第8話 無敗の女王

「今度の真珠杯パールカップに出たくないってどういうことだい?」


 新山にいやましゅうは、何鉢かの観葉植物が置いてあるだけのひどく殺風景な高層階の窓辺から街並みを見下ろしている長身の女性に声をかけた。

 女性の長い黒髪は、なめらかな曲線を描く漆黒のタイトドレスの腰のあたりにまでかかっている。


「アレに出て、何かが変わるの?」


 振り向きもせずに答えた女性の声は、彼女のパートナーであり、唯一無二の調律者チューナーである新山秀すら拒絶するような、峻厳で冷たいものだった。


「何も変わらないさ。何もね。でも、その何も変わらないことこそが重要なんだ。君の持つ音色こそが、この世界に最もふさわしいって事だからね」

「くだらないわね」


 女性は長い黒髪を弧を描くようにふわりとなびかせながら、まるでバレエのピルエットのように正確にターンすると、目の前の新山秀に目も合わせぬまま部屋を出て行こうとする。


「どこに行くんだい?」

「ここではない、どこかよ」


 皮肉ともつかないそんな言葉を残して、その女性、たちばなエチカは新山秀が引き止める間も無く部屋から去っていった。

 エチカの残り香だけが漂うその部屋で、新山秀は口の端をかすかに上げた笑みを浮かべて一人立ち尽くす。


「やれやれ『女王様』のお守りも大変だな」


 誰に聞かせるわけでも無く、新山秀はひとりごちた。



 ユイとナギは、旧東京から電車で横浜に向かっていた。

 自分たちにとって最大の『ライバル』となるであろう相手のパフォーマンスを生で見ておけという天堂仁のありがたい(?)心配りで、旧東京を抜け出し横浜くんだりまで遠征に向かっているのだ。

 二人を乗せた電車は、旧東京と日本国との境界である『壁』の手前でいったん停止した。

 乗客の出入国審査を行うためである。

 ユイとナギは、研究所時代に手の甲に不可視刻印されたナノチップ身分証を審査官に提示する。

 

 ユイはこの身分証が大嫌いだった。

 自分をこの旧東京という牢獄の中に永遠に閉じ込めておくための呪われた印のように感じていたのだ。

 ナギは、出入国審査でUNポリスへ自分たちのことが通報されるのではと心配していたが、そういった事態は何も起こらず、ただ無愛想な官僚的手続きだけが淡々と実行された。

 出入国審査を経た電車は『壁』にくりぬかれたトンネルを抜け、多摩川の鉄橋を渡って、かつての川崎市街に入った。

 電車の車窓には、放置されたままの陰鬱な廃墟の群れが延々と続いている。


「しかし、仁さん本気で、あの『無敗の女王』に挑もうって考えてんのかな」


 ナギが、あまり愉快な光景とは言えない車窓の風景を眺めながらポツリとそんなことを呟く。


「アイツが本気だろうが冗談だろうが関係ないよ。根無草の私らは、目の前の障害を蹴散らして自分たちの道を作るしかない。『無敗の女王』とやらが私らの障害になるってんなら、そいつをぶちのめして前に進むしかないよ」


 ユイの荒っぽい表現にナギは微笑み、拳を強く握り締めているせいで鞠のような力瘤と血管が隆々と浮き上がったその筋肉質の腕に、自らの白く細い腕をからませて身体を寄せる。


「なんか、ストリートの時のユイが戻ってきたみたい」


 ナギの言葉に、ユイは照れ臭そうに顔をあからめる。


「でも、仁さんの言う通り『無敗の女王』のユニットも研究所出身のストリートチルドレンなのかなあ。仁さん、結構気にしてたよね」

「生で女王の踊りを見ればわかるかも、たぶん……」



 『無敗の女王』こと、フィジカルミュージックのパフォーマー橘エチカとチューナー新山秀のユニットは、ここ4年連続で真珠杯の栄冠を勝ち取っている。

 しかも、いずれの年も、並み居る強豪に対し全て圧倒的な差をつけての優勝なのだ。

 4年前に、突如彗星の如く現れたこのユニットは、それ以前の経歴が全く不明であった。

 地方大会などでそれなりに名を知られた強豪が真珠杯に出場するのが常なのだが、それまで全く無名だった二人が優勝をかっさらっていったため、当時大きな話題となった。

 マスコミが、二人の経歴を洗うのは当然の成り行きだったが、執拗な取材攻勢にもかかわらず、二人とも生まれも真珠杯出場以前の経歴も判然としないのだ。

 このため、エチカと新山秀の二人は、旧東京出身のストリートチルドレンなのではという噂が絶えず立っていた。

 公式には、常勝を重ねる二人を妬んだ根も歯もない噂だとして否定されているのだが、出自を隠したいがため噂を否定しているのだと半ば公然と囁かれていた。

 だがそう言った世間での噂とは別に、天堂仁はユイとナギのパフォーマンスの中に、『無敗の女王』と同質のものを感じるのだと言う。


「お前ら、研究所でフィジカルミュージックのワークショップを受けたって言ってたよな。どんなことを教わった?」

「どんなことって、ほんとごくごく基本的なことだよ。そんな大袈裟なもんじゃないって」


 研究所でのワークショップについて、根掘り葉掘り聞いてくる天堂仁に、ユイもナギも閉口した。

 加えて、ユイもナギも橘エチカと新山秀の二人には覚えがない。


「もし、研究所にいたんだったら第三研究所の方かもね」

「第三研究所か……」


 ナギの言葉に、天堂仁は少し顔をしかめて考え込んだ。



 横浜の街も、二度にわたるカタストロフで大きな被害を受けていたが、復興の度合いは旧東京とは段違いだった。

 ただ、港湾部の旧都心部は放置されたままの地区も多く、新都心はかつての新横浜付近に移されていた。

 横浜にとって、いまだ汚染と無法状態の続く旧東京からの来訪者は招かれざる客で、新横浜の駅に降り立ったユイとナギは、荷物や身体を散々チェックされ横柄な尋問を受ける羽目になった。

