第2話 凡悩 ①

 才能が無いという事に気が付いたのはいつだったろうか。「あの人よりも好きになれる人なんかもう出来る気がしない」と狭い1Kの僕の部屋で泣いている同僚の女子大生を見て僕はそんな事ばかり考えていた。



 ○○○


 就職が決まらないまま大学を卒業して5年が経った。高い学費を出してもらって学んだ事は全くというほど活かす機会のないまま燻っていて、僕は今暖簾越しの賑やかな喧騒を聴きながら今日10杯目のジョッキを生ビールで満たしている。


「平田さーん」


 僕を呼んだのは昨日泣いていた女子大生の倉橋さんだった。彼女はこのバイトを始めて半年近く経つのだけれど覚えが悪く、よく僕に同じ事を訊きに来てはそのまま仕事を託していくのだが今日は様子が違うらしくやたらと僕に声をかけてはテキパキと仕事をしている。「倉橋ちゃん今日はいやに元気だな。修平もなんかいつもより懐かれてるし」と店長はそれを見て上機嫌に不思議がっていたけれど僕には原因がわかりきっていたので少しばつが悪い。愛想笑いを張り付けてお茶を濁していたら店長が思い出したように人差し指をピンと立てた。「あ、そうだーー。


 ーー修平、社員の話なんだけどさ来月までには決めちゃってよ」


またか。と僕は辟易とすると同時に店長に働きぶりを認められている事に少し嬉しくもなる。僕がここでアルバイトを始めたのは大学2回生の時であり、もう7年も働いているかなりの古株だ(実際に僕より長くここで働いているのは店長しかいない)、生活費を稼ぐ為にほぼ毎日シフトを入れているし生来活発でない性格もあり、よく見るリーダーシップに満ち溢れたベテランアルバイト。のように日々張り切っているわけではないがそれなりに丁寧な仕事はしている自負はあった。


「はぁ、考えときます」


「まぁお前もいい歳なんだからそろそろ安定した給料貰って彼女も作らないとな。子供はいいぞ〜。そういえばこの間なんだけど俺の子供がなーー」



○○○



「倉橋さーん。もう後は鍵を閉めるだけだから上がっちゃっていいよー」


毎週水曜日の締め作業は3年前から僕の仕事になっている。いつもは1人でやるのだけれど今日は倉橋さんがタイムカードを切った後にわざわざ手伝いに来てくれていた。


「ありがとうね。おかげで早く終わったよ」


「いつもお世話になってるんで全然です」


店の鍵を閉めた後も彼女は僕を待っていたようで少し後ろめたくなる。僕は通勤に使う自転車には跨がらず彼女を軽く送って行く事にした。


「家、近かったっけ」


「ちょっと歩きますけどまあまあ近いですよ。平田さんの家とは逆ですけど」


「そっか。じゃあ近くまで送って行くよ」


そう提案すると彼女は少し俯いた。「昨日、平田さんの家に泊まった時に腕時計忘れちゃったみたいで、今日取りに行っていいですか」


そう顔を伏せたまま言った倉橋さんはきっと魅力的な女の子なんだろう。低めな身長にころころと可愛らしい印象の大きな目。そして女性らし過ぎる程の立ち振る舞い。きっと彼女は自分の女性性を自覚していた。


「良いよ。途中でコンビニに寄っても良いかな。飲み物を切らしてた気がする」


少し頭が痛くなった。これは、毒になる。




○○○


「あ、マズいな」


アパートの鍵を挿した所で僕がポツリとそう呟くと彼女は少し首を傾げた。


「どうしたんですか?」


「鍵が開いてるから友達が来てるかもしれない。腕時計だけ取ってくるよ。ちょっと待ってて」


僕の部屋では稀にこういう事がある。駅から近い部屋を借りている僕はたった1人の親友である立木に鍵を渡していて、貸した鍵はたまに冷蔵庫の中のビールと一箱のアメリカン・スピリッツに変わるのだ。僕がドアを開けるとキッチンと部屋をわけるドアの向こうからイビキが聞こえた。2人掛けのソファでだらしなく寝ている立木を起こさないよう静かに腕時計を探す。腕時計はベッド横の小さなテーブルに鎮座していた。立木の寝ているソファの足元に転がっていたブランケットを立木にかけ直してから僕は部屋の外で待っている倉橋さんの元に戻る。


「待たせてごめんね。立木ーー、友達が寝てるからやっぱり今日は送って行くよ」


僕が腕時計を手渡しながら言うと彼女は少し残念そうに頷く。僕は提げていたコンビニの袋を玄関の土間にそっと置いて部屋の鍵を閉めた。



○○○


そのまま何事もなく彼女を家に送った後、アパートのドアを開けると部屋には灯りが付いていた。どうやら立木が起きたらしい。土間に置いてあったコンビニ袋はいつのまにか無くなっていた。


「立木、起きたのか」


「あー、10分前くらいにな」


そう言う立木の手には僕がさっき買って来た缶チューハイが握られている。僕は立木が買ってきてくれたビールを冷蔵庫から取り出してプルタブを起こした。カシュ。


「で、コレはなんだよ。ついに目覚めたのか?それとも腕時計の主用?」


「わかりきった事を聞くなよ」


からからと笑う立木が持っているのはコンドームだった。「で、誰よ。彼女コッチ来たの?」


「バイト先の子だよ。佳奈美は今月めちゃくちゃ忙しいから来ないってさ」


「あーらら、黙っといてやろうか」


「どっちでも良いよ」僕は冷蔵庫の隣の棚から未開封のナッツを取り出して立木に向かって放り渡した。


「ふーん。つまんね。ーー最近どうなのよ。先生の調子は」立木はポリポリとナッツを食べながら塩の付いた指で僕のPCを指した。


「箸にもかからずって感じだよ。相変わらずね」


「まぁそんなもんか。俺に小説はわからんけどまだ書いてんだな。安心した」


「辞められたらもうとっくに辞めてるよ」


部屋が少しだけ重苦しい空気に変わったのを感じた。だがそれを感じたのはどうやら僕だけのようで立木はどうでも良さげな顔でナッツをを食べ続けていた。僕が立木の座るソファの後ろにあるベッドに腰を下ろすと「そういえば気になったんだけどお前、最近落ち着いた顔するようになったな」と後頭部しか見えない立木が言った。「もう俺たちアラサーだぜ?落ち着いてなきゃヤベーだろ」


からからと「たしかにそうだわな」と笑うと立木はいつもやりかけのまま置いて行くテレビゲームの電源を付けた。僕はそれを見て読みかけの文庫本に手を掛けた。


「船戸、ついにバツ2らしいよ」「マジかー」「そのボスは炎系のエンチャント付けると楽になるらしい」「嘘つくなよ。ダメージさがったぞ!」「この間部下がやらかしてさ」




心地良いこの瞬間も、きっと毒だ。



○○○



他愛の無い話をしているといつの間にか朝になっていた。そろそろ帰るわ。と立木がハンガーにかけてある上着を羽織った時、ポケットから1枚の紙が落ちた。立木はそれを拾い上げると思い出したように手を叩いた。


「あー、そうだ。お前に話があったのを忘れてた。お前さーー


ーー"楠田"センパイの事、覚えてる?」

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