第20話 札束とプライド
「——それで、いきなり何の用ですか? 私たちは今、大変な時期なんです。千春も千春ですよ。高校を辞めて時間に余裕が出来たからとはいえ、家に訳の分からない男を連れてくるなんて言語道断です!」
少しよれたTシャツを着ている女性——千春ちゃんの母親は顔を顰めて俺の目を見た。
母娘ともに大和撫子って感じだな。
二人とも黒髪だし、目のすぐ側にほくろがある。
母が左、娘が右。年は違えどそっくりだ。
「ごめんなさい! でも、田中さんは私の命を助けてくれた人なの! それに、私も大好きな絵を仕事にできるかもしれないの! お願いだから、話だけでも聞いてあげて!」
「……千春。あなた、まだ夢なんて追っているの? あの人があんな重犯罪を犯して、ただでさえ切羽詰まっている状況なのに、何を考えているの? それに仕事だって見つかったんでしょう? 私とあの人が不甲斐ないばかりにこんな目に遭わせて申し訳ないけど、夢を追うのは諦めてちょうだい。うちにはそんな余裕はないから」
千春ちゃんの母親は頑として譲らない姿勢だ。
というよりも、夢を追うなというのは、自身や夫こ不甲斐なさを実感した上での選択なので、特に悪いことではない。
むしろ安定を求めるのなら正しい選択だろう。
それよりも気になったのは、やはり仕事が夜職だというのとは言っていなかったという点だ。
碌に相談もせずに話をしていたのだろう。
だが、母親が忙しいということは言っていたので、仕方ないといえば仕方がないのかもしれないな。
「……夢くらい追わせてよ! 私だって本当はもっと高校生でいたかったよ! なんでお母さんとお父さんの都合に合わせて私が縛られなくちゃいけないの!? こんな風になるなら最初からこの世に生まれてきたくなんてなかったよ……」
千春ちゃんは涙ながらに言葉を紡いだ。
これまで言えなかった思いの丈を言霊に込めて、実の母親を目掛けてぶつけていた。
本音で語り合える仲というのはいいものだ。
「……そこまで言うなら、この人が怪しくないという根拠と明確な仕事内容をお母さんに全て教えなさいな。そうすれば考えてやらなくもないわよ?」
千春ちゃんの母親は千春ちゃんの言葉に心を打たれたのか、それとも説得を諦めたのか、突然優しい口調になってそう言った。
これは僥倖だ。俺が怪しくないものだと証明するチャンスだからな。
「僭越ながら、僕自らがその役目を担いましょう。まず、僕は小説を出版する予定がありまして、これは僕が描いた原稿になります。そしてその本のイラストを千春ちゃんに任せたいのです。ここまでは大丈夫ですか?」
俺は千春ちゃんが口を開く前に言葉を挟んだ。
カバンから原稿とドローライトで貰った公表しても大丈夫な書類をテーブルに広げていく。
「ドローライト……?」
俺が確認をするように目を見ると、千春ちゃんの母親は原稿と書類をチラリと見ながら言った。
どういうわけか、少し表情が柔らかくなった気がする。これは押せ押せでいけそうな雰囲気だ。
「何か気になることでもありましたか?」
「ここに知り合いがいるのよ。娘のように可愛がってた子だけど、今は何しているかは分からないわね」
千春ちゃんの母親は書類をぱらぱらとめくると、懐かしむような表情を浮かべていた。
「そうですか。ならドローライトが信頼できる企業だというのは十分ご存知でしょう? 大手出版社ですし、小説一冊で大ゴケなんてこともおそらくないと思います。それに、卑しい話になりますが、僕は別にお金には困っていません。仕事が欲しいから小説を描き始めたんです。その仕事をやる上で誰かの手助けでもできたらという思いから、彼女のことを誘わせてもらいました。報酬としては1,000,000円でどうでしょう?」
俺はそれを絶好のチャンスだと思い、グイグイと言葉を発して早口で捲し立てた。
早口とは言うが、饒舌に、的確に、相手の耳と心に届くように、あわよくば洗脳してやろうなんて気持ちを持ちながらも言葉を紡ぐ。
「……前払いよ。そこまで言うなら前金を用意なさい。娘が危ないことに巻き込まれているかもしれないのに、母親として易々と認めるわけにはいかないわ。それに、それをすぐに用意することができれば、あなたがお金に困っていないという証明にもなると思うわ。どうかしら?」
「お母さん! そんなのダメだよ! 失礼だよ!」
千春ちゃんは首を横に振ると、強気な口調で捲したてた。
