參、 笑み、嘆く 3
その日から、ユエを使役するための訓練が俺の日課になった。晴れた日は家の庭で、雨の降る日は境内の神楽殿を使って。
もちろんそれにはアオの持つ月影が必要なので、彼女もその場に居合わせることになる。時間は就寝前の三十分から一時間、だいたい午後十時から十一時前後だ。そうすることで、彼女は夜に必ず家にいるようになり、結果的に、昼夜逆転の生活もまた元に戻った。副次効果としてはこの上ない。これだけでも俺が訓練を日課にしている意味がある気がした。
週末を迎え金曜は、朝からしとしととぐずついた小雨が降っていた。そんな中で一日を過ごして夜を迎え、あとは寝る前の訓練を残すばかりとなっても、しかしアオの姿が家になかった。
ここ数日は帰宅が早かったので妙だ。そう思って寝るに寝れず時間を持て余していると、曖昧に泳いだ思考を打つように、玄関扉がガシャンと鳴った。急いで向かうと、わずかに開いた扉に、びしょ濡れのアオがもたれかかるようにして倒れていた。
即座に身体が熱くなる。
「お、おいっ! どうしたんだ!?」
ほとんど条件反射で彼女を抱え起こした。すると俺の手にべとっと生温い血が付着する。その血液は彼女の脇腹から流れ出ていた。
「あ、はは……。ごめん、下手打っちゃった……」
思わずこちらの血の気が引く。
「いっ……医者……! 病院にっ……!」
慌てて立ち上がろうとした俺を、しかしアオが弱々しい手で引いて制した。
「……いい。誰も、呼ばないで。あんた以外に……こんな姿、見せらんない」
その手――青白く、土に汚れた手。砂利を引っ掻いたのか、整えられていた爪は欠けて、砂が入り込んでいる。霞んだ目で俺を見ながらも、口元だけで必死に笑おうとしている。切れ切れの言葉での強がりは痛々しいばかりだった。
そんなこと言ってる場合か、と喉まで出かける。けれども、浅い息で首を横に振るアオの、折れた白い耳が目に入った。そうだ。確かに、簡単に人は呼べない。そもそも呼ぶにしたって医者か獣医か。アオのこの姿だって、いつ解けて兎に戻ってしまうかもわからなかった。
「……ねぇ、あんたの部屋で、寝かせてくれない? それだけ……で、いい、から」
迷った末、俺は要望通りに彼女を部屋へと運んで、ベッドに寝かせた。それとほとんど同時にアオは兎の姿に戻った。意図的に戻ったというよりは、力尽きて戻ったという感じだった。
雨水と泥、加えて血に汚れた着物を取り払うと、彼女の白毛の全身が露わになる。最近のアオはたびたび怪我をして帰ってくるが、今日はその比ではなかった。全体的にいつもより多く深い傷を負っていて出血も酷く、特に脇腹と左足首にある傷は一目で銃痕とわかった。かわし損ねて弾に抉られたような傷だ。
俺はひとまず、彼女の身体を清潔な布で拭いて止血を試みた。それからできる範囲で傷への処置を施し、様子を見ながら掃除や使ったものの処理をしていたら深夜になった。
ピクリとも動かず、まるで死んだように眠り続けるアオ。こいつはいったい今日、どんな無茶をやらかしてきたのか。しっかりと問い質してやりたいところだが、彼女の意識が戻らないことにはそれも敵わない。朝になれば目を覚ますだろうか。困ったやつだな、と呆れていた気持ちが次第に、もし目を覚さなかったらどうしよう、という不安に変わっていく。
結局俺はそれから二時間ほど、眠るわけでもなくただ彼女を見ていたが、午前三時を回ったくらいで記憶が途切れた。アオの横でベッドに突っ伏し、眠ってしまったらしかった。
翌日、目が覚めたのは午後二時だった。約十一時間の睡眠。寝すぎたせいか少し頭が痛い。
今日は土曜だ。けれども近くに置いてあったスマホには、午前七時にアラームの鳴った形跡があった。そうだ。今日は確か、近々行われる期末試験のための特別授業があったのだ。忘れないようアラームを設定していたのだが、昨夜のアオの騒動で全部頭から抜けてしまっていた。
繰り返し時刻を確認するが、やはり二時。もう今更、行っても手遅れだろう。
スマホを捨てて立ち上がると、さきほどまで俺が突っ伏していたベッドの隅の方で、アオが丸くなっているのが見えた。相変わらず朝には人の姿になっているから目のやり場に困る。四方に流れる銀髪、白い鎖骨に太腿、尻と尻尾まで……。ただ、布団をかけ直してやる際には、深い寝息で身体を上下させているのがわかった。とりあえずは生きているようで何よりだ。
俺は寝ているアオを起こさないよう静かに部屋をあとにし、最低限の家事を済ませた。
近頃は救急箱の中身が露骨に減る。一度買い足しておく必要があるかもしれない。そんなことを考えているうちに日が暮れたので、夕食を作って居間で食べた。
自分の分を片付けてから、アオの分の食事を盆に乗せて部屋へと持っていく。起き上がれるかどうか、食べられるかどうかはわからないが、駄目元だ。
――なんて、思っていたのだが。
扉を開けると、意外にもアオは既に起きていた。ベッドにはおらず、新しい着物に身を包み、窓際のフローリングに直に座っていたのだ。壁にもたれ、片足を緩く投げ出し、首を後ろに傾けて……ぼーっと空を眺めている。
「……起きて大丈夫なのか、お前。怪我は」
そう尋ねると、彼女は表情一つ動かさずに答えた。
「ああ……もう平気。傷はあらかた塞がったわ」
「は? 嘘つけ。あの大怪我で、そんなにすぐに」
「見る?」
特に俺をからかおうとするわけでもなく、いきなり襟をはだけられて驚く。着物の下から露わになったアオの脇腹を、視界に入れる直前で俺は目を逸らした。
「い、いや……いいよ。見せなくて」
まあ、本人が平気と言うなら平気なのだろう。傷の治りは人間よりも早いらしい。どちらかといえば、その羞恥心の欠落を直してほしい気もするが。
「今更、何照れてんの。昨日、手当てをしてくれたときには散々見たんでしょう?」
「み、見てない! 見たけど見てない!」
だいいち、手当のときは兎姿だった。見たけど見てないのは今朝だ。
「ふふっ……何よ、それ。顔が赤いわよ」
アオの笑みはまだ少し淡白で元気がないが、それでも俺はいくらかホッとした。食事をテーブルに乗せて座ると窓から月が見える。その逆光が彼女の姿を照らしている。最近の中では珍しいよく晴れた月夜で、その光だけで室内は十分に明るく、電灯をつける必要はなかった。
警戒を解いているのか、人の姿の彼女の頭からは折れた長耳がヒョコっと飛び出していて、それが目の前の光景の非現実性を強調している。
しんと静まった空気の中、アオが小さな声で呟いた。
「……派手に失敗しちゃったわねぇ」
独り言のつもりだったのかもしれないが、聞こえたのに反応しないのも変だと思った。
「……まったくだ。さすがに限度ってもんがあるだろ。無茶しすぎだ」
「そうね。いい加減、飼い主の忠告は聞いとこうかしら」
「そうだぞ。儀式の遣いで来て、満月待ってるんだろう? そんなんじゃ、いつまでもつかわかりゃしない。死んじまったら本末転倒じゃないか」
「うん……」
俺の忠告に対し、アオはなぜかそこで露骨に語尾を濁した。確か、以前もだ。以前も、こんな話をしたら妙に薄い応答をされた。
その理由を考えて黙っていた俺に、アオはゆっくりと振り向く。
「そっか。あんた気付いてないのか。満月は……今夜よ」
「え?」
言われて知る。そうだったのか、と。なんとなくもうすぐだという認識はあったが、まさか今夜とは思っていなかった。太陽暦で生きる現代日本人にとって、月の満ち欠けは風流ではあっても生活の基準ではない。今、夜空に浮かぶ月は確かに円いが、それが真に満月かどうかは、そういう類のカレンダーを見ないことには判断し辛いものがある。
しかし、今夜が満月なら――。
「じゃあ、やらなきゃいけないんじゃないのか。儀式の……えっと、燭台に火を灯すんだよな?」
けれどもアオの口から出た言葉は、俺の思い描くものと正反対だった。
「いいえ、何もしなくていいわ。あたしが灯詞の儀の遣いで地上へ来たっていうの……あれ、嘘だから」
「は!? だってお前、言ってたじゃないか。それが役目だって。じじいも、俺に月読人とかいうのを任すって」
「そうね。あの病院での話はほとんど真実よ。天兎のことも、あたしの母さんのことも、菫司の言ったことも……。ただ、あたしが灯詞の儀の遣いで地上へ来たってこと以外は」
「なんだよ、それ。意味がわからない。じゃあお前、なんで……」
なんで月から地上へ来たのか。当然、そんな疑問が湧いてくる。困惑の表情を浮かべる俺に、アオはさらりと答えた。
「あたしは……逃げてきたの。あの月から」
……逃げてきた?
