五章 諢滓沒閠?◆縺。
ビス・ケイリスクの多忙なる日①
夜のオフィスに、キーボードを叩く音が響く。
薬指でエンターキーを押し込み、スティール・ケイリスクは、ようやく丸めていた背筋を伸ばした。
針金細工のような体つきである。白衣を着ていても、その内側に浮き出た背骨の凹凸が見えるようだった。
手に取った甘いお茶は、すっかり冷えていた。
独身男の万年床と、埃っぽい夜のオフィスは、類義語にしてもいいくらいに劣悪な環境である。パーテーションで仕切られた二十もある机と椅子は、三つしかまともに稼働していない。
コンコン、とオフィスの扉を叩く音がして、警備員かと、スティールは背を反らしてパーテーションから顔を出した。
「まだ帰ってないですよ。鍵はかけないで。 ……って、ビスか。まだ帰ってなかったのか」
返事の代わりに、彼の弟は兄のもとまで来ると、無言で紙コップの飲み物を差し出す。
「ありがとう」
無口な弟は頷いて、砂糖も何も入っていない飲料を、慎重に両手で包んで傾けた。
手に取ると、砂糖と牛乳のたくさん入ったお茶は、ちょうどよく冷めているのがわかる。
「おまえもまさか、『
「はい。兄さんのサポートに明日から入ります。それで資料を読んでいて」
「兄弟そろって残業ってわけか」
スティールは溜息を吐いた。
二人きりの家族にも敬語を崩さない弟は、スティールが椅子に座ってようやく視線が合う。
身長141㎝。体重35㎏。十二歳で時を止めた血の気のない顔。
兄と同じ白髪の生えた小さな頭に、黒い革の大きな眼帯のベルトが目立った。
片方だけの青い左目で、ビスは兄の言葉を待っている。
「薬は飲んだ? 」
「はい」
「僕は夕食を食べ損ねた。なんか食べたかい? 」
「休憩時間に差し入れをいただいたので、六時間前に食べました」
「すっかり消化されてるころだな。よし、軽くなんか食べて帰ろう」
言いながら、スティールは荷物を引き寄せて立ち上がった。
スティールが歩き出すと、斜め後ろに弟もついてくる。
「ちなみに差し入れって何だった? 」
「花の形をした……こう、薄くて甘い焼き菓子です。図書室でいただきました」
「くれたのは可愛い子? 」
「一般的に見て可愛らしいのではと推察します」
「そうか。それは良かった。あとねビス、クッキーは夕食にならないんだ」
「では僕は、夕食を食べていないことになりますか」
「なります。さぁて。いつもの店行くぞ~」
カラン、と、細身のドアベルが鳴った。
屋台文化が根強い本の国にも、扉と床がある飲食店は、いくつか存在する。
夜更けまでやっているこの店は、おもに夜行性の体を持つ管理局職員がターゲットだ。
「いらっしゃいませ」
フクロウの頭を持ったウエイターが、囁くように言う。慣れたもので、奥のカウンターを通された。
兄の体は濃い味と脂を欲しているが、弟の好物は薄口で柔らかい質素なものだ。
互いに真逆の料理を頼んで、似た仕草で手を付ける。汁物を口にするタイミングがかぶった。
「ありがとうございました」
カランカランと細身のドアベルが鳴る。
「バイクで来ててよかった」
ヘルメットを弟に被せながら、スティールは言った。バスはもう無い時間帯だ。
兄弟の自宅は、管理局の反対側、郊外の山裾にある。
あたりはただっ広い湿地であり、藪に埋もれた小池と、その先に持ち主不明の田園があった。
陽が落ちると灯りはないので、スティールは膝の間に弟を座らせ、ライトで切り裂くようにバイクを走らせる。
建物は、遠目からだと農家の倉庫か牛舎に見えると評判である。
「ただいまビス」
「おかえりなさい。ただいま」
「おかえりなさい。風呂はどうする? 」
「シャワーで」
「了解。給湯器のスイッチ入れとく。また水で済ませたりするなよ」
帰ったその足で、寝支度を整える。洗濯機を回しにいった弟のかわりに、台所で給湯器の電源をいれた。
上着を脱いで水を飲めば、ようやくひと心地ついた。
スティールの弟は、今年で十九歳になる。七つ下の、一人きりの家族だ。
六年前に両親が死んだと知らされたのは、管理局のロビーで、アン・エイビー事件から一夜明けた朝だった。
前日の夜、身元不明で運び込まれていた弟は、母親が爆発で吹っ飛ぶ場面を目撃したという。
目覚めた彼は、まともに成長する体と情緒を失くし――――スティールはたまに、ゾンビと暮らしている気分になる。
シャワーの水音が聞こえてきた。
オンボロの給湯器が湯を排出するには、まだ八分早い。
「あいつ、また水で体洗ってるな……」
指摘すると、「明日も早いので」なんて言うのだ。
「まったく……母さんみたいなことしやがって」
台所の棚には、かろうじて焼け残った両親の写真が置いてある。
青い髪の表情に乏しい少女と、ひょろりと背の高い、茶髪で眼鏡の男。
若い二人の写真は、スティールは父親似で、ビスは母親似だと一目でわかる。
結婚する前、まだ二人が名前通りの『パートナー』だったころの写真だ。
眠気覚ましにそれを見ながら、一日に届いた郵便物を手繰る。
(最近は……郵便物に、刃物とか混ざらなくなったな)
ケイリスク兄弟は、『本』の母と管理局職員の父を持つ。
兄弟が、禁止された『本』との『交わり』で生まれた存在だということは、一家に起きた、もう一つの不幸だった。
●
意識の向こう側で、地震があったような気がした。
「……兄さん」
いつのまにか台所の椅子でうたた寝をしていたらしい。弟の小さな手で肩をゆすられ、スティールは涎をすすりながら目を開けた。
「……なんら? 」
「爆発があったようです」
「ばくはる? 」
「『爆発』です。兄さん。発火元は、第三部隊舎のようです」
夜露で湿った草が、歩くたびにズボンの内側をチクチク刺すのが不快だった。
庭からは、黒々と南の空を椀型に切り取る山影が見える。
そのなだらかな曲線の輪郭が赤く照らされ、サイレンの音も風に乗ってかすかに聞こえてきていた。
たらりと、スティールの背中を汗が流れる。
「……どうする? 」
「もう寝ましょう。火はここまでは来ませんし、明日も早い。兄さんもシャワーを浴びないと」
弟は、どこまでも合理的にそう言った。
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