貳、 ユエ 1
他人に言っても信じてもらえないかもしれないが、今の俺にとって、学校はそれほど嫌な場所ではない。会いたい人がいるというだけで、驚くほど気持ちは違ってくるものだ。席に座って授業を受けている限り、ずっと想い人を見ていられる。一週間なんてあっという間だ。
ちなみにアオはアオで、月曜以降もときたま学校に現れた。そのせいだろうか、いつしか、どこからともなく「学校の中に大風呂敷を担いだ兎が……」なんて噂も出ているようだった。呆れるほどにシュールな噂だが、まあ実際に捕まることがなければ誰も本気にはしないだろう。
そして金曜。この日の下校時、アオは兎ではなく人の姿で学校に現れた。校門前で姿勢良く、華やかな姿で佇む着物姿の若い女性は、非常に周囲の目を集める。しかも明らかに異国人めいた銀髪蒼眼。改めて家の外で見ると、目眩を覚えるほど非日常的な存在だ。おかげで俺まで余計な注目を浴びることになる。まあいっそ見られるのは諦めるとして、それでも妙な誤解を生んでほしくはない。特に月見里の耳には、入ってほしくないものだ。
俺はとにかく早足でアオのところまで向かい、無言でその手を取って学校を離れた。
「お前、ちょっと目立ちすぎだよな……」
「あんたがあそこで待ってるように言ったんでしょ。あたしはただ立ってただけよ」
「いやまあ、そうだけど!」
確かに、それについては間違いない。週末にじじいの病院を訪問するから、今日は学校帰りに駅でそのための買い物をする予定なのだ。もともと一人で済ませるつもりだったが、そのことを今朝アオに話したら、同行すると申し出てきた。
けれども、アオはスマホのような遠隔の連絡手段を持たないから、俺が事前に待ち合わせの時間と場所を指定しておいた。「行き違いになると困るから、わかりやすい校門がいい」と。
結果がこれだ。わかりやすすぎるのも問題である。しかしながら今回は完全に俺の失態。こいつの容姿格好の奇抜さを考慮に入れなかった俺のミスだ。
奇抜ゆえに人目を集め、秀麗ゆえに人目を逃さない。言動がどれだけ残念でも、一般的にアオの外見が優れているのは事実なのだ。
こうして駅の百貨店を歩く今でも、すれ違う人々は高確率でアオを振り返り、足を止める。これでは落ち着いて買い物もできない。もし何かのはずみでアオの頭からひょっこり長い耳が飛び出しでもしたら、いったいどんな騒ぎになるのだろう。そう考えると気が気じゃない。
しかしアオは、そんな俺の半歩後ろを歩きながら、平気な顔で囁いた。
「大丈夫よ。この視線の理由は、言ってしまえばあたしが浮いてるから。仮にあたしが今ここで自慢の耳を立てたとしても……なんだっけあれ、こすぷれ? とかいうのに思われるのが関の山でしょ。だったらむしろ堂々としてればいいのよ」
……また変な言葉を覚えたな。
しかし、それを聞いて俺はもう一度、周囲の人の表情を見る。ただ漠然とではなく、一人ひとりを順番に。すると確かに、アオの言葉ももっともだと思えた。向けられた視線のほとんどは「物珍しさ」へのそれだ。
「ま、もちろんこの注目は、あたしの容姿があってこそだけどね。いつの世も美しきは罪よね」
自慢げに言われると癪だがその通りではある。
その後もアオは、まるで周囲に紛れるということをせず、買い物を続ける俺の横で「あれは何? これは何?」と忙しなく動いた。あまつさえ、目立つがゆえに声をかけてきたコスメショップの店員に連れていかれ、見事に足を縫い付けられてしまう。結局、声をかけてもうんともすんとも言わずに店員の話ばかりを聞いているので、痺れを切らした俺は勝手に当初の用事である見舞いの買い物を済ませにいった。
洗面用具、ティッシュ、飲料水などの日用品に加え、じじいの気に入っているメーカーのカステラも忘れず買う。そもそもこれが、わざわざ駅の百貨店まで足を伸ばした理由なのだ。
