貳、 ユエ 2

「おお、来たか。いつもすまねぇな」

 街で唯一の総合病院、その東棟五階の、とある個室の扉を開く。中に踏み入れると、じじいはいつものように気さくな声で俺を迎えた。

 あまり老人らしくない粗野な物言いはご愛嬌。ライトグレーの無地の着物を着流しでラフに着用し、院内スリッパをペタペタ鳴らして歩く姿はもう見慣れたものだ。

 俺が来たのを知って、それまで座っていたソファからベッドに移る。そのベッドは真っ白で、掛け布団も綺麗に畳まれたまま。じじいは病人扱いされるのを好まず、だからベッドも必要以上には使わない。使うのは寝るときと、形だけ見舞われる側になる来客時くらいのものだ。

「着替えはソファの横に置いとくから。あと消耗品も一緒に」

「おお」

 一度部屋の奥に進んで荷物を手放し、じじいのベッドの傍に立つ。

「あとこれ、いつものカステラ。検査に影響出ない程度にしてくれよ」

「おっ! さすが我が孫、気が利くねぇ!」

「それから、じじいに客が来てるんだけど……入ってもらっていいか?」

「ん、客? ……そりゃ、いいけどよ」

 俺の打診にじじいは疑問符を浮かべたが、一応、了承が得られたので入口の扉を開けにいく。大人しく外の廊下で待っていた『客』を連れて戻ると、さほど物事に動じないタイプのじじいにしては意外なほど飛び跳ね、身体全身で驚きの表情を見せた。

「お、お前っ! カグヤか!?」

 開封しようとしていたお気に入りのカステラの包みを落とす。俺はそいつを、落下寸前の床の上で辛うじてキャッチ。

 アオはその一連の光景には敢えて触れず、迷いなく颯爽と俺の隣まで歩いてきて言った。

「その名が聞けて安心したわ。あなたが母さんの言っていた、宮東菫司ね」

 はなから隠すつもりはないらしい。アオの頭上には折れた白い長耳が元気に立っている。

「か、母さん……?」

「そ。初めまして。あたしはカグヤの娘の――」

 名乗ろうとしたらしき彼女、しかし一旦そこで口を止め。

「ここでは、アオって呼ばれてるわ。よければあなたも、そのように」

 じじいは依然、目を見開いたままの呆け顔だったが、アオの笑顔にようやく我を取り戻したようだ。「あ、ああ……俺のことは菫司でいい」と数秒沈黙ののちに答える。

 そして今一度、呼吸を落ち着けてアオに尋ねた。

「……えっと、アオちゃんとやら。あんた今、カグヤの娘って言ったか?」

「そうね。言ったわ」

 頷くアオの姿を、じじいは上から下までまじまじと見て。

「へぇ……ほぉ……うん。そういう話なら、確かに似てるのも頷けるな。これはこれは、母親にそっくりで美しい娘さんだ」

「そう? ありがと! 嬉しいわ」

「ああ、そうだ。懐かしいな。喋り方とか雰囲気とか、あいつもそんな感じだったよ」

 俺を無視して二人は楽しげに話し、やがてじじいが「まあ、とりあえず座んな」とベッドに備えられた折り畳み式のテーブルを開いた。

 俺は近くにあったパイプ椅子を二つ並べながら、ついでにそれとなく口を滑り込ませる。

「……じゃあお前の母さんも、相当なじゃじゃ馬だったんだな」

 すると着席の直前、アオは無言で上げた底の厚い草履を、タンッと俺の左足に叩きつけた。

「痛った!」

 思わず天井に向けて叫ぶ。こいつ、なんてことをするんだ! 兎ってのはスタンピングで足を踏みつけてくるのか!?

