Heart OFF

山椒魚

第1話 売春

私は今日、前の席の春近君に恋をしている事に気が付いた。雨の日には面積を増すふわふわの癖っ毛や授業中シャープペンシルで遊ぶせいで筆箱のシャープペンシルの消しゴムの上蓋が全部無くなってる事も何もかも全てが愛おしい。後ろにプリントを回す時に指が触れるだけで息が詰まるし、最初はずるずるといつから続けていたかも覚えてない面倒なLINEのやりとりも気付けば返信を待つようになっていて今では勉強も手に付かない。だから今日、私は春を売りに行く。





○○○


橋の下に建てられた簡素なプレハブ小屋は風が吹くたびにいつも少し揺れていて、力いっぱい押せば私の力でも簡単にペチャンコになってしまいそうだ。キラキラと西日に照らされている入り口のドアの上には【H.O.】とだけ書いてある。私がドアの前に辿り着いた時ちょうど人が出てきた。ツヤツヤの黒いロングヘアーのいかにもOL風の女性だった。彼女の顔は少し赤らんでいてH.O.に入ろうとしていた私と目が合うと軽く会釈をした。ココでは他の利用者と不用意に接触しないのがルールなので私も軽く会釈だけ返して道を空け、彼女と入れ替わりにH.O.に入った。


私がH.O.に入るとカウンター越しに受付の人が私へ会釈をした。と言っても受付のカウンターの上部には短いカーテンが下されていて受付の人の顔は見えないのだけど、私はいつも通りパスケースの中から会員証を取り出して受付の人に渡した。


「三輪様ですね。いつもありがとうございます。2番の部屋へどうぞ」


カウンターに「2」と書かれた札がスッと音もなく丁寧に差し出される。私はその札を受け取って受付から左、パーテーションで二つの部屋を作るために出来た通路を突き当たりまで進んで右の部屋に入った。部屋には茶色い大きなバスタオルが敷かれた簡素なベッドと固そうな枕、その隣にパイプ椅子が置かれているだけだ。そしてそのパイプ椅子には既に人が座っていた。歳は三十後半だろうか、フケだらけの傷んだ長髪は無造作に垂れていて伸ばしっぱなしの髭がマスクからはみ出ているフレームの歪んだメガネをかけた白衣の痩せた男の人だ。この人は私をココに誘った人であり、私がココに来るようになってからずっと担当してくれている人だった。彼は部屋に入った私を見ると、手で私にベッドに座るように指示をした。


「今日は何を売りに?それとも買いに?」くぐもった低い声で彼は私に問いかけた。


「いつもので」私がそう答えると彼はニッコリと笑った。垂れた目尻には目やにが溜まっている。


「わかりました。いつも三輪さんは高品質だから助かるよ。今日はちょっとだけオマケするね。ーーーじゃあ準備してくるから待っててください。いつもの事だけどケータイの電源は落としておいてね」


彼ーー。楠田さんの指示に従って私はスマートフォンの電源を切る。スマートフォンには春近くんから来たLINEの通知が表示されていて私は胸のあたりが熱くなるのを感じていたが返信は後にする事にした。部屋には私とギシギシとプレハブ小屋が風で軋む音だけになる。少し経つと楠田さんがガラガラと二段のカートをひいて部屋に入ってきた。カートの一段目には金属製のトレイとその上に棒のついた小さな透明のビー玉が一つ。そしてアイマスクとヘッドホンが置いてあり、下の段にはよくわからない機械が置いてある。