そうして三十分ほど経っただろうか。アオを拾いにコスメショップに戻ったら、あろうことかすっかりたらし込まれていて「ねいるするからこれ買って」と小瓶を二、三押し付けられた。
「ネイルの発音が平仮名の口で何言ってんだ」
「いいじゃない。これであたしの機嫌が買えるなら安いもんでしょ」
なんという買わせ文句かと思ったが、しかし、それも一理あるのでは、などと考えてしまったあたり、俺も相当キているなと感じた。
おそらく試供で店員にやってもらったのであろう、せがむアオの爪には既に立派な空色のネイルがあしらわれていて、着物姿にもよく合っている。これをアオが自分でできるのかと思うと、ある意味、見ものだ。暇をネイルに費やすなら多少は大人しくもなるかもしれない。
そう思いながら、俺はレジで財布を出した。もちろん俺の金じゃない。じじいの財布から客の接待代として引いた。
店から外に出ると、知らないうちに一雨降ったらしく地面は濡れていた。山とビルでできた空の境界には赤い残照が見え、張り詰めた弓のような半月が雲間から薄く輝いている。道々に佇む街灯には既に光が灯り、仄暗い中でも街は煌々と活気付いていた。
しかし繁華街を離れれば自然と明かりも乏しくなり、徐々に夜の帳が下りてくる。
視覚が頼りなくなれば、その他の感覚が鋭くなるのが人間というものだ。そしてそれは、兎であるアオも同じらしい。ふと隣を歩く彼女を見ると、頭の上に白い耳がピョコっと飛び出て、頻りに周囲の音を探っていた。
「おい。お前、耳」
「しっ! 静かにして!」
俺が注意をしようとした途端にアオは身構える。瞬間、その蒼い瞳を鋭く光らせたかと思うと、俺の身体を抱えて後ろへ飛んだ。
直後、聞き慣れない音とともに、立っていた地面に二つずつ、計四発の弾痕が生まれる。
「なっ!」
突然穿たれたコンクリートの破片が、驚くほどに高く宙へと跳ねた。その光景を、俺の脳はまるでコマ送りのようにゆっくりと追った。
これは、銃弾!?
「左上ね」
着地と同時、アオは俺を庇うように前へ立ち、顔を上げる。暗闇の中のその表情には白い八重歯が光り、不敵な笑みを映し出していた。
アオの視線の先を追う。彼女の言葉通り、左の住宅の屋根に二つの影が見える。そのうち一つが身軽な跳躍で、俺たちの二十メートル前方に着地した。
フードを被った黒い影。そのフードの隙間から、鋭利に尖った長耳と紅い双眸が覗いている。直感でわかった。これは単なる喧嘩の待ち伏せではない。そうした輩とは一線を画す者だ。
目の前のそいつは音もなく片足を上げると、すぐに勢いよく打ち下ろした。靴底がアスファルトを面でとらえたタンッという高音が、しんとした夜の住宅街に、波紋のように響き渡る。
するとそいつの後方から一つ、さらに右のマンションのベランダから一つ影が増え、左後方の路地からも気配が一つ現れる。計、五つ。囲まれたという表現がしっくりくる陣形だ。
そう感じた瞬間、アオが、俺の手を取って駆けた。進路は右後方――包囲網のもっとも薄い方角だ。彼女の素早い初速に肩を抜かれるような感覚を覚えながら、俺も続いて走り出す。
「おい、アオ! どこに行く!?」
「どこでもいいわ! とにかく連中を迎え撃てるところ! 多勢相手に飛び道具じゃ、開けた場所は部が悪いでしょ!」
確かに。銃が相手となると、ここでは四方八方、上からも狙われてしまう。
「けどお前、土地勘ないだろ。無闇に走ってまた囲まれたら――」
「じゃあどっかいい場所探して!」
探してって……しかしここで蜂の巣はもちろん御免だ。俺は脳内の地図を検索、のち答える。
「このまま直進して左に折れると、線路の高架下がある。短いトンネルみたいな――」
「そこでいいわ。急ぐから、速度上げて!」
嘘だろ!? もう既に全力だが……それでもなお、アオの方が速い。着物に、今になって気づいたが草履――しかもそこそこかかとの高い――とは思えない身のこなしだ。
「おい、あいつらは何なんだ?」
俺は必死で走りながら切れ切れの息で尋ねる。
「あれは『
