いわしの群れ

五月女 十也

◆◆◆




 上京して二回目の夏が始まった頃。


 私は行く当てもなく電車に乗って、ぼうっと窓の外を眺めていた。真っ青な空には、眩しいほどに太陽の光を反射した入道雲がずんぐりと浮かんでいる。ちょっと前にはまだ桜が咲いていたというのに、私が家に引きこもっていた間に季節は進んでいたようだ。さっきも、自宅から駅にたどり着くまでの少しの道のりを歩いただけで、すっかり汗だくになってしまった。冷房の効いた車内でくしゃみを一つして、私は車内をぐるりと見渡した。


 まだ世間の夏休みが始まっていない平日の真っ昼間ということもあり、座席はほとんど埋まっていない。私も肩書上は大学生だけれど、去年の暮れからだんだんと大学に行く回数が減り、何とか進級はしたものの今は全く講義を受けていない。立派な引きこもりだ。高校時代からの内輪ノリで盛り上がる同期、合わないノリを強要してくるサークルの先輩、ろくな講義をしないくせに大量のレポートを課す教授などなど、大学という環境がもたらすあらゆる人間との関係構築がうまくできなかったことが敗因だと思っている。もとから人付き合いが得意ではなかったけれど、大学生になれば何か変われると思っていた過去の私が少しかわいそうだ。


 思い出してしまった嫌なことを頭から追い出すために、お気に入りのプレイリストを再生しようと思い立ってポケットを探る。しかし、どうやらイヤホンを忘れてきてしまったらしい。手元にあるのは財布とスマホだけ。スマホに至っては通信制限が来ているからろくに使えないというおまけつきだ。仕方ない、と私は荷物をポケットに押し込んで、再び窓の外に目をやった。




 ◆




 いつの間にか眠っていたらしい。「終点です」という車掌の声に起こされて駅に降り立つと、つんと磯の香りが鼻についた。海だ。久しぶりに見た海に、私は柄にもなく気分が高揚するのを感じた。改札を抜けるとすぐ目の前に真っ白な砂浜が広がっている。電車で来ることができる距離にこんな場所があるだなんて知らなかった。思わず駆け出そうとして、私ははたと足を止める。ここで我を忘れてはしゃいでいたらいけない気がする。私は家に帰れるのだろうか。


 慌てて駅に駆け戻って時刻表を見るが、どうやら最終列車はついさっき私を下ろしてすぐに折り返していったらしい。既に夕暮れ時とはいえ、まだ日も完全に落ち切っていないのに最終列車とは些か早すぎやしないだろうか。いや、家の最寄りで電車に乗ってから既に五時間以上経過しているのを見るに、かなり田舎の方まで来てしまったのだろう。


 しまったな、と私は頭を掻いた。どこか途中で適当に降りて、なにか美味しいものをぶらぶら食べ歩こうと思っていたのに、とんだ誤算だ。今日はこの辺りに宿を取ることになるだろう。ところが、悲観するべき場面であるはずなのに、私の口元は弧を描いているし、足取りはとても軽い。


 とにかく、私は砂浜に向かって歩き出した。私の他に人影はなく、ただ海の音がこだましている。時折、波打ち際を跳ねまわっているウミネコの、ミャアミャアという声が空気を揺らす。しばらくあたりをうろうろしていたら疲れてしまったので、近くにあった自販機で缶ジュースを買って、砂浜の真ん中にあった大きな岩に腰かけた。


 久々に見た海は遠く、遠くまで深い水の色を反射して輝いている。いつの頃だったか、初日の出を見に故郷の海をぼんやりと思い出す。朝日と夕日では色が全く違うのだなぁ、なんて考えていた、その時。


「ねぇ、お姉さん」


 ぼんやりとしていた私の背中を誰かが叩き、ついでに背後からあどけない声がした。振り返ると、見知らぬ男の子が私を見上げている。背格好から推測するに、まだ幼稚園を卒業していないだろう。突然のことにぎょっとして、睨みつけるように彼の目を見つめ返す私の反応に、その子はぱちぱちと瞬きをしてから両手をずいと持ち上げた。


「お姉さん、この財布、落とさなかった?」

「さいふ?」


 視線を落とすと、彼の手には男物の長財布が握られている。私の財布はもっと小さいし、今もポケットの中に納まっている。私は首を横に振った。


「落としてないよ」

「でも、母さんがお姉さんが落としたって」

「お母さんの見間違いじゃないかな」

「そっか」


 男の子はにっこり笑うと長財布を胸に抱えなおした。そしてそのままいなくなるのかと思いきや、私を見上げたまま言葉を続けた。


「お姉さん、どこから来たの?」

「どこって、ちょっと遠いとこ」

「今日はこの辺りに泊まるの?」

「多分そうだね、泊まることになるかな。宿があれば、だけどね」

「お仕事は行ってないの?」

「……学校なら休んだけど」


 彼の言葉尻から自分が実年齢以上に見られていると気づいて、私は半ばムキになって返事をした。彼は少し驚いたように私を見つめて、それから気まずそうに眼をそらした。


「それじゃあ、おれそろそろ帰るね」

「うん。ありがとうね、わざわざ聞きに来てくれて」

「ううん、どういたしまして!」


 走り去っていく男の子の背中を見送る。久しぶりに、誰かと二言以上会話した割には話せていたのではないだろうか、と思うと無性に嬉しくなった。




 ◆




 私が眺めている前で、太陽は水平線の向こう側に姿を消した。空の色も少しずつ藍に染まり、太陽の後を追うようにして現れた半月が淡い光を放つ。私はお腹も空いたのでなにか食べに行こうと腰を上げた。浜辺に沿うようにして走る道を渡ろうとして、ふと、少し離れたところで道を照らしている街灯の下に誰かが立っていることに気づいた。


「あれ」


 思わず声が漏れる。まだ日が暮れる前に一度見た顔。大事そうに長財布を抱えているその人影は、私と視線を合わせると小さく会釈した。どうしたのだろう、親と一緒ではないのだろうか。不思議に思ってあたりを見渡しても人っ子一人見当たらないし、車が停まっている様子もない。さっき彼と別れてから少なくとも三十分ほど経っているはずだが、もしかして彼は、ずっとここにいるのだろうか。


 話しかけるか、そうしないか、私はしばし立ち止まって考えた。普段の無気力な私だったら面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと絶対に話しかけないだろうが、今の私は海の気配に中てられたのだろうか、どうにも彼を放っておくことができなかった。


 私が歩み寄ると、彼はもう一度会釈をした。


「どうかしたの?」

「……母さんたちがいなくて」

「は? いない?」

「うん。車がどこか行っちゃって、どうしようかなって思ってたら、すっかり暗くなっちゃって」


 財布を握りしめた彼は、私の目をじっと見ながら言葉を繋いでいく。


 私は自分の耳を疑った。母親に海に置いて行かれるだなんて、そんな話は聞いたことない。新手の詐欺じゃないだろうかと疑って、それでも彼の眼がウソをついているようには見えなくて、私は少し考えてから彼が握りしめている財布を指さした。


「それ、見せてもらってもいい?」


 もしかしたら、財布の中になにか手掛かりになるようなものが入っているかもしれない、と思ったのだ。一瞬、彼の表情が曇ったような気がしたから断られるかと思いきや、彼は素直に長財布を差し出した。中を見ると、数枚のお札と一緒に、一枚のメモが入っている。メモには、どこかの住所と、『この財布を持っていた男児をここに届けてください』という一文が書かれていた。


「なんだこれ」


 背筋を冷たいものが走った。誰か、第三者が読むことを想定したかのような文章。心臓の音が大きくなるのを無視して財布をしっかり調べてみても、他には何も手掛かりになりそうなものはなく。私はしゃがみこんで彼と視線を合わせた。


「ちょっと質問してもいい?」

「いいよ」

「ありがとう。君は、ここに誰と一緒に来たの?」

「母さんと、おじさん」

「どうやって?」

「おじさんの車で」

「じゃあ、なんで、さっき向こうの砂浜で私に話しかけたの?」

「母さんが、あそこのお姉さんが財布を落としたから届けてあげてって、届けてあげたらいいことあるよって、言ったから」

「……そっか」


 なるほど、どうやら私は面倒ごとに巻き込まれたらしい。やっぱり声をかけなければよかった、なんて後悔しても、こうして関わってしまった以上、彼を置いていくわけにはいかないだろう。とはいえ、彼を連れていくにしても、どうやって私の信用を得て、どうやって状況を説明して付いてきてもらおう。ぐるぐると思考が渦を巻く。


「お姉さん」

「なに?」


 私は長財布のメモをじっと見ながら、空返事をした。


「おれ、捨てられたんだね」


 そう言った彼の声はひどく穏やかで、私の脳がその言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。ずっと聞こえていた波のさざめきとウミネコの鳴き声が、急速に現実味を失っていく。


 私は彼の顔を見やった。真っ直ぐな視線は相変わらず私を捉えている。これは逃げられない、そう悟って、私は空を仰いだ。それから、なんて返事しようかと少し考えて、「そうだね」と小さく呟いた。


