第45話 名前呼びは震える

「いきなり邪魔して悪いな。特に用事があったわけじゃないんだが、いよいよ来週は小説の発売日だからな。少し顔を出しておきたくなったんだ」


「気にしないで。仕事はひと段落ついたし、何より田中さんが来てくれてちょうど良かったわ」


 息をついた俺のことを西園寺さんはソファに座るよう促した。

 いきなりのドローライトへの訪問になってしまったが、特に気にしていないようなので助かった。


「ん? ちょうど良かったってどういうことだ? 何か用事でもあったのか?」


 俺はいつものソファにドッと腰を下ろした。

 いつ訪れても西園寺さんが出社している気がするが、気のせいだろうか。若くしてかなりの地位を築いているので、結構忙しいのかもしれない。


「ええ。時間通りならもう到着するわね」


 西園寺さんは腕時計をチラリと確認すると、カップに注がれた温かい紅茶をひと啜りした。

 梅雨の時期でじめっと暑苦しいというのに、よくもまあ温かい紅茶なんて飲めるものだ。俺はお子様の舌だし、四季に素直な人間なので飲めそうにない。


「到着って……俺の知ってる人か?」


「知ってるわよ。だって彼女はあなたのパートナーだもの」


「俺にパートナーなんかいたかな」


 ニヤリと笑う西園寺さんの言葉を聞いた俺は、少しばかり頭の中で考えてみたが、全く見当がつかなかった。


「小説家のパートナーなんか一人しかいないでしょう? あ、来たわね。入っていいわよー」


 西園寺さんがため息混じりの呆れた口調でそう言うと、コンコンと扉が数回ノックされた。

 俺はソファの上で少しだけ背後に体を向けて、ゆっくりと開かれる扉に目をやった。


「し、失礼します……」


「ん? あぁ、千春ちゃんだったのか。俺のパートナーってのは」


「え! た、田中さんがどうしてここに……?」


 おずおずと遠慮がちに入室したのは、俺の小説のイラストを担当してくれた斎藤千春こと千春ちゃんだった。

 千春ちゃんは口元を両手で覆うと、何が何だかわからないと言ったような様子で狼狽えた。

 首を左右に振るたびに、その長い黒髪も一緒に揺れている。


「田中さんは私を都合の良い話し相手として使うために、時たま連絡もなしに訪れるのよ。ね? そうでしょ?」


 西園寺さんは揶揄うような口ぶりで言った。


「まあ、間違ってはいないが言い方を考えてくれ。それだと俺が悪者みたいじゃないか」


 間違ってはいない。いや、むしろ正しいまである。

 しかし、言い方に少し棘があるような気がする。今度はしっかりと連絡を入れて、何か土産話や物を持ってきた方が良さそうだ。


「ふふっ、冗談よ。千春ちゃん、田中さんの隣にでも座って待ってて。せっかく全員揃ったんだし、お祝いのお菓子でも持ってくるわね」


 西園寺さんは妖艶な笑みを浮かべながら立ち上がると、すれ違いざまに俺の肩をポンっと叩いて部屋を後にした。

 これで部屋にいるのは俺と千春ちゃんの二人だけになった。

 およそ一月ぶりくらいに会うので、話題探しが少しばかり難しい。


「……座らないのか?」


「あ。隣、失礼します。その、田中さん。私の描いたイラスト見ててくれましたか?」


 千春ちゃんは俺が座るソファの隣に設置された別のソファに腰を下ろした。

 腿の上に置いた拳に力が入っていることから、緊張していることがわかる。


「見たよ。素晴らしい出来だった。二巻以降はもっと戦闘シーンが増えるはずだから、その時はまたよろしく頼む」


 俺は数週間前に千春ちゃんから送られてきたイラストを頭の中で思い浮かべた。

 白黒でも迫力の伝わる崩壊した街や主人公である俺と敵が睨み合う緊迫のシーン。およそ八枚のイラストを描き下ろしてもらったが、どれも素晴らしいものだった。


「よ、よかったぁ……。少し前に田中さんにイラストのサンプルを送ったのに返信がこなかったから、私、嫌われたんじゃないかって思ってました……」


「いや、ちゃんと返信したはずだが……。あ、すまない。メッセージの送信に失敗してたせいだ」 


 泣きそうになっている千春ちゃんの言葉を聞いた俺は、カバンからスマホを取り出して千春ちゃんとのやりとりを確認してみた。

 すると、どういうわけか「最高だ! ありがとう!」という心を込めた簡潔な一文がうまく送られておらず、俺が無慈悲にも既読無視をしてしまったような構図が出来上がっていた。


「ところで、あれからの生活はどうだ?」


 少し重たい空気が流れていたので、俺はすぐさま話を変えた。


「田中さんからご支援を得たおかげで、順調に生活することができています。お母さんも仕事先で色んな人に手助けしてもらっているみたいで、前よりも表情が豊かになった気がします。ただ……」