この地上……つまりは月ではなく地球に住む兎ということだろうか。
「それって普通の兎なんじゃないのか?」
「たぶんあんたが今考えてるのは、また別の生物ね。ほら、よく見て。人の姿してるでしょ」
今は必死に走ってるから全然見えないけど。
「ってことはじゃあ、あいつらも元は兎の姿で、人の姿に変身してるってことか? そんなとんでもない兎、お前の他にもいるってのかよ」
「いるわよ、失礼ね。ちなみに地兎は、あたしたち天兎と、長らく敵対関係にあるわ」
「どうして敵対? すごく似てるのに」
「似てるかしら? 見た目からして違うじゃない。あたしたちは白い。でも地兎は黒い」
「それだけだろ」
「それだけって言うけどね、あんた。外見の違いは、十分に諍いの種になるのよ。あんたたち人間もよくやってんじゃないの? 肌が白いとか黒いとかさ」
……いや、そうだ。言われてしまえばその通りだった。俺は黙すしかない。
荒い息だけで返答がないとわかると、アオは先を続ける。
「まあ、人間にとってその違いがどうかは知らないけど、兎にとってはそれなりに重要なのよ」
必死で走る俺と違い、彼女は頻繁に後方を見やり、敵の攻撃を警戒している。
「あたしたち天兎にはユエが、つまりは月の光が必要って話は、前にしたわね。それは天兎だけじゃなくて、あのこたち地兎も同じなの。たとえ地兎が代々、月から遠く離れた地上に生き、人間並みの少ないユエしか宿していない種族だとしてもね」
余裕のない頭でも、俺はどうにかアオの言葉を理解しようと努めた。曲がり角でわずかに首を振って後方を見やると、敵の姿が思ったより近くにある。長くは逃げられない。
「だったら、地兎も月に住みたいって考えるのが自然でしょ? でも月には天兎が住んでる。あのこたち地兎は、あたしたち天兎が月に住んでることを、快く思っていないのよ」
「一緒に月に住めばいいんじゃないのか?」
「いいえ。それはできない相談ね。月は天兎の世界なの。天兎に古くから伝えられてきた『教え』によれば、白くあることこそが神に、ひいては月に祝福されている証。だから白い天兎だけが、その身に多くのユエを宿している。月の世界では、白こそが至上とされている」
そこまで聞いて、同時に視界が一段階暗くなった。ようやく目的の高架下に逃げ込んだのだ。この場所ならば、警戒すべき方向は前と後ろだけに絞られる。
俺が壁に背を預けて息を荒くする一方、アオは足先でギュッとブレーキをかけ、袖振り舞い踊るように振り返る。
「さて、翻って、やっぱりこのこたちは、黒いのよ。そんな理由で月に住めないことに怒って、天兎を憎むのも無理からぬ話ね」
彼女の右手には白鞘――いつの間に取り出したのか、刃渡り二十五センチ程度の匕首。逆手に持った抜き身の白刃が、わずかに高架下へ入り込んでくる微光を集めて跳ねる。
「あんたはそのまま壁を背に、逆方向を警戒して」
前を向いて構えたアオは、さらに袖の袂から小さな平丸状の何かを取り出す。それをコンパクトミラーのようにパカっと開いて宙へ投げ、勢いよく匕首の先を突き立てた。
すると突然、目の眩むような強い光が溢れて、アオの身体を包み込む。白飛びする空間を細めた目でなんとかとらえ続けていると、光が徐々にうねりをもって匕首へと収束していく。
そして、その光の全てがベールのように刃を包み込むと同時、アオは閃光となって駆けた。
敵影は五。うち前衛にいた二人が、アオに向かって拳銃を構える。撃ち出された二発の弾を、アオは右へと折れてかわす。そのまま勢いで壁を蹴って上昇。天井を足場に、敵の頭上から落下しつつ二つの拳銃を切断した。
体勢を低くしたまま敵二人の足をいっぺんに払い、さらに奥へと進む。
後衛三人は、アオの突撃にうろたえながらも拳銃で応戦。しかし、飛び交う複数の銃弾をアオは、かわす、匕首で弾くなどして難なく捌いた。
敵とアオ、動きと判断の速度がまるで違う。