 考えていても埒が明かない。少し肌寒さを感じた私は小さく身震いして踵を返した。


「ついてきて」

「え?」

「お腹空いてるでしょ。私は空いてるからご飯食べに行く」

「い、一緒に行っていいの?」

「だって君、他に行くところもないでしょ」

「まぁ、そうだけど」

「でしょう? だから、今日は私と一緒にご飯食べて、どこかに泊まろう。それで明日、君をここに書いてある住所に連れていくよ。それでいい?」


 メモを軽く振りながら彼の様子を伺う。彼は少しの沈黙の後に小さく頷いた。


「おれ、翔太っていうんだ。お姉さんの名前は?」


 自己紹介されるなんて思っていなかった私はぽかんと彼を見下ろした。


「私のことはお姉さんのままでいいよ」

「どうして?」

「だって、明日にはお別れするんだから」

「……確かに、そうだね」


 咄嗟に返した返事はかなりそっけないものだったけれど、彼は気分を害した様子もなく「わかった」と素直に頷いた。


 そうして私たちは駅の近くにあったファミレスで食事をし、ビジネスホテルに泊まった。「おやすみ」と声をかけ合い、彼がふにゃりと表情を崩しながら笑ったのを見届けて、私は目を瞑った。




 ◆




 目が覚めるといつもと違う天井が視界に映って、ゆっくりと瞬きを繰り返す。状況を思い出すよりも先に右手を包む熱が気になって視線を滑らせる。隣のベッドに放り込んだはずの男の子が夜のうちに私のベッドに忍び込んでいたようだ。人間って温かいんだな、なんてぼんやりと考えながら、私はゆっくりと起き上がった。


 それにしても、初対面の人と同じベッドで眠れるなんて、この子意外と肝が据わっているんじゃないだろうか。いや、逆か。心細くて一人で眠りたくなかったのかもしれない。私の視線が気になったのか、もぞりと身じろいだ彼はゆっくりと瞼を開いた。


「おはよ」

「……おはよう、ございます」

「ん。顔洗っておいで」


 寝起きで状況を把握しきれていないのか、ぼんやりした眼で私を見上げる彼の頭を撫でると、癖っ毛が指に柔らかく馴染んだ。彼は素直に洗面所に向かい、私はしばらく微かに温もりの残る掌を握りしめていた。


 それから私たちは、ホテル備え付けの朝食会場で腹ごしらえをして、身支度を整えた。「そろそろ行こうか」と彼に声をかけると、彼はおずおずと私の服の裾を引っ張った。


「あ、あのねお姉さん。おれ、そこに行く前に行きたいところがあるんだけど」

「別にいいけど……どこ?」


 彼は目を伏せて答えた。


「水族館」

「……すいぞくかん」

「うん。水族館に行きたいんだ」

「ちょ、ちょっと待ってね」


 慌ててスマホをホテルのWi-Fiに繋ぎ、検索エンジンを起動させる。付近の水族館を調べると、小ぢんまりとしたものが電車で一時間ほど行ったところにあると表示された。


「もしかしてここ?」


 エントランスの写真を拡大表示して見せると、彼は首を縦に振った。


「いいよ、じゃあそうしよっか」

「ほんと? いいの?」

「うん。……それにしても、水族館なんて久しぶりだ」


 楽しみだね、と笑いかけると、彼は安心したように笑顔を返した。




 ◆




 水族館はほとんど貸し切りだった。彼はゆっくりとした足取りで館内を一周し、イワシの水槽の前で立ち止まった。水流に乗って、銀色の波がガラスの向こう側で整然と繰り返している。「好きなの?」と聞くと、「ずっと泳いでいて疲れないのかな」、と返ってきた。


 私は、イワシの水槽からそっと目を逸らした。代り映えのしない景色が続いていることがなんだか落ち着かなかった。このイワシたちは、水槽の中で死ぬまで同じように泳ぎ続けて、死んだら代わりの個体がここに連れて来られるのだと思うと、素直に楽しめなくなってしまった。そのうえ、いつか社会の欠片として働くことになるであろう自分の姿がイワシに重なって見えて、私は口元を押さえた。


「どうかしたの?」


 私は声のした方を見た。彼と視線がかち合って、私は反射的に顔に笑みを張り付けた。


「なんでもないよ」


 きっと私はうまく笑えていないだろう。それでも彼は何も言わず、再び水槽に顔を向けた。


 帰り際、彼がトイレに行っている間に売店に立ち寄って、二つセットになって売られていた鈴を買った。しゃらりと鳴るその音が気に入ったということもあるが、それ以上に、どうにも今日のことを忘れないための楔が欲しかったのだ。どうせこれっきりの関係だから、と彼に自分の名前を伝えなかったくせに、いっちょ前に今日の思い出を形に残そうとするなんて矛盾している。そう自嘲していたところに彼が戻ってきたので、私は包装を解いて片方の鈴を彼に差し出した。


「これあげる」

「……いらないよ」

「そう言わずにさ。あ、もしかしてこの音嫌いだった?」

「そうじゃないけど」

「ならいいじゃん。ほら」


 彼の手に鈴を押し付けると、彼は少しためらってからそれを握りこんだ。


「……ねぇ、お姉さん」

「なに?」


 彼は何かを言いかけるように口を開き、それから「なんでもない」とか細い声を落とした。




 ◆




 それから私たちはまた電車に乗って、メモに書かれていた住所に向かった。電車特有の音と揺れが私たちの間に空気の波を作る。誰かといる時の沈黙は心地悪いものだと思っていたけれど、彼との間に会話がないことにはむしろ安堵している自分がいて、私は心の中で首を傾げた。


 窓の外は少しずつ夕暮れ色に染まり始めている。私たち以外は誰もいない車内も、もう少ししないうちに通学や通勤をする人たちでごった返すようになるだろう。


 私たちを乗せた電車は目的地に向けて走り続ける。私が眠気に襲われて欠伸を漏らすのと、隣に座る彼が「ねぇ、」と声を落としたのはほとんど同時だった。


「おれのこと気持ち悪くないの?」

「……なんで?」


 突然の質問に、私はたっぷりと間を取ってなんとか返事をした。


「おれ、中途半端に大人びているのが気持ち悪いって、両親に捨てられたんだ。だから子供らしく振舞おうとしてたんだけど、お姉さんには本性見抜かれてるような気がして、それで」


 彼は私と目を合わせることなく、窓の向こう側を見つめたまま言葉を切った。その表情は子供らしからぬ硬さを持っていて、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。なるほど、言われてみれば彼がやけに大人びているような気もする。だからといって何か変わるわけではないし、私にとってはどうでもいいことなんだけれど、どうやら彼にとってはそうではないらしい。


「別に、気持ち悪くないけど」


 考えるより先に言葉が滑り出た。


「ほんと?」

「ほんとだよ」

「気持ち悪くない?」

「うん」


 彼はようやく私のほうを見た。そこに疑いの色が滲んでいるのを見て取って、私は言葉を付け足した。


「君のそれはただの個性だし、むしろ強みだとか武器だとか、そういう類のものになると思うけど。そんなに周りの大人の言うこと気にして生きてなくたって……」


 続きを口にしようとして、私ははたと口を止めた。何歳だか知らないけど確実に未成年、それどころか小学校に入学しているかも怪しいような、周囲の大人の助けがないと生きていけないであろう彼に、ものすごく無責任なことを言おうとしているのではないか。そう気づいてしまうと自分の言葉が薄っぺらく思えてきて、私は目を泳がせた。


「その、そうだね、ええと……。うん、周りに合わせて生きることと、自分を殺すことは全くの別物だ……と、私は思うな」

「お姉さん、良い人だね」


 彼は嬉しそうにくふくふと笑った。それから大きく深呼吸をして、手元の長財布に視線を落とした。


「メモに書いてあった住所、おれのお祖母さまの家なんだ」

「……読んでたんだね」

「うん。お金が入ってるのも見た。あのお金使ってよかったのに、お姉さん全然使わなかったね」

「他人の財布から盗るほどお金には困ってないよ。それに、あのお金は君のだよ。君が、お母さんからもらったんだ。いざというときに使えるようにとっておいた方がいいと思う」

「……本当にお人よしだね」

「馬鹿だなって思った?」

「思った」


 私は小さく笑って、窓の外を見た。海の気配はとっくに消え去り、あたりにはビルが立ち並んでいる。


「お姉さんになら、攫われてもいいんだけどな」


 小さな呟きは、電車が走る音にかき消されることなく私の耳に届いた。私は、咄嗟に吐き出しそうになった声を呑みこんでから、窓の外に視線を固定したまま言葉を探した。


「……そういうこと、簡単に言っちゃダメだよ」

「簡単じゃないよ。お姉さんだから言ったの」


 あれも違うこれも違うと脳みそをしっちゃかめっちゃかにかき混ぜて、ようやく引っ張り出してきた言葉だったのに、それにも即座に言葉が返ってきて、私はまた言葉を詰まらせた。


