肆、 地兎 1

 翌朝。昨夜の就寝時間が遅かった割に、さほど体調は悪くなかった。

 理由は簡単で、ただ起きるのも遅かったからだ。スマホの画面が表示する時刻を見て焦りに焦る。ベッドからガバッと起き上がり、飯も食わずに学校の準備だけをして家を出た。

 本日は期末試験最終日。遅刻すれば入室不許可だ。なんとかギリギリで教室に滑り込んだ俺は大きく息をついたが、既に教壇にいた先生は出席簿を見て首を捻っていた。そりゃ周りからしたら、俺は試験に遅刻しそうでも余裕で歩いてくるようなキャラだろう。急いで悪かったな。

 ……なんて思うのは、さすがに被害妄想だったらしい。

 本当の理由は、出席確認で『月見里紅音』という呼び掛けに返事がなかったことだった。月見里の欠席はそこまで珍しいことではないが、それも試験当日となれば話は別。欠席は追試扱いになってしまうので、よっぽどでなければ出席したいところだが……つまりはよっぽど体調が悪いということだろうか。そうなるととても心配だ。

 そして心配といえば、昨晩あまり机に向かっていない俺の試験の方も心配だが、そっちは今更どうしようもないので、潔く腹を括ってやるだけやることにした。

 配られた紙面から流れ込んでくる問題を片っ端から片付けていくうちに試験は終わる。

 正午を迎え、生徒は下校。午後は先生の採点のために時間が確保されている。つまるところは俺の答案に罰点がついていく時間だ。

 無意識に「はぁ……」と溜息が漏れた。だがそれを聞く者はいない。なんとなく動く気になれず席に座りっぱなしでいたら、いつしか教室には誰もいなくなっていた。

「宮東か?」

 廊下から聞こえた声に振り返る。そこにいたのはクラスの担任だった。割に若めなくせに無精髭の目立つ顔が「おお、やっぱりそうか」などと言いながら寄ってくる。

「なんですか?」

「お前、月見里とだけは仲が良いよな?」

「まあ……そうですね」だけは余計だが。

「今日、月見里が欠席してただろう? この封筒、家まで届けてくれないか?」

「え……俺がですか?」

「ああ、本当は家の方向が同じ生徒に頼もうと思っていたんだが、準備しているうちにみーんな帰っちまった。試験明けの帰宅のはえーのなんの」

「はあ、でも」

「中身、今日の試験の問題用紙と追試の案内な。あとこれ、月見里の自宅の住所」

 そうして手渡されたのは、A4サイズの茶封筒とメモの切れ端だ。メモには鉛筆で何処ぞの住所が書いてある。いやしかし……。

「住所だけ見てもわかりませんよ。郵便屋じゃあるまいし」

「スマホで地図見ろ。入力したら場所わかるだろ」

 確かに。先生のがよほど上手く現代に適応している。あれか、ミレニアル世代というやつか。

 俺は無言で自分の鞄を漁り始めた。しかし数秒後、抜けた声で「あ」と零す。

「スマホ忘れました」

「お前……それでも高校生か?」

 失礼な。いつからスマホは学生証代わりになったのか。

 どうでもいい疑問を頭の中で転がしていたら、俺は職員室に連れていかれて紙を一枚渡された。見ればそれは、マップサイトで検索した結果を画像にして貼り付けたものの印刷だった。

「それでわかるな。じゃ、よろしく頼んだ」

 俺の都合を聞くという概念は、この先生にはないようだった。まあ、いつまでも下校せずに教室で一人座っていた俺が何を言っても、説得力はないだろうが。

 そして校門を出る頃になって、俺の中には今更のように不安が芽生えた。届け物で月見里に会えるのは、まあ役得。しかし突然家を訪ねたら、彼女には迷惑ではないだろうか。それもおそらく体調不良で休んだ日に。いや、それでも頼まれてしまった以上は行くしかないのか……。

 険しい顔をしながら、俺は早くも雨粒と湿気でくしゃけてきた地図に目を落とした。

「……ん? ここって確か」

 場所は街の真西だ。徒歩圏内ではあるが近くはない。住宅が多く集まる高台で、そのため住民以外はあまり足を運ばない区画。中でも示された目的地は、昔から誰かしらの私有地だったという場所に、あるとき突然建ったという高級分譲マンション。街のほとんどの場所から臨むことのできる高楼大廈の筆頭だった。

「月見里の家って、まさかここ?」

 とすれば、地図片手に迷うことはよほどないだろう。目的地そのものがコンパス代わりだ。

 俺は緩急なく降り続く雨の中をゆっくりと歩いた。学校を離れ、一度駅の方面へと出て西側に向かう。ほどなくして道は勾配を持ち始め、周囲には高級路線の集合住宅や庭付きの大きな戸建てが散見されるようになる。やや無機質な印象は拭えないが、同じ街でも俺の住む辺りとは結構違い、道や外壁がどこも新しい。閑静な新興高級住宅街、その典型のような景色だった。

 やがて俺は、遠目に見ていた豪奢なマンションの立派なエントランスに立ち――。

 雷に打たれたような激しい衝撃とともに、唐突に意識を失った。

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