第3話 凡悩 ②
目の前で顔を両手で覆い隠しながら彼女はもう10分は泣いていた。その後ろには僕が投げて割れた瓶が派手に散らかっていて壁には大きな傷とビールの染みが残っている。
口論のきっかけは僕にとっては些細な事で、彼女や世間一般的には重大な事だったのは間違いなく、少なくとも2ヶ月ぶりに会った恋人とどうしてこんな事になっているのか、などということは冷えた頭ではいくら考えてもわからなかった。ただただ冷めていく頭の中で「何もなければ映画を見ていたはずなのにな」なんて事しか考えることしか出来ないでいた。
○○○
ーー楠田先輩。というのはずいぶんと懐かしい名前だった。
最後に会ったのは6年前だっただろうか。4年生になった僕が内定が出ないままずるずると卒業を迎えようとしていた頃、一緒に働かないか。と声をかけてくれたのが学内でも変人と名高い楠田先輩だった。詳しい話をするからと言う彼に連れられて恐る恐る彼の部屋に行った時、流れていた噂通りマネキンの頭がズラリと並べられていて面食らったのは強烈な記憶として未だに鮮明に思い出すことが出来る。
たしか民俗学を研究していた彼はボサボサの傷んだ長い髪をいつも輪ゴムで束ねていて男にも関わらず「魔女」と陰で呼ばれていた。猛烈なインパクトを持つ部屋のせいで当時、彼がどんな仕事に僕を誘っていたのか。は今どころかその時の僕もあまり覚えてはいなかった。僕はそのあまり覚えていない楠田先輩からのスカウトをおずおずと辞退したが、それなのに楠田先輩はそれから何度も僕に声をかけてくれていた。だがそれもお互いに在学していた頃の話で僕が卒業してからの5年間は全く接点はなかった筈だった。
しかし楠田先輩は5年経ってもなお僕や僕とよく一緒に居た立木の事を覚えていたようで『平田くんが今もなお夢を追いかけているならきっと先立つ物は必要なはずだ』と偶然街で会った立木に連絡先を書いた紙を渡したらしい。不審に思う事はいくらでもあるけれど今現在、生活に困窮しているわけでもないにしても先立つものはあって困る事はないし、魔女と呼ばれた彼が今何をしているのか、僕はどんな仕事に誘われていたのかという興味に負けて僕は彼と連絡をとることにした。
机の上に置いてある立木から受け取った紙は名刺くらいの大きさでボールペンで携帯の番号が書き記されていた。そしてその裏面には、
[ アナタの感情を売りませんか?
Heart OFF ]
とポップな字体で不気味な事が書かれていた。
○○○
楠田先輩が待ち合わせに指定してきたのは堤防沿いの喫茶店だった。
「久しぶりだね。元気だったかい?」
6年ぶりに会った彼は髪こそ短くなっていたものの相変わらず不気味なほど痩せていて、本当は死んでいるんじゃないだろうか。と思わせるほど血色の悪い顔をしながら朗らかに笑った。ーーあぁ、このアンバランスな笑顔も変わっていないな。なんて事を思いながら「まぁ」とか「それなりに」などと曖昧な返事をして注文を聞きにきた店員にアイスコーヒーを頼んだ。
「久しぶりに会っていきなりで申し訳ないんですが、楠田先輩の用事っていうのはコレですか」
と僕は立木から渡された紙の裏面(正確にはこっちが表面なのだが)を取り出した。楠田先輩はそれを見ると
「話が早いね。そうだよ。平田くんには感情を売って欲しいんだ」
と言って口角をグニャリと持ち上げた。
○○○
「本当になんでも買ってくれるんですか?」
楠田先輩の話は突拍子もなく、にわかには信じ難い内容だった。どういう仕組みで感情を抜き取るのかまでは教えてくれなかったが彼に嘘をついている様子はなく、記憶の消去ならSFで何度も目にしているだろうが感情を抜き取るなんて聞いたこともないだろう?なんて彼は得意気にそう言ってこう続けた。
「普段は売れないからマイナスの感情は買い取らないんだけどね、平田くんには初回サービスでどんな感情でも買い取らせてもらうよ。
"不安"でも"憎しみ"でもなんでもいい。10万円でどうかな」
提示された想像を越える大金に少し動揺しそうになるが僕は感情の市場小売価格なんてものは知らないのでこんなもんなのかな。などと思い直し、気になった事を聞く事にした。
「その、本当に何もないんですか?こう……デメリットみたいな物は」
「さっきも説明したけど何度も繰り返し同じ感情を抜き取る事でその感情は麻痺しやすくなるよ。あとは個人差だけど少し気分が悪くなる人も居る」
「そうですか……」
僕は考え込んだ。少なくとも僕の中で感情を売る事は好奇心や小説のネタにするために確定していたので無くなっても困らない感情はどれだろうか。今制御出来ていない感情はどれだろうか。と思案を重ねる。
『"不安"でも"憎しみ"でもなんでもいい』
僕は楠田先輩に何を売るかを決めた。
「楠田先輩。"不安"も売れるって事は
……"安心"も売れるんですよね」
「……!もちろんだとも」
ーーカロン。アイスコーヒーの氷がいやに大きく音を立てた。
○○○
毎週水曜日の締め作業は3年前から僕の仕事になっている。いつもは1人でやるのだけれど今日も倉橋さんはタイムカードを切った後にわざわざ手伝いに来てくれていた。
「社員の話また断っちゃったんですか?」
倉橋さんは小動物のように小首を傾げる仕草をした。
「まぁね。まだやりたい事もあるし」
当然なのだが安心を楠田先輩に売ってから僕は毎日が不安でたまらなくなっていた。「根こそぎ抜き取ってしまうと生活が出来なくなるから」と加減して抜き取ってもらったらしいのだが売ったその日の夜などは人間は安心を失うとこうも脆い物になるのか。と笑みと涙が止まらなかったくらいだった。
ただこの間、立木の手前まだ書いていると言ったはいいものの最近ずっと全く書けていなかった小説は不安や焦燥や孤独感のおかげでいつかの筆のペースを取り戻していた。
「ーーーー不安じゃないとダメなんだよ。幸せになったら書けないんだ」
「平田さん?いまなにか言いました?」
「ううん、何も言ってないよ。
そうだ倉橋さん。よかったら今日もウチに来ない?」
ーー寂しいんだよ。
という言葉だけは飲み込んだ。
Heart OFF 山椒魚 @sanu0
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Heart OFFの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます