ビス・ケイリスクの多忙なる日②
ビスは寝台の中で寝返りを打った。
右の目蓋の上に前髪が落ちる。眼球が熱を持ち、睫毛が吐息に震える。眉根に皺が寄った。
八時四十二分。
「兄弟そろっての出勤なんて、ひさしぶりだな」
スティールが、『記憶調査課』のオフィスの鍵を開けながら感慨の薄い声で言った。
書類の束でスペースが埋まったスティールのデスクに比べ、隣のビスのデスクは閑散としている。そこにパーテーション越しにファイルを一冊手渡しながら、スティールが言った。
「今日は大会議だ……それまでに資料をまとめないといけない。最終チェック、頼んでもいいか」
「はい。やっておきます。兄さんは地下へ顔を出しますか」
「ああ。会議の前に、担当してる二人に顔を出してくる。昨日、アキラのほうが目を覚ましたらしいんだ。話をしないと」
スティールは椅子にかけた白衣を着ると、ばたばたとオフィスを出て行った。
それからいくらも経たずに、男が一人オフィスに入ってくる。大きな緑色の目を持つ、トカゲ顔の小男で、『記憶調査課』の属するここ第二部隊の隊長補佐の一人である。会議でよく進行役を務める男だ。
「ああ、ケイリスク弟。兄のほうは? 」
「地下へ」
「なるほど。そうだ、会議は延期だ。第三部隊舎が、隊長もろとも吹っ飛んだからね」
「そうですか」
「まあ、『我々』には好都合だ。そうだろう? 歯車くん」
ビスは視線を持ち上げた。トカゲ目が、金色に光っている。
「セイズ隊長ですか」
「きみは相変わらず驚かないねぇ。サプライズのしがいが無い部下だ」
そう言いながら、長い舌が素早く飛び出して、自分の右の眼球を舐めた。
「第三を爆破したのは隊長ですか」
「そうともいえるし、そうじゃないかも。まあどうせ、不死鳥のミゲル隊長どのだ。復帰はすぐだろうさ。彼は代謝が早すぎて困る。『感染』したところで、ぬるぬるのウナギを掴むみたいに定着すらできない」
ビスはファイルを開いた。
「だから爆破で時間稼ぎを? 」
「第二部隊長どのから三十四回目の指令を受ければ、わたしは動かなければならなくなるだろう? 困るんだよね、今回に限っては」
「何か不測の事態でも? 」
「もちろん三十二回目のことさ。覚えているだろう? 『コジマリン』は確かに組織から提供された『感染者』だったはずなのに、彼を殺しても『戻』らなかった。あのときの『感染者』が誰だったのかは、けっきょく迷宮入りのままだ」
セイズはスティールのデスクに腰掛け、肩をすくめた。
「……っと。この体は腰痛持ちで困るな。そう、それで、今回は二人だ。『シムラアキラ』と『タカナシシノブ』しかも記憶処理が甘いときてる。どっちも殺していいのか? それともどっちも『感染者』じゃないのか? 『組織』の真意を知りたくてね、いま問い合わせをしているところなんだよ。『戻』ってしまったら、せっかく指令を出したのに職員が忘れてパアだろう? 」
「まあ、そうですね」
「それにね、ふふ……新しい職員のスカウトも進んでるんだ。新入りが増えるよ。これで君に、二足の草鞋を履かせる必要もなくなるかもしれないね。今後、エリカ・クロックフォードの監視はそいつにやらせようかと思うんだ」
「そちらが本題ですか? 」
「二つ目のお知らせだ」
「承知しました」
「話が早くて嬉しいよ! 彼がうまくやってくれれば、頭を悩ませる事態が一気に解決する可能性がある」
「そうですか。その優秀な新入りとは? 」
セイズは、大きなトカゲ目を瞬かせた。
「なぜ訊く? 不必要だろう。第一部隊は所属する個人を特定できないルールだ」
ビスはファイルに目を落としたまま、首を横に振った。
「いいえ、あなたは教えて下さる。エリカ・クロックフォードの監視は誰が引き継ぐのですか」