「それじゃあいつも通りセッティングを」そう言われて私は棒のついたビー玉を咥える。カラカラと冷たい無機質な硝子特有の味がする。この味は少し好きだ。カートの下の段にある機械に繋がれたヘッドホンを着けてアイマスクを下ろし、左手を楠田さんに持ってもらいながら私はベッドに横たわる。「始めますね」という楠田さんのくぐもった声がヘッドホン越しに更にくぐもって聴こえる。私が頷くとヘッドホンから小さな音量で音楽が流れ出した。跳ねるようなリズムの音楽が徐々に音量を増して私の頭の中に直接流れ込んで、軽やかな音の中に時折変なタイミングで不快な電子音が混ざって鳴り、残響を残していく。この音楽にはどうも慣れないままだ。楠田さんに支えられていた左手が私の胴の横にそっと置かれた。それを合図に私はそのまま春近くんの事を思い浮かべる。するとゾワリとした感覚が私を襲った。脊髄を舐めあげられているような、脳幹をゴム手袋で擦られているような感覚だ。ーーー変な音楽なんかよりもずっと慣れない。私はいつの間にか意識を手放していた。





○○○


「ーーーーはぁ」


「どうしたんだよ芳樹。わかりやすいため息ついて」


三輪さんにLINEを送ってから三十分くらい経った頃、俺はコレで十数回目の既読がついていないかの確認をしていた。


「うるせー。俺は今、恋に邁進してるんだよ」そう俺が言うと一緒に帰っている同じ部活の二人がケタケタと笑う。


「LINEでやり取りするだけで邁進か?せっかく前後の席なんだからもうちょっと話せば良いじゃんか、遊びにも誘った事ないんだろ?」と神田がおちょくるように言った。こっちの気も知らないで。


「うーん……。まぁそうなんだけどさ。三輪さんってなんか変な距離感なんだよな。グイグイ来たかと思うと急に冷めたりするし、逆に冷めた感じだと思ったらグイグイ来るようになったりするし。何考えてるか全然掴めないんだよなぁ」


「なんて言うんだっけ、そういうの。魔性?」


「そうそう、魔性だな。魔性の女"三輪綾香"だ」


神田がそう言うともう一人、別のクラスの原川が一緒になって笑う。


「コレでも真面目に言ってんだよ俺ぁ」そうムッとして俺が言うと原川は急に真面目な顔をした。


「まぁでもマジな話さ、三輪ってモテんだよね。顔もスタイルも悪くないし落ち着きもあるしさ。でも高校に入ってからは誰とも付き合ってないんだよ。中二の時とか高校生の彼氏居たはずだけどあんな事があったらなぁ」


「あんな事ってなんだよ。っていうか原川、お前三輪さんと同中?」


「バリバリ同中だよ。なんなら俺の親と三輪ん家の親父が大学の先輩後輩らしくてさ、小学校からずっと一緒」少し胸がモヤっとするのを感じる。


「それよりも、なんだよあんな事って」


「別に珍しい話じゃねえよ。彼氏の浮気で別れてるだけ。ただタイミングが悪かったんだよな」


「タイミング?」


「そう、タイミング。ちょうどその後かな、三輪の親父さんが駆け落ちしたらしい」








○○○


「はい。お疲れ様」


楠田さんの声で私は目を覚ました。いつのまにかヘッドホンは取り外されていて口の中のガラス玉は私と全く同じ温度になっている。アイマスクを外して起き上がると楠田さんが金属のトレイを私に差し出した。私は口の中のビー玉を取り出してトレイの上に置く。口に入れるまでは透明だったはずのビー玉は黒ずんだ緑色になっていた。


「毎回の事だけど一応ね」


そう言って楠田さんはカートにかけられていたバインダーを手に取って紙に書いてある事を読み上げる様に


「今日はいつも通り感情剥離の施術をさせてもらったんだけどコレは精神的にはもちろん肉体的にも負担がかかります。体調に変化は?」と問いかけた。


「大丈夫です」私がそう答えると楠田さんは大きく頷いた。


「OK。一応十五分くらい休憩してから帰ってね。何度も言うけどーー」


「特定の感情を何度も記憶から剥離し過ぎるとその感情が機能しなくなるかもしれないんですよね。大丈夫です」コレは初めて感情剥離をした時にも言われた事だった。


「その通り。そして個人に対する感情を剥離した時はその人に対して積み上げてきた感情は全部剥離してしまう。今回で君からこの感情を剥離したのは四回目だ」楠田さんはガラス玉を指差して言った。「この感情が誰に向けての物だったか、覚えてる?」