瞬く間にアオは一人に接近し、匕首の柄頭で腹部を突く。ついでに怯んだ相手の拳銃を切断。さらに目にも留まらぬ速さで残り二人の中間を駆け抜け、その手の拳銃を切り落とした。
残った勢いは壁に着地して一旦相殺。優雅な跳躍で敵を飛び越し、俺の方へと戻ってくる。
アオが駆け出してからここまで、わずか十秒足らずの出来事だった。
当然、俺の脳では大いに処理が滞る。目から入ってきた光景が少しずつ遅れて処理され、それが現実に追いついた頃には、揃って武器を失った敵が口惜しそうに逃げていくところだった。
しかし、道の真ん中で立っているアオの顔は晴れやかではなく、かといって厳しくもなく……ただ無表情で、連中の去った方を見つめて呟く。
「……あたしだって、こんなことしたいわけじゃあないけどさ。でも、だからって黙ってやられるわけにも、いかないのよね……」
その立ち姿は、到底俺から声をかけられるようなものではなかった。わずかな沈黙を挟み、やがて彼女は仕切り直すようにスッと息を吸い込むと、涼しい顔でこちらまで歩いてくる。
「無事よね?」
「……あ、ああ、問題ない。にしてもお前、えげつねー強さだな」
「嫌な褒め方ね」
ふっ、というやや自嘲気味な笑いとともに、彼女は袖の袂に手を差し込んだ。
「でも別に、あたしはそれほど強くもないわ。特に地上だと、もう、身体が重くって」
「重くてあれか」
「違うわよ。今のは、ほとんどこれのおかげ」
「それは……さっきの……」
アオが取り出したのは、戦いの前にちらりと見えたのと同じ、平丸状の物体だった。俺に向かって開かれたそいつの内側には、ちょうど片手に収まるくらいの、強い輝きを放つ円。あたかも小さな満月がそこにあるかのような光景に、俺は思わず目を奪われる。
「『手鏡』――月にある貯蔵の宝具よ。兎のユエの源である月の光を、封じ込めておくことができるの。月からこっちに来るとき、いくつか持ってきた」
「へぇ……そんなものがあるのか」
月の光の、貯金箱みたいなものだろうか。確かアオはさきほど、この円い鏡面に刃先を突き立て、そこから溢れ出た光を浴びて戦った。つまりはそれが、この手鏡の開封の方法であり、貯金箱を叩き壊してお金を取り出す行為に等しい。
「光を貯められるのは一度きり。使えば、こうなる」
アオは輝く小さな満月を引っ込めると、袂からもう一つ、別の手鏡を取り出した。開いて見せられたその鏡面は既に割れていて、輝きのない、ただの曇った鏡に過ぎなかった。
「消耗品よ。かつ、それなりに貴重品。もちろん地上で手に入るわけもなく、数には限りがある。でも今は、あんたも一緒だし、安全のために使ったわ」
「じゃあ、そのナイフは?」
「これはただの匕首よ。あたしのユエを流し込んで、丈夫にしただけ」
アオは平気な顔で、抜き身の匕首をくるくると宙で弄ぶ。
「ほらこの通り、ピカピカで綺麗なだけの、何の変哲もない匕首よ」
「わ、わかった。わかったから……とりあえずしまってくれ。思いっきり銃刀法違反だから」
誤って触れれば、綺麗にスッパリ切れそうな鋭い刀身。特別な武器ではなくとも、少しヒヤッとする代物だ。
いや、しかし、それは何もこの匕首だけではない。さきほどまで俺たちを狙っていた、今は切断されて道端に転がっているアレ――黒光りするあの拳銃にも言えることだ。
「じゅーとー、なんて?」
匕首を鞘に収めながら、アオは不思議そうに尋ねる。まあ、酒のときと同じで、こいつが日本の法律など知っているわけがない。俺は複雑な表情のまま銃刀法について説明をした。
「何よ、この国にはそんな面倒な決まりがあるの? 不便ねぇ」
争いのない平和な国だからこその決まりだろう。誰もが皆、そんな平和に慣れきっている。
ああ、それゆえだろうか。俺は今も、平気そうに喋ってはいてもまだ頭がついてきておらず、あまり命を狙われたという実感がない。何せ体感では一瞬の出来事で、あまりに非日常が過ぎた時間。あんな、誰とも知れない黒ずくめのフードに追われて、銃声が何度も響いて――。
そうだ、銃声!
