猫の王様BD記念SSS ~九条くんと桜の約束~

木兎ゆう

九条くんと桜の約束

 さっきから、恋人の様子がおかしい。

 そわそわしているというか、……そわそわしているというか。

 多分、他の人なら指摘してもわからないような、本当に些細な変化だ。俺の気のせいかと思ったけれど、そんなことはない。

 俺に向ける目の開き具合とか、時折見せてくれる僅かな微笑みの角度とか、瞬きするときの微妙な間とか。

 俺以外で唯一、広瀬さんと無言の会話ができてしまう中井ですら、きっと気づかないだろう。

 というか、気づかないでほしい。俺だって、ここまで広瀬さんのことがわかるようになったのは、つい最近なんだから。

 目の前に広がる満開の桜並木を眺めながら、俺は隣を歩く広瀬さんをちらりと見やった。最初は人混みのせいかと思ったが、この辺りまで来るとむしろ人影はまばらだ。駅からも遠いし、出店や催し物などの声すら聞こえない。

 静かに、けれど華やかに咲き誇る桜を振り仰ぐと、その向こうに抜けるような青い空が見えた。

 ここに桜を見に来るという約束をしたのが、まるで遠い日のことのように思える。忘れもしない。あの日は広瀬さんの誕生日だった。クリスマス前の十二月で肌寒かったし、夕方だから薄暗かった。

 ほんの数か月前のことだけれど、あの頃は本当に浮かれていたなぁ、と改めて思う。中井に言わせれば今でも十分浮かれてるように見えるらしいけど、それでも少しは落ち着いてきたように感じる。

 そう、昼間で外とはいえ、これだけ人気がないのに広瀬さんが俺の手に触れてこないのはおかしい、と冷静に考えられるくらいには。

「……広瀬さん」

「……ん?」

 広瀬さんが無表情に首を傾げるのは、天然のときもあれば養殖のときもある。どちらにせよ俺の好きな仕草に変わりはないけれど、今のはどっちだろう? やっぱりどこかぎこちない感じがする。気まずいというほどではないけれど、せっかくのデートなのにもやもやした気持ちのままでいたくないし、広瀬さんにもそんな気持ちでいてほしくない。

 俺が真剣な眼差しで足を止めると、広瀬さんも立ち止まった。いつもと同じ無表情のはずなのに、どこか諦めたような、悄然とした雰囲気が微かに漂った。やっぱり気のせいなんかじゃない。俺は意を決して尋ねた。

「広瀬さん、俺、何かしましたか? 今日はちょっと変です。気分が悪いとか、俺が気に障ることをしたとか、何かあるなら教えてください」

 広瀬さんは俺の言葉を聞くとちょっと目を見開き、そして嘆息するように笑った。片手で顔の半面を覆うように抑え、下を向く。

「……すごいね、九条くんは。すごく、頑張ったつもりだったんだけど」

 何だか広瀬さんが泣いているように見えて、俺まで切なくなった。とにかく安心させたい一心で、俺はできるだけ穏やかに微笑もうとした。

「わかりますよ。俺、広瀬さんのこと、すごくよく見てますから」

 そして俺は自分の左の耳たぶを軽く触れてみせた。広瀬さんのその同じ場所には、俺が誕生日に贈ったシルバーの猫のピアスが今も光っている。広瀬さんは俺の動作をなぞるように自分のピアスに触れ、そして嘆息するように笑った。

「……そうだね。それじゃあ仕方ないな」

「そうです。だから観念して言っちゃってください」

「……わかった。言うよ」

 それでも息を吸い、吐いて、瞬きを一つし、ようやく広瀬さんはそれを口にした。

「待ち合わせの少し前、駅で九条くんと腕を組んで歩いていた女の人は誰?」

 その一言で俺は全てを理解した。そして思った。まさか自分がこんな立場に立つ日が来ようとは。

「あっ、あれは姉さんです! 本当に、ただの、血の繋がった、実の姉なんです! 姉さんもこっちで就職してて、たまに俺の一人暮らしの様子を見に来るっていうか、給料日前にご飯をたかりに来るっていうか……。本当に、ただ、それだけで……っ」