「何かあったのか?」


 千春ちゃんは小さな微笑みを溢しながらぽつぽつと語っていたが、途端に神妙な表情に浮かべ始めた。


「実は——」


「——お待たせー。ごめんね、さっき妹がお菓子をほとんど大学に持ってちゃったみたいで、あまり用意できなかったわ」


 千春ちゃんが口を開いた瞬間、部屋の扉がガチャリと開かれた。

 西園寺さんは直径二十数センチほどのお盆の上に、お茶が注がれた二つのグラスと、高級そうな洋菓子を乗せていた。


「妹?」


 俺は西園寺さんからグラスを受け取りながら聞いた。

 確か、西園寺さんの妹は学生だったはずだ。カムイ町で助けた時にそんな話をしていた気がする。


「ええ。通学路にドローライトがあるから、たまに寄ってから大学に行くのよね。あの子、傘を持っていなかったけど大丈夫かしら?」


「私がきた時は雨はもう止みかけていたので、大丈夫じゃないですかね?」


「それならいいんだけど……。今日はライブがあるって言ってたし、少し心配だわ」


 神妙な面持ちからすぐに切り替えた千春ちゃんの言葉に、西園寺さんは心配そうな口ぶりで答えた。

 それにしても気になる話題だな。

 失礼にあたるかもしれないが、もう少し掘り下げてみるか。


「ライブってなんだ? ミュージシャンでもやってるのか?」


 もしも事務所に所属していないのなら是非誘わせてもらいたい。


「幼稚園の頃から仲の良い親友の子と二人組でアイドルをやっているのよ。そのライブが今日ってわけ。田中さんに言ってなかったかしら?」


 西園寺さんはお盆をテーブルに置くと、窓際に立ちブラインドの隙間から外の様子を見た。

 耳をすませばポツポツと小さな水音が聞こえるが、強い雨が降っている様子はない。


「初耳だな。それにしてもアイドルか、夢があって良いじゃないか」


 俺は足を組みながらキンキンに冷えたお茶を胃の中に収めた。

 やはりジトジトした季節には冷えたお茶が一番合うな。


「そうね。少し体が弱いことに目を瞑ればね。ねぇ、田中さん。私からこんなお願いをするのも悪いのだけど、今日のライブを見に行って妹の体調を確認してきてくれない? 本当は私がチケットを預かっていて見にいく予定だったんだけど、今日は残業がありそうなのよ」


 西園寺さんは胸元から一枚の簡素なチケットを取り出すと、テーブルを滑らせて俺の前に置いた。

 若干金色がかったチケットには

『【A-Style】美しさと技芸を兼ね備えたアイドル界の超新星! 幼馴染コンビのアイドル! スカウト待ってます!』

 と記されていた。


「まあ、暇だからいいけど。今度はちゃんと行ってやったほうがいいぞ?」


 俺はチケットをカバンの中に入れた。

 もしもネメフィの授業参観に他人が参加することを考えたら気持ち悪くなったので、ついついキツめの言い方になってしまった。

 

「わかってるわよ。だから今度のライブは三人で行きましょ? ね、千春ちゃん?」


 西園寺さんは千春ちゃんにウインクをした。

 俺の勝手なイメージだと、西園寺さんは結構堅い人柄だと思っていたが、割とそんなことはないのかもしれない。たかが数ヶ月の仕事上の付き合いしかないから、まだまだわからないことも多いな。


「は、はい! ところで、話が戻ってしまいますが、今日は私は何のために呼ばれたんでしょうか?」


「……俺はここいらで失礼する。時間も時間だしやることがあるからな」


 千春ちゃんが遠慮しながら口を開くと同時に、俺はグラスに注がれたお茶を飲み干してソファから立ち上がった。

 やることというのは、洗濯と風呂洗い、それからネメフィが帰ってきたらライブに行く旨の説明、最後にネメフィの宿題の手伝いだ。

 全てネメフィ関連になってしまうが、手のかかる妹のようなものなので普通のことだろう。


「ええ、またね。


「……発売日になったらまた来るよ、愛梨さん」


 扉に手をかけて部屋を後にしようとするその時。

 俺はいきなり西園寺さんに名前を呼ばれて心臓が跳ねたが、平静を取り繕って名前を呼び返した。

 歳の近い女性の名前を呼ぶことなんてほとんどないので、中々緊張するものだ。

 だが、これは距離が縮まったとポジティブに考えて良い。仲良くなることで仕事上のやりとりも円滑に進むだろう。よって、今後は俺も名前で呼ぶことにする。

 決して、少しドキドキしたから名前で呼んでみたいなんていう邪な感情ではない。絶対にだ。

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