「馬じゃなくて兎」

「いやそういう意味じゃない!」

 しかし俺の抗議はてんで響かず、彼女はスンッと素知らぬ顔で、平然と椅子に腰を下ろした。

 じじいはその様子を見て「お前ら仲良いな」なんて笑った。

 いいえそれほどでも! と独白。

 俺が最後に着席したのを見届けて、改めてじじいはアオに尋ねる。

「ところで、カグヤは元気か?」

「ああ、まあね。でもここには来ないわ。色々あって、『灯詞とうしの儀』の遣いはあたしが継いだの」

「なんだそうだったのか。しばらく見ねぇと思ったが、千二百年前から続いたお役目もついに代替わりか」

 またしても俺の知らない話が展開されていく。頭の中でクエスチョンマークが大量浮上。俺はその疑問から置き去りにされないよう、早々に解消を試みる。

「なあ、さっきからなんなんだ? 千二百年前とかお役目とか……じじいはいつから御伽噺を信じるようになったんだ?」

 すると、俺の言葉に二人は揃ってこちらを見た。アオは相変わらずの綺麗な顔で。一方じじいは、俺と似たような疑問顔をそっくりそのまま返してくる。

「なんだ紫苑。お前もしかして、何も知らねぇのか?」

「そりゃ知らないって!」

「ここにアオちゃん連れてきてる時点で、もうてっきり全部知ってるもんかと思ったが」

「いや俺は、こいつがじじいんとこに連れてけって言うからそうしただけで……」

「ああ。まあ、さっきの様子だと早速尻に敷かれてるようだし、それも仕方ねぇか」

 待て。別に敷かれてるわけじゃない、断じて! こいつが度を越してわがままなだけだ。

 じじいが視線を、俺の方から少しだけアオに移す。

 するとアオは目を閉じ、じじいの意図に従うように口を開いた。

「紫苑は、数日前の夜、あたしが難儀しているところを助けて、今日まで家においてくれたの。あたしの事情についてはそれほど問い質してこなかったし、かといってこっちからも、どこまで話したものかなと思って。とりあえず流れで、天兎と地兎の存在と、ユエについて少し」

「ほぉ。そうなのか」じじいは顎の髭を撫でながら「んじゃまあ、アオちゃんにもご協力願いながら、順に話していくかぁ。どうせいつかはする話だったし、横にアオちゃんがいる方が、こいつもすんなり信じるだろ」

 そうしてじじいはカステラの包みを手に立ち上がり、簡易キッチンへと向かった。棚から小振りのナイフと皿を取り出して、丁寧な手つきで切り分けていく。

「俺がいつから御伽噺を信じるようになったのかって質問だが……ちょうど紫苑、今のお前くらいの歳からだ。御伽噺ってのは、実はそう馬鹿にしたものでもなくてな。大概は与太話だが、中にはいくつか事実も混ざっている。俺の知る限りその一つが、竹取物語だ」

「竹取って、それ、かぐや姫の……」

 ん? かぐや……? それは目の前の二人が、さきほどから何度も口にしている名前だ。

「まさかアオの母親のカグヤって……」

「やあやあ我こそは、なよ竹のかぐや姫! あいつの自己紹介は、そんなだったな」

「自己紹介!?」

 武将か?

「ああ、でっけえ乳揺らして言うもんだから、思いの外、迫力あってな」

 何やら感慨深げに頷きながら、アオの胸部に目をやるじじい。確かに彼女の胸は誰が見ても大きい方だが……それはどうやら母親から継いだものらしい。いや違う。そんなことはいい。仮に俺がこいつのことで気になるとすれば、でかい態度くらいのものだ。

「それはつまり、じじいはそのカグヤって奴に、会ったことがあるってことか?」

「そうだな。初めて会ったのは十八の頃で……それからあいつは、だいたい五年か十年くらいの周期で月から地上に来ていたはずだ。つってもまあ、最近はめっきりで、最後に会ったのは俺が五十……ん? 六十だったか?」

 じじいは今年で七十三になる。

「いやいやいやいや、おかしいだろ! 絶対! 竹取物語って平安時代の話だよな? そんな奴がどうやって現代まで――」

「あー、それは……」

 次第に身振り手振りが大仰になっていく俺に対し、じじいはちまちまと皿にカステラを並べている。その温度差はそのまま声の調子に反映されており、やり取りは相当にちぐはぐだ。

 そして、じじいが一旦口を止めたその隙間に「紫苑」とアオのよく通る声が差し込まれる。俺とじじいの視線が集まるのを待って、彼女は続けた。

「天兎は、ユエの豊富な環境下ではとても長く――というより、ほとんど永遠に生きることができるのよ。こと月に住む場合に限って言えば、あたしたち天兎に寿命という概念はないわ」

「なっ……!」

「ああ、まあ、そういうこった。俺の記憶が確かなら、カグヤは千二百年くらい生きていると言っていた。別に証拠を見せてもらったわけじゃねぇが、あいつの言ったことだから信じている。疑うよりもむしろ、あいつの肝っ玉は、千二百年ものだと言われた方が納得できた」

