第32話 ゲロはごめんだ

「はぁはぁ……もう疲れたよぉ……。どうしてエレベーターが壊れてるのさ!」


 ネメフィは長い金髪を体とともに大きく揺らしながら、疲れ切った様子で一段ずつ階段を上っていた。


「張り紙には前まで継続的に起きてた地震のせいとか書いてたぞ。というか、『運動するぞぉっ!』とか言って真っ先に階段を上り始めたのはお前だろ?」


 無事にマンションに到着したはいいものの、まさかエレベーターが壊れているなんて思ってもいなかった。

 俺は転移魔法で部屋の中まで転移することを勧めたのだが、どういうわけかネメフィは己の足を使って部屋まで行くと言い出したのだ。


「そ、それはそうだけど……ぅうぇっぷ……っ……あ、やばいかもっ」


 俺が数段上から声をかけると、ネメフィは腹と口元を抑えながら途端にえずきだした。

 おそらく喫茶店で食べすぎた後に激しい運動をしたからだろう。自業自得にも程がある。


「はぁぁぁ……ったく、部屋まで運んでやるから背中に乗れ。おっと、お礼はまだ言うなよ。ここで吐かれても困るからな」


 俺は数段下にいたネメフィを背中に乗せてから、衝撃を加えないようにゆっくりと階段を上り始めた。

 俺たちの部屋がある階層までは後僅かだ。残り数秒でゲロを吐くという感じではなさそうなので、口さえ開かなければ大丈夫だろう。


「……ぅぅぅ……」


 ネメフィが俺の背中の上で呻き声をあげているせいで、首元に吐息がかかって少々こそばゆい。


「ネメフィ。何が何でも口を開くなよ? えぇっと……鍵……鍵……っと……」


 そんなネメフィに対して「吐くなよ? 絶対に吐くなよ?」という心配をしながらも頑強な扉の前に到着した俺は、カバンの中に手を突っ込んで部屋の鍵を探した。

 最近はカバンの中に広がるマジックボックスに物を入れすぎているため、中々探すのが大変だ。


「——ねぇ。お兄さんはそこの部屋に住んでる人?」


 俺が片手でネメフィの腿裏を支えながらカバンの中を漁っていると、すぐ左側からツンツンしたような声色をした女性に声をかけられた。


「ん? え、ええ、まあ……話なら後で聞くので少し待っていただけませんか? なにぶん今は緊急事態なもんで」


 俺は銀髪で紅い瞳をした少女のことを横目で見つつ、ネメフィのことを背負い直した。

 いきなり話しかけられたもんだから少し曖昧な返事をしてしまったが、言葉を選んでいられる状況でもないので仕方がないだろう。


「ふーん……私、わかっちゃった。お兄さん、誘拐犯でしょ。その挙動不審な態度もそうだけど、決定的な証拠として外国人の幼女を背負ってるんだもの。怪しいことこの上ないわね! 覚悟なさい! 変態!」


「ちょ、ちょっと待て! 体を揺さぶるな! このままだと最悪の事態を招くことになるぞ!」


 銀髪の少女は俺の方を力任せに揺らし始め、背中にいるネメフィを奪い取ろうとしていた。

 これはまずい。完全に犯罪者として見られていることもそうだが、それ以上にまずいことが起きてしまう。


「うるさい! そんなに虚な目をして口すらまともに開けない幼女を部屋に連れ込んで何する気よ!」


「なにもしねぇよ! というか早く離せ! 水場に連れ込まないと大惨事になるぞ!」


 俺は左手でネメフィを支えているせいで右手しか空いていないというのに、その右手は少女を制すために使われており、鍵を開ける暇など全くなかった。


「嘘よ! じゃあその幼女と話をさせなさい! 私は見たんだから! あなたが『口を開くな!』って脅してるところを!」


 少女は一旦俺から離れると、俺のモノマネをしながらビシッと指を差してきた。

 被害妄想にも程があるが、確かに勘違いされるようなシチュエーションであることは間違いないな……。


「無理だ! 絶対に話はさせられない!」


 だが、ここで引き下がるわけにはいかないので、俺はその隙に乗じて再び鍵を開ける作業に取り掛かる。


「ますます怪しいわね! なら……実力行使でいかせてもらうわよ! はぁぁっ!」


 少女は俺の顎を目掛けて前蹴りを放ってきたかと思いきや、すぐに体勢を立て直して空手のような型ができた綺麗な攻撃をいくつも繰り出してきた。

 異世界の冒険者は皆独学の無作法な攻撃ばかりだったので、少女が繰り出す攻撃の美しさがより顕著になる。


「何してるんだ! 俺が躱していなきゃ顎も肋も脛も全部砕けてたぞ! ったく! 面倒だな……」

 

「どうして全部躱せるのよ! 私はこれでも空手の全国プレイヤーなのよ!」


 俺が最小限の動きで全ての攻撃を躱していることに腹を建てたのか、少女はムッとした表情で俺のことを睨みつけてきたが、そんなことはどうでもよかった。

 なぜなら、この攻防が行われている最中、俺に背負われているネメフィの腹と喉からイヤな音がしていたのだから。


「知るか。というか……もう、お終いだ……」


 俺の脱力した右の手のひらから部屋の鍵がこぼれ落ちた。


「お終いって……あれだけ抗っていたのにあっさりと諦めるのね」


「……」


 俺は少女の言葉を無視して背中にいるネメフィのことをチラリと見ると、ネメフィは先の攻防によって胃の中がシェイクされて脳が揺さぶられてしまったからか、口をあんぐりと開いて完全に脱力しきっていた。

 これは……もう残り数秒だな……。

 さようなら、俺のスーツ。さようなら、俺のカバン。さようなら、ネメフィの乙女心……。


「……え? な、なに……?」


 少女が呟くがもう遅い。

 既に戦いは決したのだ。


「——————」


 この瞬間、高層マンションの真白く清潔な大理石の床が、オレンジ色をしたゲロで汚されたのだった。

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