「千春。あなたはすぐに人を信用しすぎよ。この人が詐欺師だったり怪しい業者だったらどうするつもり? これ以上、借金を増やしてもいいことはないわよ?」
大きく出たな。娘を大事にする気持ちというのは理解できるが、まさかそれだけの大金の前払いを要求してくるとはな。
だが、別に問題はない。
なんなら金を渡した後に、そのまま追い討ちをかけてやろう。
「ほいっと……これでどうです? それと僕の担当編集者さんに電話で繋げたので、気になることがあれば何か聞いてみてください」
俺はカバンの中から札束と一緒にスマホを出して、予め操作をしていたスマホを、千春ちゃんの母親を目掛けて軽く投げた。
「田中さん!? これは……!!」
千春ちゃんが札束を見て椅子から転げ落ちそうになっているが、今は無視しておこう。
せっかくのいい流れを逃してしまうからな。
「もしもし……えぇ! 愛梨ちゃん! どうしたの? ええ……そうなの、じゃあこの人は……そうなのね。うん、わかったわ、ええ。また今度話を聞くわね。ええ、さようなら」
千春ちゃんの母親は目を見開いて驚いていたが、迷惑をかけてはいけないという意識が働いたのかすぐにスマホを耳に当てると、驚きながらもとんとんとテンポ良く会話を進めていた。
「どうでした? というか、お知り合いの方って西園寺さんだったんですね」
会話の節々を聞く限り、知り合いというのは西園寺さんだったらしい。
申し訳ないことに、愛梨という名前はすっかり忘れていたが、あれだけ仲良く話していたので、知り合いで間違い無いだろう。
「……ええ。本当にごめんなさい、愛梨ちゃんに怒られてしまったわ。それと、これは受け取れないわ」
千春ちゃんの母親は座りながら深く頭を下げると、テーブルに置いていた札束を俺の方に寄せてきた。
どうやら西園寺さんに言われて信用してくれたらしい。
「いえ、受け取ってください。これは迷惑料です」
ただ言葉に任せてそう言ってしまったが、本来、報酬というのは俺が払うものではない。
これはただの迷惑料だ。貴重な時間を奪ってしまった挙句、感情を揺さぶってしまった。
この二つが非常に人生において意味のないことなのかを俺はよく知っている。
「……田中さん……本当にいいの?」
「こら! 千春! 田中さんに悪いでしょ! 何もしていないのにこんな大金受け取れないわよ!」
千春ちゃんが札束にそっと手を当てると、千春ちゃんの母親はその手を叩いて、儚げな表情を浮かべた。
「でも、そんな余裕いってられないよね? 今日だって一ヶ月ぶりの休みでしょ? なのに、明日の食費だって、来月の家賃だって足りないよ……? 田中さんには目一杯の感謝を伝えて、ありがたく受け取るべきだよ」
千春ちゃんは俺と札束を交互に見ながら言った。
少なくとも俺が知っているこの年代の女の子は、もっと明るくて楽しそうな人生を送っていたはずだが、千春ちゃんは違った。
明るくて楽しそうではあるが、やはりどこか後ろめたさというか、影が差しているような感じがしている。
「……わかったわ。田中ニールさん。私が仕事で忙しい間、この子のことを頼みます。愛梨ちゃんにもそう伝えてありますから、犯罪に関与すること以外のことでしたら何なりとお使いください」
「ちょ、ちょっと! お母さん! それじゃあ私が嫁ぐみたいじゃない!」
千春ちゃんは顔を真っ赤にしながら母親に言い寄った。
照れもあるが少し怒っているみたいだ。
「ふふふ。いいじゃない。お金を持ってる小説家さんよ? 将来は安泰じゃないかしら?」
千春ちゃんの母親は妖艶な笑みを浮かべると、艶かしい声でそう言った。
まあ、おそらく冗談だろう。
千春ちゃんの素直な性格を揶揄っているに違いない。
「もう! 人をお金で判断しないでよね! ね! 田中さん?」
「ん? あぁ、そうだな。俺はそろそろお暇するよ」
俺は木目の古い椅子から立ち上がって玄関へ向かった。
サッと素早く革靴を履いて足に馴染ませて、すぐに外へと続く扉に手をかけた。
「あっ! ちょっと——」
何やら千春ちゃんが名残惜しそうな顔をしてこちらを見ていたが、俺は素知らぬふりをして扉を閉めた。
要件は既に伝え終えた。後は何とかなるだろう。
その前に西園寺さんに報告だな。戸惑っているだろうし、覚悟を決めて向かうとしよう……。
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