 絶句する俺に向かって、じじいは昔を思い出すようにうっすらと笑った。冗談を言っている顔ではなかった。天兎ってのは、つくづく俺の理解を超える存在らしい。

「じゃあ、もしかしてアオも……」

 千二百歳の母親がいるなら、その娘はさて、いかほどか。そう考えるのは自然だろう。

 アオは少しだけ黙して思案顔をしていたが、やがてさらりと答えた。

「ごめん。あたし、自分の歳は二百ちょっとくらいから忘れちゃったの。月には年齢を数える習慣がないから」

「げ……ばばぁじゃん」

 あ。

 さすがに失言だったと、俺はすぐに自分で口を塞いだ。

 けれども残念ながら、アオにはしっかり聞こえてしまったらしい。背を向けるじじいに悟られないよう、ゆっくりと右足を上げるのが見えた。

 これはまた、足を踏まれる。次の展開が容易に想像できたので、俺はとっさに左足を引いた。

 結果、彼女の草履は見事に床を空打ちし、タンっという高音を鳴らす。

 虚しく漂う沈黙。してやったりという気持ちで、俺の口角は自然と持ち上がった。

 対して隣の彼女は、微笑みながらもその表情を硬くしている。

 ナイフを洗っていたじじいは音に一瞬だけこちらを向いたが、小さく首を傾げただけ。すぐにまた前を向き、棚を開けて拭いたナイフをしまい、ゴミ箱にカステラの包みを捨て――。

 と、そのとき、俺の視界の左下に白いものが映った。次いで腹部に激しい痛み。

「ぐあっ!」

 気づいたときには既に、アオの拳が俺の腹を抉っていた。硬い笑みのまま、じじいの視線を盗んで、あまりにも自然な動きで……あろうことか彼女は俺に思いっきり腹パンしたのだ。

「お……お前っ……!」

 足を外したからって普通に殴ってきやがるとは!

 痛みと衝撃に驚き悶絶。椅子から崩れ落ちた俺は抗議すら言葉にできない。

 背後で何が起こったのか知らないじじいは、再び振り返って俺に「ん? ハライタか?」と、非常にどうでもよさそうに訊いた。そうして切り分けたカステラをテーブルに置き「よっこらせ」とベッドに戻る。

「ま、なんだ。とりあえずアオちゃんの方が大人なんだから、紫苑はちゃんと、アオちゃんの言うこと聞いとけよ」

 は? 馬鹿言え。こいつの言うことなんか聞いてたらこっちの身が持たない。それにそもそも、こんな大人げない力で他人の腹を殴るような奴は大人じゃない!

 でも、口にすると面倒そうだから、俺はもう言わないことにした。

 じじいが続ける。

「んで、だ。話は戻るが、アオちゃんは灯詞の儀の遣いでここへ来た、と」

「その通りよ」

 アオの返答に、じじいは軽く頷いてみせた。

「つっても、俺ももうこんな歳で、見ての通り病院暮らしだ。自分じゃ身体もまだ元気、と強がってみてぇところだが、看護師は口酸っぱく無理するなと言いやがる」

 その言葉を、彼女は黙って聞いていて、やがてじじいはあけすけに笑う。

「要するに、ちょうどいいから、こっちも代替わりだ。『月読人つくよみびと』の役目は紫苑に継ぐ。それでもいいか?」

 じじいが尋ねると、アオは少しだけ間を空けたのち「わかったわ」と答えた。

「お、おい、待ってくれ。こっちは構うぞ」俺は腹をさすりながら身体を起こし、二人の間に立つ。「なんだよ灯詞の儀って。なんだよ、月読人って!」

「ああ、うるせぇうるせぇ。お前にもちゃんと教えるよ」

 話に割り込もうとする俺を、じじいは面倒そうに片手で制した。自分に一番近い皿から、ひょいっとカステラを摘み上げて口へと放り込む。

「そもそもお前、天兎がなんで月に住んでるか、知ってるか?」

「え? いや……知らないけど」

 じじいは早くも一口目を嚥下し、さらに軽く一息吸い込んで言った。

「まあ、これまた御伽噺で悪ぃがよ」

 そしてじじいが語ったのは、大昔の、月と兎にまつわる物語だった。

 むかしむかし、とある猿と狐と兎の三匹は、山の中で空腹に倒れている老人と出逢った。三匹は老人を助けようと考え、猿は木の実を、狐は魚をとって与えたが、兎だけは苦労の末に何も持ってくることができなかった。自分の非力さを嘆き、それでも老人のために何かできないかと考えた兎は、焚火の中にその身を投げた。老人に、自分の身体を食べてもらうために。それを目の当たりにした老人は神としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を讃えてその魂を月へと送った。それから兎は人知れず、月の世界で生きている。