「……お姉さん、九条くんの」

「そうですっ! な、何か、証拠を……っ」

 無意味に体を叩いたあと、俺は奇跡的に携帯のことを思い出し、大慌てで写真を探した。

「あった! これ、これです! まごうことなき、家族写真です! 姉が成人式のときに撮ったヤツ!」

 広瀬さんが顔を寄せてきたので、写真を少し拡大して差し出した。

「これが父と母で、俺と姉です! 他にもあったかな……。あっ、これとか!」

「……へえー……この九条くん、すごい若いね。高校生……いや、中学生?」

「な、何年も前のヤツですから。というか、信じてもらえました? 姉のこと」

 恐る恐る隣の広瀬さんの顔を見上げると、さっきまでの憂いが嘘のように微笑んでくれた。……と思ったら、不意にくしゃりと顔を歪めて俺をぎゅっと抱きしめた。そして深々と大きなため息が吐き出される。

「……怖かった……っ。本当に、よかった。本当に、泣く」

「な、泣かないでください! 俺が好きなのは、本当に広瀬さんだけですから」

 よしよし、と背中を軽くさすると、広瀬さんが嘆息するように言った。

「……本当に、ごめん。クリスマスのとき、これよりもっと辛い想いを九条くんにさせてたかと思うと、今更ながら、どう謝っていいのかもわからない。本当に、ごめん」

「あ、あれは俺も悪かったので……もっと早く広瀬さんに確かめるとか、いろいろできたはずなのに、怖いから何もしないまま、いきなり待ち伏せとかしちゃって……だから、もう気にしないでください。それに、ほら。今ならいい思い出です」

 広瀬さんからのクリスマスプレゼントである胸元のネックレスを示すと、やっと少しだけ微笑んでくれた。

「……でも、わかる。いざとなると怖くて聞けない。九条くんがきっかけをくれてよかった。本当にありがとう。好き」

「好……っ」

 不意打ちを食らい、真っ赤になった俺を見ると、広瀬さんは優しく目をたわめ、額に軽く唇を触れた。

「ちょっ、もうっ、外ですよ!」

「大丈夫。誰も見てない」

「そういう問題じゃありません!」

「……どうせ怒られるなら、やっぱり唇にしとけばよかった」

「……聞こえてますよ」

 じっとりと俺が広瀬さんに視線を投げたとき、大きく風が吹いた。淡い桜色の花弁が幻想的に散ったかと思うと、一気に巻き上がり、優しい吹雪となって視界を遮る。

「あ……広瀬さ……」

 思わず手を伸ばすと、広瀬さんは俺の手をさっとつかみ、腰をぎゅっと抱き寄せた。

「あ……っ、んぅっ……」

 するりと頬に指が触れたかと思うと、広瀬さんの唇が俺の言葉ごと全て呑み込むように、俺の唇をしっかりと塞いだ。甘く、柔らかく、舌が絡み合い、蕩けるように俺の中が蹂躙される。けれど風が止み、桜色のベールが消えると同時に、夢から覚めたように俺の唇は解放されていた。

 まだ少し濡れている俺の唇を指でそっと拭うと、広瀬さんはその指をぺろりと舐めた。

「……お腹空いた。今日は俺が食べたいもの、食べる約束だったよね」

 妖艶な微笑みに、俺は警戒するように唇を結んだ。

「……ご飯を、食べに行くんですよね?」

「ん。この間、九条くんが調べてくれた和食がいい」

「わかりました。今、携帯で道を確認します」

 ほっとして油断した俺の小指に、広瀬さんの小指がするりと絡まる。

「っ……」

 声は上げなかったものの、息を呑んだ俺の耳に唇を寄せ、広瀬さんは猫が喉を鳴らすように囁いた。

「……でも、デザートは九条くんがいい」

 否応なく頬が染まるのを感じながら、俺は言った。

「……広瀬さんて、本当に猫の王様ですよね」

「ん?」

「本心は見せないくせに、甘え上手で、気まぐれで」

「……嫌?」

 無表情に首を傾げた恋人に、俺は大きく微笑んだ。

「好きですよ。大好きです。だから、ずっと、いつまでも、俺だけの猫の王様でいてくださいね。約束です」

「……ん。約束」

 小指と小指を絡めたまま、俺たちは桜色の道を歩き始めた。

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