 そんな不愉快な検問を通り抜け、駅ビルから外に出たユイとナギは、旧東京では見たこともない人通りの多さに目を丸くする。


「人多いね」

「復興祭だからね」


 二人は、これから復興記念祭が行われるアリーナへと向かうのだ。

 そこで第二次カタストロフからの復興を祝う無料ライブが行われ、『無敗の女王』もパフォーマンスを披露するのである。

 二人は入場ゲートで身体チェックと身分チェックを受けたあと、アリーナに入った。

 かつて「横浜アリーナ」と言われていたその施設は、今は単に「アリーナ」とだけ呼ばれていた。

 アリーナには「横浜アリーナ」時代には存在していた天井は無くなり、完全な吹き抜けとなっている。

 アリーナの中では、すでに復興記念祭のオープニングセレモニーが始まっていて、ユイとナギはステージから見てほとんど最後尾の席をようやく確保した。


「入場制限ギリギリだったね」

「入れなかったら、何のために横浜まで来たのかわかんないとこだったよ。でもこんな後ろの方だと、『女王』のパフォーマンスが見れるかなあ」


 ユイが心配そうに言った直後、すぐ目の前に空中に、はるか彼方のステージのパフォーマンスがそのまま拡大投影され始めた。

 その巨大な空中ディスプレイ上に、ステージで披露されている様々なアーティストの歌やダンスが入れ替わり立ち替わり投影されていく。

 そのインパクトは絶大なものだったが、肝心の出演者のパフォーマンスの方はと言うと、ユイにはどれもありきたりで退屈なものにしか思えなかった。


「次、いよいよ『無敗の女王』だよ」


 ナギが隣でささやく。

 あたりはすでに薄暗くなっていて、ステージの光の中に長髪の女性の美しいシルエットだけが浮かび上がった。

 その女性、橘エチカは、背後の照明を受けダイヤの結晶のようにキラキラと光輝くレオタードで、手首から足先までを包んでいた。

 滑らかな曲線を描くエチカの肢体が、草原で風に揺れる草花のようにたおやかにしなると、アリーナ全体をふわりと包み込むような、なんとも形容のし難い優しい音色が周囲に響き渡った。

 エチカの身体の動きは、まるで流れる水の動きのようで、身体を恐ろしく大きくしならせながらも、骨や関節の存在を観客に全く意識させない。

 エチカは、指先や足先にまで神経の行き届いたその優雅な舞が紡ぎ出す、色とりどりの音の花園でアリーナを満たしていく。

 アリーナ全体が、エチカの紡ぎ出す音で溢れかえったその時、突然エチカの身体が大きく宙に浮かび上がった。

 それは「浮かび上がった」としか形容のしようの無い動きで、重力というものをまるで感じさせない人間離れした跳躍であった。

 次の瞬間、アリーナ全体を震わせるような、煌びやかな音の洪水、華麗で荘厳なシンフォニーが響き渡った。

 溢れ出る音は幾重にも積み重なり、フルオーケストラ以上に重層的な音色をアリーナ全体に響かせている。

 エチカの舞は、ユイの力強い舞とは何もかも対照的なのに、ユイに負けず劣らず、いやユイ以上にステージ上を縦横無尽に駆け回り跳躍する。

 その度に、幾重にも連なった絢爛豪華な音の波がアリーナの観客席に大きく打ち寄せ、見事な波濤を描き出す。

 ユイもナギも、動画で見る以上の生で経験する音の迫力に圧倒されていた。

 信じられないような身体の動きや跳躍なのに、エチカの舞は優美さをいささかも失わず、さらに音の厚みと荘厳さを増していく。


(何これ……こんな音響かせられるの……)


 エチカの舞を呆然として眺めていたユイは、突然、身体が浮遊するような感覚に襲われる。

 エチカの放つ無数の音の波が、渦を巻きながら自分の身体全体を包み込み、さらには皮膚を貫通して身体の深奥にまで侵食してこようとしていた。

 ユイは、その今まで感じたことのない感覚に激しく感応すると、無意識のうちに身体を大きく震わせて、鍛え上げられた全身の筋肉を緊張させる。



(……っ!)


 ステージ上で無心で舞い踊るエチカの全身に、突然、今まで感じたことの無い痺れるような感覚が駆け巡った。


(共鳴!? 一体誰が?)


 エチカは、アリーナの観客席後方にいる、一人の少女に視線を向ける。

 少女もエチカの視線に気づき、驚いたように目を見開いている。

 エチカは、天井に向けていた人差し指をゆっくりとその少女に向けると、鋭い『音の矢』を放った。


(くっ!……)


 エチカは、身体の奥まで貫かれるような鋭い衝撃をその身に感じていた。

 少女はエチカが放った強烈な『音の矢』に貫かれるどころか、間髪入れず、そのままエチカに向けて弾き返してきたのだ。

 その刹那である。エチカの紡ぎ出してきた完璧で優美な音の連なりに、ほんのわずかのノイズが混じった。

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