「ちなみに、この手の話は日本だけじゃなくて、インドやアメリカなんかにもあるらしい。細かい内容の違いを抜きにすれば、地球上の色んな国にあるのかもな」

 じじいが話し終えると、入れ替わりで今度はアオが口を開く。

「月の世界には、そういう数々の説話を根拠とする『天兎の教え』というものがあるの。その教えの中では『神によって与えられた祝福により、天兎は月に住むことを許されている』と、そんなふうに謳われているわ」

 アオは硬い表情で、まるで頭の中の台本でも読んでいるかのように続ける。

「『空腹の老人のためにその身を差し出した白兎。神はその清く美しき心を讃え、ユエという祝福を与え賜うた。そうしてその身にユエを宿した白兎は、月で再び生きる権利を得た。一点の穢れなき純白の心と身体を持つ我らが始祖。かの始祖のように白く清らかであるほど神に、ひいては月に祝福される。我ら天兎が斯く白くありさえすれば、その祝福は永遠に続く』、そういう教え。そして実際に、より白い容姿を持つ者は多くのユエを宿し、そうした者同士が子を成すと、その子もより白く、また多くのユエを宿して生まれる」

 どうやらアオの言う始祖というのが、説話の中で慈悲行を示して月に送られた白兎のことらしい。要するに、今、月に生きている天兎たちはそこから派生した子孫ということだ。

「月に住む全ての天兎はこの教えを信じ、神の扮した人間より授かる祝福の御言葉――『祝詞』を、月の宮殿に祀っているのよ」

「言葉を……祀る?」

 奇妙な言い回しに、俺は思わず首を捻る。

「そう。月の世界には、祝福の宝具と呼ばれる『燭台』があるの。燭台は、言葉を炎という形に変換して灯すことができる。これを使って、授かった祝詞を炎として月まで持ち帰り、月の宮殿にお祀りするのが灯詞の儀。そしてこの祭事は、祝詞の炎を絶やさないために、必ず定期的に行われるわ」

 言葉を炎に変換して灯す……それは、地上にはない概念だ。その炎は、なんだろう、近づくと元となった言葉が聞こえたりするのだろうか。だとしたらまるでボイスレコーダーのようでもあるが……。

 首と一緒に頭も捻っている俺を横に話は進む。

「これまではカグヤが、その儀式のために地上へ来ていたんだ。そして俺が、燭台に言葉を灯す役――月読人として、カグヤに祝詞を授けていた。天兎はこれからも月に住んでいいですよー、ってな具合にな」

「じじい……そんなことしてたのか」

 言い回しは随分と軽いが、その方がじじいらしいような気もする。

「ま、うちは月を祀った神社の家系だからな。相応しいお役目だろ。つっても、この話を知ってる家族は、現時点で俺とお前だけだがな」

 ……ということは、じじいはこの話を、初めて他人にしたのかもしれない。確かに俺は知らなかった。じじいのしていた役目どころか、うちが月を祀った神社だということすらも。

 じじいは天兎に祝詞を授ける月読人。アオはかぐや姫の娘で、灯詞の儀の遣いで、今日から俺がじじいの次の月読人……やっぱり全部作り話ですって言われた方が信じられるくらいだ。

「ちなみにここまで話を聞いたからには、お前に拒否権はねぇわけだがな」

 さらっと嫌な情報が付け加えられるが、正直、あまり頭に入ってこなかった。実感がないから、承諾や拒否以前の問題なのだ。判断力が如実に鈍っている。

 無言の俺を見て、じじいはひとまず息をつくと、ふいに視線を宙へと浮かせて目を細めた。

「にしても、まさか本当にこんな日が来るとは……いや、紫苑がガキん頃に指先でユエを光らせたときから、無意識にこの日を待っていたのかもしれねぇがな」

 アオはその呟きに、耳敏く反応を示した。

「その件なんだけど……菫司は、紫苑がユエを使えることについて、何か知ってる?」

「ん? ああ……」じじいはアオの問いに特段の驚きを見せず答える。「カグヤから聞いた話では、うちはカグヤを世話した老夫婦の子孫らしいんだ。もちろん、千二百年も家の歴史が脈々と継がれてきたわけじゃねぇ。家系を遡ったってわかるのはせいぜい十代程度だが、それより以前の複雑な系譜の中で、その老夫婦の血が紛れ込んでるって話だ」

