)


 あれこれ思案しながらエリカが帰宅すると、家の前に見慣れぬ黒塗りセダンが一台とまっていた。

 家に入ると、母親が慌てた様子でエリカを迎え出る。


「エリカ、あなたにお客さん。その亡くなった凛ちゃんのことでお話を聞きたいんですって」



 居間で待っていた男にエリカは見覚えがあった。


(この人、以前凛について話が聞きたいって言って、家まで私を迎えに来た人だ)


「突然お邪魔してすみません。先日亡くなった久野原凛さんのヘルスコーディネーターをしていました、石動いするぎと申します」


 ヘルスコーディネーターというあまり耳慣れぬ職業名を名乗った石動という男は、そう言ってエリカに頭を下げた。


「実は、ちょっと探しているものがありまして……」

「探しているもの?」

「はい、凛さんが入院中によく聞いていたCDです。終末期医療のメンタルヘルスケアの参考にならないかと思っているんですが」


 石動が探しているものは、エリカが入院見舞いに凛に渡したあのCDなのは間違いないだろう。

 だが、エリカはなぜかこの男に、そのCDが今自分の手元にあることを話したく無かった。

 それにしても、なぜたかがCD1枚のためにわざわざこの男はエリカを訪ねてきたのだろうか。


「凛にはお見舞いでそのCDを渡したっきりで、その後どうなったかはわからないです。多分、棺と一緒に火葬されちゃったんじゃないかと……」

「そうですか、凛さんのお母様に聞いても行方をご存知ないようでしたので……」

「CDがどうなったのかは、塩海さんもご存じないということですね。すみません、お手数おかけしました」


 石動はそう言って、あっさり話を切り上げると、エリカと母親に深々と一礼する。


「それではまた、塩海エリカさん」


 玄関先で別れの言葉を述べた石動に対して、エリカは失礼と思いつつ思わず顔を背けてしまった。

 石動の表情の無い黒目が、自分の心の奥を覗き込もうとしているような、そんな不吉な色を感じさせたからである。

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