「いえ、覚えてないです」


思い出そうとしてみても無駄だった。感情剥離の後はいつもそうだ。酷く頭の奥が疲れ切っているのを感じる。


「一応訊くね。コレの調整の時に相手の名前くらいはわかるけどどうする?」


「聞きたくないです」コレは本心だった。聞いた所で何にもならない事は明白だ。


「どうせよく知らない誰かですよ。通学で見かける人とか、学校の先輩とか、可愛い顔した後輩とか。私たち子どもがする恋愛ってそういう物でしょう?心配しなくても大丈夫です。要らないから売ってるので」そして、持っていてはいけないから捨てているのだ。この感情を。


「ーーそうか。じゃあそろそろ僕は裏に戻るね。お疲れ様」そう言って楠田さんはカートを押して出て行った。プレハブ小屋の壁越しに夜の気配を感じた私は時間を見るためにスマートフォンの電源を入れた。


「あ、そういえば春近くんからLINE来てたんだっけ」


ーーーーまぁいいか。








○○○


「駆け落ち?」


ドラマでしか聞いた事がない耳慣れない単語に神田が思わずオウム返しをした。原川はそのまま話を続ける


「そう。親父さんが駆け落ちしたんだよ。そんでそっから俺の親父と向こうの家の交流が無くなったからこっからは母ちゃんが聞いた噂なんだけど、三輪の母ちゃんが男を取っ替え引っ替えして家に連れ込んでるらしい」


「ーーマジか」好きな人のこんな話を聞いて何も言えないのが歯痒かった。俺は今三輪さんと付き合ってるわけでもないし本人から直接聞いたわけでもないから、こんな無力感とかやるせなさすら傲慢な筈なのだけれどやはり、自分に腹が立った。


「だから彼氏作らねーのかな」と神田が誰に訊くでもなくポツリと声に出した。


「かもな。恋愛はもうこりごりってヤツなんじゃない?まぁ春近クン、元気出したまえよ」原川がくつくつと笑いながら俺の肩をポンポンと軽く叩く。


「いや、直接フラれたわけじゃないし、彼氏が居るわけでもないし今度帰りに誘ってみるからーー。


ーーまた三輪さんがグイグイ来るようになってきたら」


「芳樹から行けよ」「ヘタレてんだ。ガッツのあるフリをしたヘタレ」


「うるせ」





○○○


「コチラになります。ありがとうございました」


受付のカウンターで「2」の番号札と交換したこの茶封筒が私の報酬だった。私は確認もせず通学に使っているバックパックにその封筒を突っ込んでH.O.を出る。家で封筒を開くまで正確な額はわからないが少なくとも十万は入っているだろう。いつもそうだ。


外に出ると西日はもう沈み切りそうになっていて夜が始まろうとしていた。早く帰ってご飯を食べてお風呂入って自分の靴を片付けないと。お母さんの彼氏はいつやってくるかわからない。高校を出たらすぐに家を出るために貯めているH.O.で稼いだお金を唯一使って買ったヘッドホンが走る私のバックパックの中で揺れてカチャカチャと鳴った。








○○○





私は今日、前の席の春近君に恋をしている事に気が付いた。雨の日には面積を増すふわふわの癖っ毛や授業中シャープペンシルで遊ぶせいで筆箱のシャープペンシルの消しゴムの上蓋が全部無くなってる事も何もかも全てが愛おしい。後ろにプリントを回す時に指が触れるだけで息が詰まるし、最初はずるずるといつから続けていたかも覚えてない面倒なLINEのやりとりも気付けば返信を待つようになっていて今では勉強も手に付かない。だから今日、このHRが終わったら私は春を売りに行く。






「ーーーーねぇ三輪さん。よかったら今日、


         一緒に帰らない?」

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