「血が紛れ込んでると……どうなんだよ?」

「その老夫婦は、カグヤが月に転居する際に残した不死の薬を、少量分け与えられたらしい。んで、この不死の薬ってのが、あの蓬莱の玉の枝から作られたものなんだと」

「蓬莱の玉の枝……って、そんなもん実在すんのか?」

「さぁな。俺も話に聞くだけで見たことはねぇよ」

 ……この男は相変わらずテキトーだな。

 しかしアオはあくまで真面目な表情を崩さない。

「蓬莱……が何かはわかんないけど、確かに月には『枝』の宝具があるわ。枝は与奪の宝具。生きる糧を根で吸い、果実に実らせる植物のように、ユエを奪い、また与える作用を有すもの」

 すると、それを聞いたじじいは「あー、そうそう。カグヤも確か、んなようなこと言ってた」などと手を打つ。

「不死の薬ってのは、つまり、その枝の実から作られた薬だ。飲んだ者にユエを与える。とはいえ、これで本当に寿命が伸びたかはわからんがな。もともと微量のユエしか宿していない人間が飲んでも、生きる時間の延長という具体的な効果として現れたかどうかは、甚だ疑問だ」

「けれど、確かにユエは増えた……?」

「そう」じじいはアオのその言葉を待っていたかのように頷く。「寿命は知らんが、でも確実にユエは増えた。それが始まりだ。その名残が、巡り巡って受け継がれ、紫苑にだけわずかに発現したと考えるのが妥当だろう。隔世遺伝っつーやつかもな」

 聞いて、しかし、自分の身体にそんな薬の効果が発現しているかなど、到底わかるはずもなかった。わかるはずもないから当然、実感もなく、俺は未だに他人事のような心地でいる。

 隣のアオは、じじいの説明にいくらかの納得を示しながら、けれどもやや難解な顔を見せた。

「万物は例外なくその内にユエを宿している。それはもちろん人間も同様で……けれどその量という話になれば、多少の差はあれど、いずれも非常に少ないのが常。何しろこの地上という場所は、月からはあまりに遠い。そして宿すユエが少なければ、当然、それを感じることも難しいのが道理。まして使役するなんて……」

「そうは言っても、使えるもんは使えるんだ、なぁ紫苑?」

 じじいに話を振られた俺は、口で答える代わりに右の人差し指に光を灯す。電灯で明るい部屋の中であっても、ユエの光ははっきりと目に映る。もともと本質的に、別の種類の光なのだ。

 昨夜、一度アオには見せたが、それでも彼女は少しだけ目を見開いた。俺がいつでも見せたいときにユエを使役できる。その事実に、改めて驚いているのだと思う。

 じじいはまた顎の髭を撫でながら「ほぉ」と呟く。

「久しぶりに見たが、相変わらず綺麗な光だ。人様に見られねぇようにあまりやるなと言ってきたが、もしかしたら練習なんかすりゃ、もっと上手く使役できるようになるかもしれねぇな」

「んー……それは、どうだろうな」

 曖昧な返事をする俺に、じじいは大口で愉快そうに笑う。

 一方、アオはといえば、やはり何かを考えている様子で、険しい顔つきするばかりだった。

 そうして以降は窓の外の日が傾くまで、俺とじじいが近況報告や家のことを話すいつも通りの見舞となった。なんだかんだでそんな会話になれば時が経つのは早く、いつしか看護師が夕食の知らせに訪れる。話の切りがついた頃合いで俺は「じゃあそろそろ」と立ち上がった。

「あ。そういやぁ紫苑、蔵によ」

「え?」

 帰り際、個室の出口まで見送ってくれるじじいに呼び止められて俺は振り返る。

「家と神社の間にある蔵だ。そこに、カグヤからの預かり物がしまってあるんだ」

「……預かり物?」

「おお。散らかってるが、でもすぐにわかるはずだ。そいつをアオちゃんに渡してやってくれ」

 相変わらず、要求だけを述べて趣旨を言わないのがこの男だ。

 しかし廊下を見ると、アオはもう先に歩いていってしまうし、さらに夕食の配膳台を押した看護師がやってきている。今更あれこれ訊いている時間は、もうお互いにないだろう。

 俺はよくわからないままにとりあえず「わかった」と頷く。

「にしてもありゃ、カグヤに似て本当に別嬪だ。そんな子と一つ屋根の下とは、羨ましいねぇ」

 そして最後にじじいが寄越したコメントには、あえて無言で嫌な顔だけを返した。冗談じゃないぞまったく。似ているのなら、あいつがどれだけわがままかもわかるだろうに。

 じじいがもし、そのカグヤという兎のわがままを少しでも直しておいてくれたら、アオもいくらかマシだったかもしれない。

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