第15話 野良猫
(何だろう、身体の奥にまで音が鳴り響いてる……)
それは彼女が生まれて初めて味わう感覚だった。
何処からか繰り返し繰り返し波頭のように押し寄せてくる不思議な音色。
それら音の波が、自分の身体を包み込んでいく感覚。
彼女の身体を包み込んだ音色は、やがて一つ一つの細胞にまで浸透していき、身体の奥底にまで届いて音を反響させる。
彼女は、自分の身体が大きく揺さぶられ燃え上がるような感覚にとらわれた。
だが、身体中を貫くそのヒリヒリとした感覚は、決して不快なものでは無い。
むしろ、全身に異様な力が漲り、そこら中を駆け回りたい衝動に襲われる。
そんな不思議な音色に導かれて、彼女はいつの間にか『柵』の目の前まで来ていた。
ジイには、迂闊に近づくなといつも注意されている『柵』。
彼女は、高さ2メートル以上もあるその『柵』を助走も無しに軽々と飛び越えていた。
ナギとミチルの目の前で、ユイはかれこれ1時間以上も舞い踊り続けていた。
無心に踊り続けるユイの身体には、玉のような汗が光り、全身まるでオイルを塗っているようである。
ナギは、ヘッドホンでユイの奏でる音を聴きながら、慣れぬ酒で急激に酔いが回ったような感覚を味わっていた。ただその酔いは、決して不快なものでは無い。それどころか、何かいい知れぬ高揚感のようなもので身体中が包まれていくのだ。
ミチルからは、ユイの奏でる音は、たとえノイズに聞こえてもキャンセリング処理はせずに、全てユイに向けてループバックしろと言われている。
すると不思議なことに、今度はそのノイズが明確な音色となってナギの耳に返ってくるのだ。
ナギがノイズと感じたものも、ユイの『身体』にとっては何か意味のある音色であり、ループバックを繰り返しながら、パフォーマンスの中でユイは無意識のうちにそれを普遍的な音色として再構成していっているのである。
ナギはそうしたノイズに少しだけ『味付け』を加えてやる。そうすると、ユイの『身体』はすぐさま敏感に反応して、こちらが思いもよらぬ音色を響かせてくる。
そんなことを繰り返しながら、新しい音色が他の音色と複雑に絡まり合って、これまで聞いたことの無いような新たな旋律を生み出していくのだ。
ナギは、この世のどれにも似ていない、ユイという存在そのもののような旋律の虜になり、時を忘れてそのチューニングに夢中になっていた。
ユイもそれに応えて、二人の手によって次々と新たな旋律が生み出されていく。
ユイとナギが、この世の現実を忘れ去り音の迷宮の中を飛び回っている最中、突然スタジオにパーンと乾いた音が響いた。
ミチルが、大きく手を打ち鳴らしたのだ。
「そろそろいっかな。あんまやり過ぎると、自家中毒起こして二人とも帰ってこれなくなっちゃうからね」
ナギが夢から覚めたような心地で茫然としていると、ユイが肩で息をしながら、スタジオの上方に開いた小窓を指し示した。
「あそこで、ずっと私のパフォーマンスを見てた子がいる」
ナギがその小窓に目をやると、驚いたような顔でこちらを見ている可愛らしい顔立ちの少女と目が合った。
年の頃は中学生ぐらいであろうか。肩まで垂らした髪はボサボサで、パッと見は物凄く綺麗な顔立ちなのに、どことなく薄汚れた印象を受ける。
「あなた……」
ナギが思わず声をかけると、少女はその小窓から下に飛び降りてしまった。
ナギはすぐにスタジオの外に出てみたが、少女の姿はどこにも見当たらない。
「えっ、あそこから覗いてたの!?」
外から見ると、元倉庫だったスタジオに開いた小窓は2階以上の高さにあって、足場になりそうなものは周りに何も無い。
あの少女が、どうやってあの高さの小窓に取り付いたのかとナギは首を傾げる。
「『野良猫』ね。ユイの奏でた音色に惹かれてきたのかもね」
スタジオの外に出てきたミチルが、ナギに言う。
「野良猫って……どう見ても人間でしたよ」
「ここって、汚染区域のすぐ近くでしょ。あの汚染区域の中に住んでる人たちの事、通称『野良猫』って言われてるって知らない?」
灯りというものがほとんど無い、廃ビル群の一角に小さな影が現れた。
「カリン、こんな遅くまでどこ行ってた?」
「別に、どこも……」
気難しげな顔をして尋ねてくるジイに、カリンと呼ばれた少女は無愛想に応答する。
「『柵』越えたんじゃないだろうな?」
「……『柵』には近づいてないよ。」
「万一『柵』越えたことがあのお方に知られてみろ、わしらここで生きていけんようになる。」
ジイの言葉を聞いて、カリンは皮肉な笑みを浮かべた。
「何が可笑しい?」
「ここにいても、死んでるようなもんなのにって思ってさ」
そう言うと、カリンはその場から垂直にジャンプして、階段の無い廃ビル2階の自分の寝室へと引っ込んだ。
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