第34話 ブンゴージェイケー

「それじゃ! 行ってきまーす!」


 ネメフィはノールックでスムーズにスニーカーを履くと、ウキウキを隠しきれない様子で玄関の扉に手をかけた。


「ネメフィ。筆箱と教科書は持ったか? 俺が作った弁当はきちんとリュックにいれたか? 忘れ物はないか?」


「大丈夫! 昨日あれだけ確認したでしょ? ニールは僕が初めての登校だからって心配しすぎだよ。僕はもう自立できるんだからね!」


 俺の心配をよそにネメフィはおちゃらけた口調で言った。

 小学校に入学したいと決意してから早一週間。本来であればこのような短期間で入学などできるはずもないのだが、各所に点在する教育関係者のトップの記憶を魔法で捏造することによってそれを可能にしたのだ。

 あまりにも展開が早いので、俺は少し心配になっていたのだ。


「わかった。その言葉を信じよう。それと昨日も言ったが、魔法や異世界のこと、この世界にいない種族の話は絶対にするなよ?」


 入学したのが近所の私立小学校ということもあって苦労はするだろうが、ネメフィは俺の魔法に頼らずに過ごしたいと言っていたので、俺は入学をさせること以外に魔法を使ってはいない。


「うん! 頑張ってくる! 行ってきまーす!」


「おう。気をつけろよ」


 ネメフィは快活な返事をすると、目に見えてテンションが高いことがわかるほどのウキウキなスキップをしながら、地上に続くエレベーターへ向かっていった。


「送り出したはいいが、まだ八時前か……。一人の時間が欲しかったのは確かだが、いざこの時間帯で一人になると何をするか迷うな」


 最近はネメフィと生活リズムを合わせているので、俺は特に意味なく早寝早起きをしていた。

 そのせいで時間の感覚がしっかりとついてしまっていた。悪いことではないが、睡眠を取ることで一日の行動が制限されてしまうので、どこか勿体ない気がしている。


「そういえば、ここ一週間東野の姿を見ていないな」


 俺はふと東野のことが頭に浮かべると同時に、ここにきて初めて東野の気配を探ることにした。

 というのも、初めて邂逅したあの日以来、東野は俺たちの前に姿を見せていないからだ。


「ん?」


 あれだけ先輩面して張り切っていたというのに接触してこないということは、何かあるのだろうと考えていたが、俺はまさかの場所から気配を感じ取った。


「ここ……って俺の部屋の隣だよな。確か引越し初日の時に挨拶に行った時は留守だったよな……」


 気配を感じる先は俺の部屋の右隣の部屋だった。

 ちなみに、俺たちが住んでいる部屋は角部屋なので、隣の部屋というのは右隣のこの部屋しか存在しない。

 

「——ぁぁぁぁ……づがれだぁ……! サインに加えて、それぞれ別のメッセージを三行も書くなんて無茶よ。しかも、残り百五十枚もあるなんて……」


 俺がインターホンを押そうとしたその時。

 静かに扉が開かれると同時に、東野はその完璧に整った身だしなみからは想像できないほどの疲れた声を発しながら、ふらふらと部屋の中から現れた。

 しかし、真横にいるはずの俺のことは全く視界に入っていなかった。


「全く! 私が新人賞で大賞を受賞した最強売れっ子作家だからって仕事をさせすぎよ! まっ、この勢いを保てば一年後にはアニメ化も夢じゃないわね! オーホッホッホッホッ!」


「おい。東野。なんでそんなにフクロウみたいな笑い方してんだ? 一週間も引きこもって頭がおかしくなったのか?」


「ギャァァァァァァッッーーーー!! って、タナカじゃない! いきなり後ろから肩に触れないでよね!」


 俺が東野の背後から肩にポンと手を置くと、東野はフクロウのような高笑いから一転して、お手本のような悲鳴を上げた。

 そしてすぐに俺から距離を取ると、ビシッと指を差してきた。


「少しはこれを抑えろ。前回もそうやって怒られたばかりだろうが」


 今回はこんなこともあろうかと、俺は東野の肩に触れると同時に”サイレント”という指定範囲内の音を取り除く魔法を発動させていたため、前回のようにフロア中の人間が集まるようなことはないだろう。


