職員間の傷害事件は、自治安全を取り締まる第一部隊が迅速に対応しています。

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 エリカ・クロックフォードは、異世界人である。


「はぁーっ! まったく! ばっかじゃないの! 」

 時刻は11時52分。(この世界では一日24時間制を採用している)

 革靴を鳴らし、エリカはーーーー逃げていた。


 漆喰とコンクリートが混在する路地。

 切り取られた青空が見下ろすゆるやかな坂道は、ぐねぐねと蛇行しながら下っていく。どこかの家からお昼ご飯の香りが漂っていて、敏感に反応した腹が「きゅう」と鳴った。(つまりこの世界の一般的な『お昼の時間』は12時だ)


「ごめんよー! 帰ったら、ハア、すぐ、ごはんにっ、するからー! 」

 同行者の少年は、小さい手足を振り回すように、五歩先を振り返る余裕も無く駆けている。彼の瞳と同じ山吹色に染められた民族衣装が、ひらひらと揺れた。


「もー! ニル! 」

 しんがりを務めるエリカは、やけっぱちのように叫んだ。その手には赤い革表紙の、立派な『本』が一冊ある。

 呼ばれて振り返った少年は、目の前に飛んできた『本』を慌てて受けとめ、目を白黒させた。


「ニル、あんたはそれ持って先行ってなさい! 」

「で、でもエリカ! 」

「『でも』も『だって』もいらないわ! あんたの喧嘩は、相棒のわたしが買い取ってあげる! 対価は分かってるわね! 」

「おいしいもの! 」

「わかってんじゃない! 」


 エリカは足を止めた。

 少年の足音が背後へ遠ざかる。エリカは顔に纏わりつくポニーテールを後ろへさばくと、靴を脱ぎ捨てながら、さっと路地に目を走らせた。


 体格のいい男なら詰まってしまいそうな細い路地だった。

 この先は猫しか通らないほどに細くなり、やがて大通りへとたどり着くことをエリカは知っている。両脇の漆喰の壁は、家屋と家屋の境界線で、エリカ二人分の高さだった。


 エリカは革靴の靴紐どうしを結んで首にかけ、そのあいだに靴下を脚だけで脱いで、丸めたままスカートのポケットに詰めた。

 シュミレーション。頭の中で三角飛びをする自分を想像する。


 はらの中心から手足の筋肉に熱を送り出し、足裏が熱くなると同時に地面を蹴った。瓦屋根の突起を軸に、猫のように身体を持ち上げて塀の上に手足をつく。と、次の瞬間には、一対のプロペラのように回転しながら跳躍していた。


 とん、たたた、かしゃん!


 少女は右足を前に出した半身の姿勢で止まった。風でスカートが白い膝にまとわりついて髪を乱す。


 対峙したのは、カマキリに似た姿の異世界人だった。体躯は細いが、とにかく長い。関節ががっちりとした筋肉に補強されていて、弱弱しい感じはまったくしなかった。

 何より特徴的なのが、大きな複眼は灰色に濁り、歯列からは緑色のあぶくを吐いているところ。


 どう見ても正気ではないだろう。

 空腹に耐えかねて、または何かの事故で、食用の認可が下りていない植物でも摂取してしまったのだろうか。

 そういうことは、まあ、そんなに珍しいことでも無い。当事者として遭遇するかは別として。


 半透明の翅を広げたカマキリ男は、鋭利なトゲがいくつもついた腕を大きく広げて、エリカに襲い掛かった。少女のつるりとした柔肌は、振り下ろされる凶器と比べるまでも無く無防備である。しかしエリカは、あえて右腕を差し出すように肘を張って突き出した。


「――『銀蛇ぎんへび』」


 硬質な音が響く。ブラウスの袖を噛んだトゲだらけの腕は、肉に食い込む兆しがない。

 ごく短い、呪文の詠唱である。武器の名前であり、魔術そのものの名前だ。

 エリカ・クロックフォードの魔法は、これをもってほとんどの動きを決める。銀蛇は身に付けた彼女の魔力を吸い、手足の延長線にある物体として動いた。

 破れた袖の下から、光が鈍く反射していた。『銀』色のプレートは、少女の肌の上でぶくぶくと沸騰するように蠢いて凶器を押し返した。


 動きを止めた一瞬の隙に、少女は身をひるがえした。

 むちゃくちゃに鎌を振り回しながら追ってくるカマキリ男の弱点は、不安定な足場では致命的なほど足が遅いことだ。

 エリカはほくそ笑む。


 太陽に温められた屋根。駆け抜ける先、路地が途切れるそこには、赤や黄色、青など、色とりどりの天幕が並ぶ屋台街――――この国では多く見られる、バザールの光景が広がっている。


