第35話 シンガー

「……これでやっと十枚目か。おいおい、嘘だろ? 一時間もかかったのかよ……」


 俺は荒くなる鼻息とじんわりと滲む手汗に抗いながら、ようやく色紙にサインを書き終えた。

 合計十枚と数としては少なめだが、無名のラノベ作家なので多い方だと言えるだろう。

 だが、それよりも問題なのは、こんな単純な作業に一時間も費やしたことだ。

 サインを考えるのに二十分。書き始めるのに十分。全てを書き終えるのに三十分。慣れない作業だったせいか、得意のテンポの良さをうまく発揮することができなかった。


「まあいい。得意の後はこれを西園寺さんに届けるだけだからな。イラストの進行具合の確認もしたいし、ドローライトへ赴くことにしよう」


 壁掛け時計を見て現在の時刻を確認した俺は、もはや普段着と化してしまったスーツを着用して部屋の外へ出た。

 今日は天気もいいし、転移魔法を使わずに自分の足で歩くか。だが、上下スーツだと結構日差しがキツイので、魔法で日差しを軽く遮るとしよう。

 

「おっ、東野は部屋にいないのか。飯でも誘おうかと思ったんだが、また今度だな」


 俺は東野の気配を軽く探ったが、部屋に東野の気配はなかったので、大人しく一人でエレベーターに乗ることにした。

 どこかへ出掛けたのだろう。先ほどは疲れた様子だったが、まだまだ若いだろうしな。全然余裕なのだろう。


「テックバリア。これで俺だけ過ごしやすい気温になったな」


 エレベーターから降りてエントランスから外へ出た俺は、猛暑にさらされる前に自らの全身を覆うように魔法をかけた。

 この魔法は目に見えない魔力の膜を全身に纏う魔法だ。テックバリアによって張られた魔力の膜は、物理攻撃以外であれば大抵防ぐことが可能だ。

 真夏の太陽の日差しから、真冬に吹き荒れる強風まで、テックバリアさえ発動させれば簡単に環境に適応することができる。


「確か今日は夕方から雨だったよな。帰る時に買い物も済ませておくか。にしても今日は道が混んでるな。人集

りもあるし、何かイベントでもやってんのか?」


 今日は都心の広い歩道が往来する人々で埋まってしまうほど道が混んでいた。

 百メートルほど先の大きな公園に、何かをぐるりと囲うような人集りができているので、もしかしたらそのせいなのかもしれない。微かに男性と女性の二つの歌声が聞こえるので、路上ライブでもやっているのだろう。


「行ってみるか」


 俺はまだまだ時間に余裕があるので、取り敢えず向かってみることにした。

 もしかしたらかなり有名な人かもしれないな。


「ん? 音痴だな……」


 徐々に人集りとの距離が縮まっていくにつれ、俺の耳に入る歌声は大きくなっていったが、同時に音感を持っていない俺ですらわかるほど音が合っていないことに気がついた。

 これも”味”というやつなのだろうか? 俺には到底理解できないな。


「あぁ、そういうことか。どうりでおかしかったわけだ」


 俺は観衆の最後尾に到着したところで、あることに気がついた。

 男性と女性はペアやタッグを組んでいるわけではなかったのだ。俺はてっきり二人組のシンガーソングライターだと思っていたのだが、そういうわけではないらしい。

 それぞれが別の曲を別の音程で歌っていたのだ。


「しかも、観衆がいるのはは女性の方だけか。男性の方は……疎らだな」


 俺は女性を囲うようにしてできた手前の観衆と、数人の客が手拍子している奥の閑散とした地帯を交互に見比べた。

 素人なりに言わせてもらうのであれば、歌のうまさはトントンだろう。しかし、女性の方がパワフルな歌声をしているので、観衆も声を出して盛り上がっていた。

 いや、でも、この観衆の差はそれ以外にも理由がありそうだな。


「いやぁぁ! まさかTonyMusicが絶賛売り出し中の女性シンガー、LiiSYAを無料で拝めるなんてなぁ。俺たちは運が良いぜ!」


 俺がパワフルな歌声で歌う女性シンガーに心を奪われていると、目の前にいた青年が、隣にいた友達だと思われる別の青年に話しかけていた。

 二人とも2000年代初頭のアキバ系オタクのようなファッションをしていた。


「だな。お目当てのXAOの限定フィギュアも入手できたし最高だ。というか、XAOの四期のOPってLiiSYAだよな。こりゃあ絶対に見るっきゃねぇな」


「おうよ! ったりめぇよ! クロス・アート・オンラインは俺にとっての青春だからな!」


 XAOって俺でも知っているアニメだな。

 確かVRMMORPGを題材にしたラノベ原作のアニメだったよな。正式名称は今初めて知ったが、かなりの有名作品だったはずだ。


「「アッハッハッハッハッハッ!」」


 二人は盗み聞きしている俺に一切気がつくことなく、高笑いをすると、即席ステージの上で歌うLiiSYAに体を向けていた。


「へぇ……凄い人なんだなー」


 俺も二人の青年と同じようにLiiSYAの姿を見た。

 特徴的な赤髪に力強い歌声、アニソンシンガーとして最高峰の人物だとネットで見たことがある。


「でも、俺が興味あるのはあっちなんだよなぁ」


 俺はLiiSYAの歌を聞き流しながら、客が殆どいない男性シンガーの元へ向かった。

 男性シンガーは先ほどの一曲で既に歌い終えたのか、落胆的な表情をしながらギターを専用のケースに収めている最中だった。


「はぁぁぁぁぁぁ……高卒で田舎から上京してもう三年かぁ……。誰からの声もかからないし、ファンだってできやしない。ボクはもうやめどきなのかなぁ……」


「すみません」


 俺は今にも消えてなくなりそうなほど悲観的な口調で語る男性シンガーに声をかけた。


「もうダメだ……父さんと母さんには申し訳ないけど、引退して農家を継ぐしかない……」


「おーい。歌のお兄さーん? 聞こえてますかー?」


 俺は膝を曲げてしゃがむことで、しゅんとして小さくなっている男性シンガーに視線を合わせた。

 同時に先ほどよりも少し大きな声で声をかけた。


「っ!? あぁ、ごめんなさい。少し耳が遠くて……。ぁ、それで何か用でもありましたか?」


「これと言った用事ではないんですが、あなたの歌声が個人的に良いなと思って声をかけたんです」


 男性シンガーは本当に今気が付いたかのようにハッとしていたが、俺は気にせず話を続けた。

 

「あ、ありがとうございます。ボクは冨岡銀次とみおかぎんじと言います。トミーとでも呼んでください。それとタメ口でいいです。ボクはまだ二十歳なので……」


 男性シンガーこと冨岡銀次、通称トミーは俺に名刺を渡すと深く頭を下げた。

 トミーの頭はまるで野球部かのようなスッキリとした丸刈りだったが、その人当たりの良さそうな柔らかい顔立ちにピッタリの髪型だった。


「わかった。トミーだな。俺は田中ニールだ。期待するような表情をしているところ申し訳ないが、俺は別にプロデューサーだったりスカウトマンだったりしないんだ。変な勘違いさせてごめんな」

 

 俺は名刺を受け取ってジャケットの内ポケットに仕舞い込んだ。

 

「そ、そうでしたか……。あっ、田中さん。すみません。ボク、これからバイトがあるので失礼します」


 トミーはそう言い残すと、ギターケースを片手にそそくさとこの場を後にした。

 その表情はどこか暗く、物悲しげな様子だった。

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