「あっ、そうだったわね。仕事が立て込んでてすっかり忘れちゃってたわ」


「フリーランスとは言っていたが、具体的に何の仕事をしているんだ?」


「ふっふっふ……聞いて驚きなさい。私は今日本で最も将来を期待されている小説家をしているわ! どう!? すごいでしょう!」


 他愛もない俺の問いに東野は不敵な笑みを浮かべながら堂々と答えた。

 手を腰に当てて仁王立ちをして、下から俺の目をじっと見つめている。


「そうか。小説家だったのか。にしても今日は天気がいいよな。何か予定があったりするのか?」


「ちょ、ちょっと! 天気のことなんてどうでもいいでしょっ!? 私が小説家だっていう話を深く掘り下げなさいよ!」


 東野は特に大きいリアクションをせずに話を流した俺に向かって、困惑した表情でにじり寄ってきた。

 以前までの無職の俺だったなら、職業が小説家と聞けば確実に驚いていただろうが、今はそんなことはない。

 なぜなら今の俺はまだ未出版の身ということで小説家を名乗ることはできないが、一月後には無事に職業が小説家になるからだ。


「うおぉぉ、すごいなぁ、小説家かぁ」


 今更嘘のリアクションをするのは難しいので、俺は適当に驚いたフリをした。


「くっ! わざとらしい反応だけど、まあ許してあげる! 私のペンネームを聞けばそんな表情もあっさり崩れるからね!」


「ほう。そんなに有名なのか? 俺は世間に疎いが、それでもわかるくらいか?」


 過去五年間の記憶がない俺でも知っているペンネームだとしたら大したものだ。


「当たり前よ! 私の作品は四年前に開催された賞レースで日本一面白い小説に輝いたんだから! 作品タイトルは『イカロスの夜風』よ。聞いたことくらいあるでしょう?」


「……四年前か。で、肝心のペンネームはなんだ?」


 東野は「ふふん!」と鼻を鳴らしていたが、俺は四年前と聞いた時点で理解することを諦めてしまっていた。


「『ブンゴージェイケー』よ! 一年前に純文学からラノベにシフトしたんだけど、そのラノベでも新人賞で大賞を取ったわ! どう? 中々凄いでしょ?」


「……ああ。ネットで名前と作品名を見たことがあるな。かなり若手の作家だという記事も見た気がする。お前の言っていることが真実なら、とてつもない快挙じゃないのか?」


 今の年齢が二十歳くらいだと仮定すると、四年前は女子高生ということになる。その年でこれだけの結果を残せているのは快挙以外の何者でもないだろう。

 だが、ラノベよりも遥かに売れるであろう純文学からラノベにシフトした理由がわからないな。


「そうでしょう? わかればいいのよ! それで、タナカは何の仕事をしているの?」


 俺は『ブンゴージェイケー』が何者で俺にとって何なのかをすぐに理解していたが、あえてここでは触れないことにした。


「無職だが、今は競馬とスクラッチで稼いだ金で暮らしている」


 やっときたか。この逆質問が。絶対に聞かれると思っていたので、俺は何の躊躇もなく正直に答えた。


「……え?」


「だから、俺は競馬とスクラッチで稼いだ金で暮らしているんだよ。来月から仕事を再開する予定だが、なにぶん不安定な仕事でな。その先がどうなるかはまだわからん」


 素っ頓狂な声を上げた東野の耳に届くように、俺はハキハキとした口調でしっかりと伝えた。


「ふ、ふーん……なんかごめんなさい。少し踏み込んだ質問をしちゃったわね」


 東野はらしくない様子でしゅんとしていた。


「気にするな。この話題を先に出したのは俺だからな。というか、俺はこれから少し用事があるから失礼する。またな」


 俺はそんな東野の返事を待たずに扉を開けて部屋に入った。

 やることというのは、昨日の夜に西園寺さんから送られてきたサイン色紙にサインを書く仕事だ。

 俺の固定ファンは今のところ0人だが、今後に備えて時間がある時に書くよう言われたのだ。

 面倒な作業になるが、これも仕事だ。やるしかない。

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