第2話 いざ! ハローワークへ!

「……ここは……どこだ?」


 俺は気がついたらベッドの上で仰向けで眠っていた。

 俺が動く度に、薄汚れたベッドは今にも壊れそうな音を立ててギシギシと揺れている。

 天井にはどこか見覚えのあるシミが一つだけあった。


 懐かしいな……この感覚……もしかして……ここは……!


「家だ! やったぞ! 俺は無事に戻ってこれたんだ! よっしゃぁ! あぁぁ……これで平和に暮らせる……! やっとだ、五年だ……五年もかかった……」


 俺はベッドで仰向けになりながら反射的に喜びの言葉が口から溢れ出てきていた。

 異世界で勇者として死に物狂いの生活をしていた五年間を思い返すと、自然と瞳から涙が流れてくる。


 何度生と死の狭間を彷徨っただろう。

 無抵抗の人々をこの手で何人殺めただろう。

 俺が無数の命を救った裏で、どれだけの命が散っていき、どれだけの人々が苦しんだのだろう。


 たくさん精神を追い詰められ、死にたいほど苦しい時期もあった。


 ——だが、それも今日で終わりだ。


「……たった今から新しい人生が始まるんだな……」


 俺はベッドから起き上がって、部屋の窓を勢いよく開いた。


 五年の月日が経過したはずだが、都心からは程遠い俺のアパートとその周りの景観は、ほとんど変化していなかった。

 そんな何気ない目の前にある事実を目にするだけで、思わず頬が緩んでしまう自分がいた。


「その前に記憶を確認してからだな。名前は田中ニールでハーフの日本人。歳は……五年経ったから今は二十五歳か。当時の職業はアルバイトを転々としているフリーター。家は風呂トイレ無しのオンボロアパートってところか……俺ってば、めちゃくちゃハードな生活してたんだな……」


 俺はテーブルに置いていた埃を被った財布の中から運転免許証と健康保険証を取り出して、一つずつ確認していったが、予想以上に情けない自分に溜息が漏れてしまう。


 肩書きだけで比べるなら、異世界の勇者からただのフリーターになってしまったので、その落差はナイアガラの滝を軽く超えるだろう。


「それと頼れる者はゼロ。あのクソ国王め。俺の存在そのものを周りから忘れさせやがって! 絶対許さねぇぞ」


 これが一番辛いことだ。

 俺は確かに存在したはずの家族や友達に関する記憶がなくなっていた。当然、あっちにも俺の記憶はないのだろう。

 つまり俺は五年振りの日本でただ一人で生きていくしかないというわけだ。


「正直不安だが……働くしかないか。空白の五年間を取り戻すぞ!」


 俺は運転免許証と健康保険証を財布の中に戻して、身支度を整え始める。

 五年振りの温かいお湯の出るシャワーを浴び、綺麗な下着を身につけ、新品同然とも言えるパリパリのスーツを見に纏う。


「よしっ! 行くか!」


 俺は小さな鞄となけなしの金が入った財布を持ち、意気揚々と外へ出た。


 第一の目標はなんでもいいから働くことだ。

 そもそも俺は特別な夢を追っているわけでもなく、浪人しているわけでもないただのフリーターだ。

 二十歳でこれなら全然許されただろうが、流石に高卒で何の資格もスキルもないフリーター、ましてや二十五歳の男が簡単に生きていけるほど世の中は甘くないのだ。






「——申し訳ありませんが、運転免許証は既に失効しておられますし、何よりこちらの五年間の空白期間の説明ができないのであれば、申し訳ありませんが、ご就職は難しいかと思われます」


 ハローワークの受付にいた女性は俺に履歴書と運転免許証を返還するとともに、早口で断り文句を捲し立てた。


 確かに俺は空白の五年間を説明することはできない。というより説明したとしても、絶対に信じてもらえないだろう。


 だが、俺はこんなところで諦めるわけにはいかないのだ。

 明日の食料すら怪しい状況なので、ここは食い下がるしかない。


「そこを何とかお願いします! もうこれ以上、時間を無駄にしたくはないんです!」


 俺はテーブルに頭を擦り付ける勢いで頭を下げた。

 今の俺にできる精一杯の抗いだ。これで何とかならないのなら、俺はここにいる意味がなくなってしまう。

 

「申し訳ありません。田中様がどういった事情で、五年もの間職を失っていたのかは存じ上げませんが、それ以前に、元号や様々な語彙、職歴についてあやふやな点が多すぎますので、まずは社会常識から学ぶことをお勧めいたします」


 が、しかし、またもや早口で受け流された。

 先ほどよりも辛辣な言葉だ。

 履歴書を指差しながら言っているが、俺はこれが正しい思って全て書いているので、何が悪いのかすら理解できていない。


 レイワって何だよ……? 新しい元号かなんかか?

 俺が異世界にいる間に平成は終わっちまったのか?


「……わかりました……お時間を取ってくださりありがとうございました……」


 俺は上げた頭をすぐに下げて軽い礼を述べた。

 一介のハローワークの人間にこうまで言われてしまったら、俺はもうこれ以上食い下がることはできなかったからだ。


 そりゃあそうだ。断るのも当然だ。

 もしかしたら前科持ちかもしれないし、今現在も犯罪者の可能性だってある。

 髭はきちんと剃ったが、髪はナイフで整えただけで不潔だし、怪しいことこの上ない。

 俺が相手の立場になったとしても、適当な理由をつけて断っていただろう。


 今回は俺の努力不足とリサーチ不足だな。


「さて……どうすっかな……っと、腹の虫も鳴いてるし、銀行で金下ろしてから飯でも食うか」


 ハローワークの前で真っ昼間の太陽を見上げていると、ぐぅぅーっと腹から大きな音が鳴った。

 本当は飯なんて食わないで節約したいのだが、せっかくの五年振りの日本で食う飯だ。

 どうせなら今ある金を使って、それなりのものを食べたい気分だな。


 まずは銀行に向かうか。

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