俺は今更のように慌て始める。
「アオ、今すぐここから離れるぞ。銃声が周りに響いたんだ。騒ぎになるかもしれない」
「そうなの? 今んとこ特に、そういう気配はないけど」
「今はなくても、警察とか野次馬ってのは途端に現れるもんなんだ」
その昔、ひとけのないところで喧嘩をしていたときも、そういう人間はすぐやってきた。一方は仕事で一方は暇人。しかも道端に落ちた銃の残骸を見れば、ただごとでないのは明白だ。
「よく出てくるわね、けーさつ。あと、やじうま? 地上にはおかしなのがいっぱい」
「いいから早く行くぞ。お前みたいなおかしな兎連れて、もし面倒事になったらまともな言い分なんか絶対通らないんだ」
「ちょっとあんた、あたしのことなんだと思ってんの?」
こいつの抗議はどうでもいいから、とにかく早く家に帰ろう。ここから家に最短距離で向かうなら、高架下から街の西側に出て、北上してからもう一度線路を跨いで東側に出るルートだ。
そして俺はアオの手を取った。
「あ、待って」
「なんだよ! とにかく今は早くここから――」
動く気配のない彼女に、俺は振り返る。くだらない話だったらすぐに遮って連れていこうと思ったが、しかし存外、彼女の表情はまともだった。
「今夜は、そっちに行くのはやめたほうがいいわ。この街、そっち側で極端に地兎の匂いが濃いから。家に向かうなら、こっちね」
アオは、俺の進もうとした方とは逆の出口を指差す。何を言われたのかすぐにはわからなかったが、ここは街を横切る線路の高架下で、彼女の言う「そっち側」とはつまり、街の西側だ。
匂い……アオの嗅覚は、先日登校の跡をつけられたことで身をもって知っている。馬鹿にはできない。ここは素直に従って、多少の迂回をしてでも東側から帰宅するべきか。
そうして俺とアオは、少し長めの帰路についた。
地兎と交戦した高架下から真東に離れて自宅へ向かう。まばらな街灯だけが照らす暗い夜道を、俺とアオはゆっくり歩いた。俺の歩調が遅いのは単に疲れたからだが、アオの方はどうやら、今も周囲を警戒しているらしかった。白銀の髪に隠した耳が、時折動いているとわかる。
「なあ、アオ……聞いてもいいか?」
「んー? 何よー」
アオはあまり警戒を表に出さない、緩い答え方をした。
「さっきの光が、その、ユエ……なんだよな?」
「そうだって言ったじゃない。より正確には、手鏡に蓄えられていたのはあくまで月の光であって、それを一度あたしが吸収して自身のユエに変えて、使ったわけだけどね」
彼女にとっては当たり前のことだったのだろう。なんでもない顔でつらつらと述べる。しかし途中で俺の質問の意図を読んだのか、小さな八重歯を出して笑った。
「ああ。そういえばあんた、ユエのこと信じてなかったんだったわねぇ?」
それ見たことかと言わんばかりのニヤけ顔だったが、俺は依然、神妙な表情を崩せない。
「……そう、だな。正直、半信半疑だった。でも今日、信じたよ」
「そうよねそうよね。そりゃあ信じるでしょ。何しろ直接、その目で見たんだからさ」
「いや、それもあるけど……」
俺は言葉を切り、連なる街灯と街灯の間、暗い道の上で足を止めた。
「俺……その光のこと、前から知ってたんだ」
アオを正視して、右の人差し指を一本、目の前で立てる。
街灯の光の下で振り返った彼女は、わかりやすく両眼を見張った。
「あんた、それ……ユエ?」
彼女の視線は俺の指先に注がれている。俺の、淡い光を放つ指先に。
「それが俺にはわからなかったけど……さっきのお前を見て、同じものなんじゃないかって思った。こうやって指先に光を灯すくらいなら、昔からできるんだ。たぶん、生まれたときから」
「……驚いたわ。そりゃ人間だって、まったくユエを宿してないわけじゃないけど……まさか、意図的に使役できる人がいるなんて」
「お前がそう言うなら、じゃあやっぱり……この力は、ユエなんだな」
先の戦いのとき、実のところ俺は、荒い息を吐きながら多くのことに同時に驚いていた。地兎の存在とその奇襲に、アオの並外れた身体能力に、そして、彼女が纏う俺の見知った光に。
「お前はもう、気づいてるかもしれないけど……」俺は少しだけ俯いて切り出す。「俺の家には両親がいない」
「……そうね。あの家は、ほとんどあんたの匂いしかしないし……まあ、なんとなくは」
互いの声量は、すぐ目の前の相手にだけ聞こえるくらいの小さなものだったが、それでもこのしんとした夜道では、静かな水面に広がる波紋のようによく通った。