「第五部隊のクルックスさ。なぜそれが知りたい? 」
「その質問に、僕は答えなくてもいいのです。なぜならここで質問しているあなたは、僕が『視』る仮定の未来のあなただから。あらゆる可能性の中で、あなたが質問に答える未来だけを、僕は取捨選択して視ることができる」
ビスはパタンとファイルを閉じた。
セイズの大きな瞳が、まじまじとビスを見つめている。
「サプライズがあるんだ」
長い舌が、こんどは左目を舐める。
オフィスの廊下から、足音が近づく。
「二人目の新入りだよ」
オフィスの扉が開いて、スティールが顔を出した。その青い両眼が、金色に輝いている。
「サプライズだ! どうだい? 兄弟そろって『感染』した気分! 」
ビスは初めて、敵意をこめた瞳でセイズを睨んだ。
「あなたのスケジュールはよくわかりました。僕はそろそろ目覚めて、本当の仕事をしなければならないようですね」
●
七時五分前は、この国ではまだ夜明け前だ。
ケイリスク兄弟は、どちらも朝に弱い。『入眠障害の傾向あり』の診断付きである。
スティールが重い頭を枕から持ち上げると、そこには青白い顔をした弟が裸足で立っていた。
「ウワッ! 」
「……兄さん」
「な、なんだ、ビスか……どうした」
「よかった。ちょうど起こそうとしたところでした」
ビスはすでに装備を整えていた。立襟の黒い民族衣装の上に、刺繍の縁取りのついた白い上着。黒いズボン。手には眼帯をぶら下げている。
「……もうそんな時間か? 」
スティールは枕もとの時計を見た。出勤まで一時間はある。
「まだじゃないか。もう少し寝かせてくれよ」
「急用ができました。今日は欠勤しますので、伝達をお願いします」
「あー、ハイハイ欠勤ね……って、は!? 」
スティールは腹筋を駆使して起き上がった。すでに弟は大股で部屋を出て行こうとしている。
「ちょ、ちょ、ちょっと待っ――――待て待て待て! ビス!? おい! おいッ!」
慌てて寝台から身を起こしたが、寝起きで足にまで血が巡っていなかったらしい。
「 お前どうし――――うわっ! 」
べちゃりと床に転ぶ無様なかっこうで、スティールは玄関扉の鍵が閉まる音を聞いた。
●
ビス・ケイリスクの瞳は、一秒も無駄にせず、バスの定刻びったりにバス停に辿り着くことができる能力を持つ。
車窓から群青色の曇り空を見ながら、ビスは手にした眼帯を、いつもとは逆の位置に調整してベルトを締めた。
まだ夜の名残りが濃い窓ガラスに、金色の右目が光る。瞳孔の見えない、光が波紋を描く右目だ。そこにある血の気のない顔は、いつもと変わらずボンヤリとしていて、とくにこれといった強い意志を感じさせない。
まるで行きつけのパン屋に行くような足取りで、ビスはふだんなら絶対に降りないところで下車した。
『本』の人たちの朝は早い。
彼らが住む住宅街には、すでに畑で一仕事した住民たちがいる。彼らは一様に『ビス・ケイリスク』の特徴を知っていた。
正確には、『本』と『それ以外』の間に生まれた子供の特徴である白髪のことを知っている。
スティールは、その視線をよくこう言った。「ゴミ捨て場で、カラスが袋の中身を食い散らかしているのを見つけちゃったときみたいな目でぼくらを見るんだよな」。
ビスはまっすぐ最短距離で、その家に辿り着く。
七時四十五分。
「はい。どなた……」
扉を開けたのは、ニルだった。
「おはようございます。緊急じた……」
「あんた何考えてるんだ!? 」
珍しいニルの怒号が、早朝の庭に響き渡る。
「緊急事態です。
ようやく昇った朝日が、ビスの背中とニルの顔を照らした。
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