「でも私はまだ大学生だし、経済力もないし、自分のことで精いっぱいなのに」

「じゃあ、お姉さんがもっと大人だったら、おれのこと攫ってくれた?」

「……もしかしたらね」


 私が苦笑いを浮かべるのと電車がホームに滑り込むのはほぼ同時だった。緩やかなブレーキに体が揺れる。開いたドアに反応するように立ち上がった彼は、私を振り返って目を細めた。


「さぁ、着いたよ。ここからはおれが案内するね」




 ◆




 迷いなく歩く彼の後を追いかけて、閑静な住宅街を歩く。たどり着いた先にあった豪華な洋風の一軒家のインターホンを鳴らすと、老婆が姿を現した。彼女は男の子の姿を見るなり顔を顰め、それから鋭い眼で私を見て叫んだ。


「この犯罪者! 警察を呼びますから大人しく捕まりなさい!」

「はぁ?」

「あなたがこの子を誘拐したのでしょう? よくもまぁのこのこと来れましたね」


 どういうことかわからなくて思わず男の子を見下ろすと、彼は目を見開いて固まっていた。長財布を抱える指は白くなっている。視線を戻すと、老婆はじっと私を睨みつけていた。


「……どういうことでしょうか」

「とぼけないで! 一昨日、この子が急にいなくなったって、この子の母親から連絡が来ました。えぇ、警察には届けてあります。すぐに対応してもらいますから、あなたはここで大人しくしていてください」

「待ってください、話を聞いてもらえませんか」

「犯罪者の話なんて聞く必要ありません。あぁ、逃げようとしても無駄ですよ、防犯カメラに顔がちゃんと映っていますから必ず捕まえて差し上げますからね」


 彼女の言葉につられて防犯カメラを探す。庭の木の向こうにそれらしきカメラがあるが、あらぬ方向を向いているうえに、野晒しにされているコードが切れているのが見えた。あれでは私の姿格好を録画するなんて無理だと思うのだけれど。そう思っている間も、饒舌な老婆はだんだんと声を大きく張り上げながら、私に向かって罵声を浴びせている。


 私は途方に暮れてため息を吐いた。警察を呼ばれたら自分の無実を主張するしかないけれど、目撃者だとか証拠だとかは持ち合わせていない。ここはとっとと男の子を預けて退散するが吉なようがする。私はそこでようやく、彼がここに来てから何も言わないことに気づいた。気になって見やると、彼は真一文字に口を結び、先ほどと変わらない様子で財布を掻き抱いている。


「大丈夫?」


 小声で尋ねると、彼は躊躇ってから小さく頷いた。


 私は彼の背中を老婆のほうにそっと押しやった。弾かれたように顔を上げた彼の眼には、驚愕やら不安やら疑念やらの色が浮かんでいるように見える。


「ねぇ、しょうたくん」


 いよいよヒステリックに喚き始めた老婆を無視してしゃがみ、彼に視線を合わせる。私には、これ以上彼の人生に介入する権利はないのだ。自分にそう言い聞かせながら、私はできるだけ柔らかい笑みを浮かべようと頬を動かした。


「楽しかったよ。元気でね」

「……ありがとう、お姉さん」


 彼はぽんとポケットを叩いた。しゃら、と鈴の音がした束の間、その余韻はしゃがれたがなり声にかき消される。それから、小さく深呼吸をした彼は、振り返って老の服の裾を引っ張った。彼女が鬱陶しそうに身をかがめると、彼はすかさず何かを耳打ちする。彼が何を言ったのか、老婆はみるみるうちに表情を緩ませた。


「……それ、本当でしょうね」

「はい、お祖母さま」


 老婆は満足げに頷いてから私をじとりと睨みつけて、ふんと鼻を鳴らしながら家の中に姿を消した。その後を彼が追う。ドアが閉まる瞬間に彼と目があったような気がしたけれど、それっきりあたりには蝉の声だけが取り残された。


 私は改めて、二人が消えていった家を見上げた。たった今、人が住んでいるところを見たはずなのに、まるでずっと誰も住んでいないかのような、得も言われぬ空虚さが漂っている。その空白が私の中に染みこんでくるような気がして、私は慌てて踵を返し、額の汗を拭った。しゃらん、とポケットで音が鳴る。空に浮かぶ入道雲は境目が分からなくなるほどに眩しくて、アスファルトの上の蜃気楼は蝉の声を連れてじわりじわりと大きく揺らめいている。


 私は熱気をまとった空気を大きく吸い込んで、元来た道を駅に向かって歩きだした。







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