「俺の両親は、ずっと昔、俺を捨てて出ていったんだ。これが理由で」
俺は指先の光をもう一度だけ見つめ、ふっと消す。それから再び歩き出してアオの横に並ぶ。
「まだガキだった俺は、これが人にとって異質な力だってことを知らなかった。みんなより足が速い。みんなより頭がいい。そんな、ちょっとした自分の特技みたいなものだと思ってた」
でも違った。これは人間として、種としての境界線を跨ぎかねないものだった。少なくとも俺の両親にとってはそうだったのだ。生まれてきた自分たちの子供が、人ならざる力を使う。とすれば、そいつはいったい何者か。
――化物。
そんな言葉を向けられたことも、あったかもしれない。
「……自分と違う。他と違う。それが受け入れられない奴は、どこにだっているものよ」
そうかもしれない。納得は、あまりしてないけれど。
「とにかく、この力が人を遠ざけるってわかってからは、もう使わないようにしたよ。夜道で使っても懐中電灯にすら劣る代物だ。大して役には立たないし、隠そうと思えば簡単だった」
一人になってしまった俺は、母方の祖父であるじじいに引き取られてこの街に来た。
「でも、そんで全部元通りってわけにはいかない。出てった両親は戻ってこない。俺のせいで壊れた家族は元に戻らない。結果、見事に捻くれて、毎日、喧嘩三昧だ」
「幼い頃からの孤独……か。まあ、辛くなかったはずはないわね」
アオは無表情で瞼を伏せた。その同意を、同調を、同情を、努めて表情には出すまいとした結果なのだろうと、俺は思った。
「孤独なんて、別にそんな大それたもんじゃない。ただ、寂しかっただけだ。兎だけじゃなくて、たぶん人間も、寂しいのは苦手だから……ただ寂しくて、駄々をこねていただけなんだ」
「いいえ。違うわ、紫苑。それを孤独というのよ。寂しくて、その叫びすら誰にも聞いてもらえないこと。それこそを、孤独というの。何も兎や人間だけじゃない。みんな同じよ。孤独に打ち勝つ生き物なんて、この世界にはいないんだから」
「……そうか」
アオは、伏した瞳で前を見据えてはいたけれど、本当はそこに、もっと別のものを映しているようにも感じられた。
家に近づくにつれて道幅が狭くなり、街灯の数も減る。空の半月の光が際立つようになる。
いくらかの無言の時間を経て、それからアオは、妙に明るい声で尋ねた。
「ねぇ。このこと、菫司はどこまで知ってるのよ?」
そう、俺がわざわざこんな話を出した理由――本題はそれだ。
「じじいは全部知ってるよ。全部知ってて、その上で俺をあの家に引き取って、付かず離れずのいい距離で育ててくれた。だから、その……感謝してるんだ」
俺はちらりと横目でアオの顔を盗み見る。
「お前はたぶんいい奴だし、さっきも助けてくれたから、疑ってるわけじゃあないんだが……」
「安心しなさい。あたしは菫司に――あんたの家族に危害を加えたりはしないわ。それに、さっきの奇襲は十中八九、あたしを狙ってのものでしょう。しかも、あたしが地上に来てるって情報を入手して、闇夜に紛れて探していたら、たまたま見つけた。そんな場当たり的な感じね」
「そう……なのか?」
「そ」
というか、敵対するような存在が近くにいるなら、初めからもっと注意深く行動すべきだったのではないだろうか。こいつは普段から割と好き勝手に外をフラフラ出歩いているのだが。
「ま、あたしの言葉をどこまで信じるかは、あんた次第だけど……地兎は、人の群に隠れて生きる身の上よ。だからあまり目立つようなことはできないはず。ところで紫苑、菫司がいるのは、この夜道のように人目の少ない場所なのかしら?」
「……いや、じじいがいるのは、街で一番大きな病院だ。いつでも人目はあると思う」
当然、職員は多いし、夜間であっても警備も当直もいるはずだ。
「じゃ、よっぽど心配はないでしょう」
アオのその言葉に、嘘はなさそうだった。彼女は唇の端をクッと引き上げて笑顔を作る。
「しっかし、驚いたのはやっぱりあんたね。あたし、あんたのこともっと知りたくなっちゃったわ。明日、菫司に色々と訊いてみようかしら」
それについては、いくらでも訊いてもらって構わない。おそらくじじいなら、訊かなくてもホイホイと有る事無い事喋るだろう。あれはそういう男だ。
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