 そのとき、12時の鐘が鳴った。


 リンゴンと鳴り響く鐘の音を、僅かに裂く発砲音。微かに耳朶に届いたその音を認識したときには、カマキリ男は、青い血を流しながらゆっくりと地面へ傾いていくところだった。


 くり返し鳴るお昼の鐘に紛れ、おそらく誰にも気づかれず、引き金を引いた人物の姿がそこにある。


 真紅の装束が風に揺れていた。

 袋を思わせる真っ赤な外套は、手足はおろか、頭の形も分からない。顔は目口鼻の無い、のっぺりした白い仮面で隠され、外套から突き出された銃口からは、まだ水色の煙が細く伸びていた。


『浸透迷彩』。

 管理局職員に配布される装備品である上着に使われる素材だ。本来なら、異世界活動で現地人との接触が避けられる場合に纏う制服で、カーキ色をしている。それをこの国にいるときに纏う彼ら。



「……第一部隊」

 エリカは、そうそう対峙しない存在を前に括目した。

 『第一部隊』は、職員を『取り締まる』管理局の行政機関のひとつである。公平性と、報復を起こさないため、その身分は徹底的に秘匿されるという。

 清々しい青空を背にしているこの禍々しい装束も、通行人には見えていない。エリカがこの距離にいたからこそ、を認識できているのだ。


 外套の中に吸い込まれるようにして銃口が消える。かわりにスルスルと出てきた黒い皮手袋に包まれた五指が、仮面の前に一本だけ立てた。

 一瞬遅れて、それが『秘密』もしくは『沈黙』を意味するジェスチャーだと気が付いたときには、カマキリ男も、謎多き取締官も、姿を消していたのだった。



 ●



「おーい! 」

 エリカが通りに出ると、人の波を縫ってニルが両手を振りながら駆け寄ってきた。

 民族衣装と同じ山吹色の瞳が、破れた左袖をすぐに見つけて怪我がないか検分する。

「……家で待ってるんじゃあなかったの? 」

「一人でおめおめと帰れるもんか。他には? 怪我はない? 」

「無いわ。ありがと。……あら」

 ニルの頭ごしに影が差す。そこには見慣れた顔があった。「晴光とファンちゃんじゃない」


「すぐそこで会ったんだ」ニルが言った。

「助太刀はいらなかったみたいだな」


 赤毛の同僚、周 晴光は、体格のわりに幼い顔で破顔した。かたわらには長い桃色の髪をした少女もいる。

 ファンは、珍しく長い髪をおろして片側を編み上げ、花飾りを差していた。晴光は何やら文机らしきものを、肩に抱えている。


 エリカは(なるほど、逢引デートってわけね)と得心した。

 この少女のことをよく知っているわけではない。吃音がある孤児の女の子で、この同僚のことが好きな少女というくらいの情報だ。重ねて、いろいろな事情が混みあった障害の多い恋であることも分かっている。

 しかしエリカは、この少女の恋をこっそり応援していた。なぜなら彼女なりに、この同僚の裏表のない人柄は気に入っているから。


「ねえ晴光。私たち、今夜はニルと二人なんだけど、あなた達も来る? 」

「えっ」と男女の声がそろった。

 チラリと目配せをすると、ニルもにっこりした。考えることは同じらしい。


「お昼は僕たち、用事があるんだ。だからお礼に、夕食をごちそうしたいなって。ファンちゃんの下宿先には、ちゃんと連絡をいれるし」

「ほら、オフの日がそろうことって、あまりないでしょう? たまには若者らしい休日でもしたいのよね」

「いいのか!? 」

「最近食事がマンネリぎみなのよ」

「二人じゃ食べる量もたかが知れてるしね」

「これは自画自賛だけど、ニルも私も料理はそこそこうまいわよ」

「知ってる! 」


 宴会が好きな晴光の眼は、すでに輝いている。こちらに説得は必要ない。

 困った顔をしているファンに向けて、強調するようにニルが言う。


「帰りは僕か、送っていくしね」

「そうそう」

「あ、あの、でもわたし、お邪魔じゃ」

「そんなこと無いわ」

「そうだよ。むしろ僕たちのほうが、お邪魔しないようにするもの」


 ニルが囁くと、ファンの頬に、さっと赤みが差した。

「あの……じゃ、じゃあ……お邪魔、します」

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