「ど、どうして」
「母さんが、殺されたから」
「……え?」
それは想像もしない答えだった。アオの口調がこうも淡々としているのが、不思議なほどに。
「あんたたち人間の御伽噺に出てくるかぐや姫は、もうこの世にはいないわ。誰よりも白く気高く、そして強く、多くのユエを宿していた母さんは、けれど奸計によって殺された。あたしの目の前で、自らの血にその身を沈めた」
「……奸計?」
「そう。くだらないはかりごとよ。母さんは、無理にあたしを助けようとさえしなければ、そこらの三下に命を取られるような兎じゃあなかったけど」
アオは言いながら目を細め、再び夜空の満月を仰いだ。そうしてぽつりと言った。「あの月は、天兎の世界は……腐ってるのよ」と。
「月で生きる限り、多くのユエに満たされている限り、あたしたち天兎に寿命の概念はない。そして日々多くの新たな命が、より白い命が、より多くのユエを持った命が、神に祝福されると信じて生まれてくる。にも関わらず、月に生きる天兎の数が増えることはない。ねぇ紫苑、それがなんでか……あんたにわかる?」
尋ねられ、俺は考える。日々新しい命が生まれる。でも人間の場合は、その生に寿命という限りがある。だから人口が一様に増えるということはない。
いや、違う。必ずしも寿命でなくても、人間はある程度生きたら様々な理由で死んでしまう。それが答えだ。生まれるのに増えないのは、同じだけ死ぬからだ。
アオは横目で俺の顔を見、答えの共有ができたことを得心する。
「特に天兎の場合はね、だいたいが殺されて死ぬの。むしろ寿命がない分だけ、人間よりも厄介よ。一度上に立った者が居座り続ける。地位、力、権益、権威……それらを手にし、自分の都合のいいように世界を動かそうとする者が、その際限のない欲望を『教えのため』という大義で覆って、同胞を殺め続けている。あの白い世界で生まれ、その手を本当の意味で白いまま保っている者はほとんどいない。誰の手もおぞましく、真っ赤に染まってる。地上から眺めれば麗しい月も、実態はそんな世界」
聞いて、思う。それはなんとあまりに、苛烈な世界だろうか。そしてアオは間違いなく、その苛烈な世界の、犠牲になった側だろう。
にも関わらず、彼女の声はなぜ、これほどに落ち着いているのか。
「母さんは、そんな月の世界に強く異を唱えていたわ。特に、その社会構造の礎となっている天兎の教えに。だからね、よく母さんは言っていたのよ。『多くのユエを持つこと』と『白い容姿を持つこと』は関係がない。そこに神と月の祝福は関係ないって」
「関係ない……のか?」
「さぁ? 知らない。だけど、あたしもなんとなく思っていたわ。神様なんて所詮、この世にはいないんだって。じゃなかったら、こんなにもこの手からすり抜けていくものばかりを、悪戯に与えられたりはしないものね」
アオの口元がわずかに動いて、変わらず抑揚のない声を発する。その口の端が、いつからだろう、少しだけ引き上がっている。
嗤っているのだ。
見上げるあの月の世界をだろうか。それともここにいる自分をだろうか。いつもの八重歯を覗かせるような気持ちのいい笑顔ではなく、ほとんど泣いているようにさえ思える表情。
「それに実際、あたしは母さんみたいにこの上なく白くあっても、多くのユエを宿していない。実のところね、あたしの宿しているユエは、普通の天兎と比べても、かなり少ないのよ」
「え……なんで……」
少ない? 俺は疑問を抱きながら、アオのユエについて思い出す。
例えば地兎五匹を相手に戦ったとき。例えば俺の訓練に立ち会っていたとき。いずれも彼女のユエは、強く光り輝いていたはずだが。
「あんたの前では、ちょっと見栄張ってただけ。最初に地兎を散らしたときは、手鏡を一つ丸ごと使ったでしょ。それに、あんたに月影をもらってからは、ほとんどそこに貯めたユエを借りているにすぎないわ」
言いながらアオは、緩慢な手つきで袖の袂から手鏡を一つ取り出した。パカっと開くと、そこにもう一つの満月が生まれたかのように鏡面が輝き、アオの身体にユエが吸い込まれていく。反対に、鏡面の方はユエが抜けた分だけ燻んだ。ユエの貯蔵量が減ったしるしなのだろう。
アオはしばらくかけていくらかのユエを取り込み、やがてまた手鏡を閉じて袖にしまった。
「つまるところ、教えに照らせば、あたしは天兎の摂理に反した存在――はっきり言って劣等種。だからたぶん母さんの言葉は、そんなあたしを、慰めるためのものだったのよ」
「……だとしても、お前の母さんはお前のことを、否定したくなかったってことだよな」
ユエを持って生まれてしまったことで両親に見放された俺とは、対照的な境遇だ。アオの言う通り、もし神様がいるのなら、こんな皮肉な行き違いは起こらないのかもしれない。
「はは……それはそれは、実に麗しき母の愛ね。ま、あたしも大昔は、そんな言葉に救われたことがあったわ。母さんの言葉があたしを肯定した。その言葉が真実であってほしいと願った」
乾いた声で彼女は笑う。静かに、嘆くように笑う。
「でもね、あたしは思うの。母さんは自分を偽ってでも、天兎の世界に異を唱えるべきではなかった。群から弾き出されるのは、獣にとっては死と同義だから。そして実際に母さんは死んで……もうそれ以上、あたしが一匹、月で生きるのは難しかったでしょう。月から逃れるように、表向き、灯詞の儀の遣いとなって……母さんの残した言葉に従ってこの街へ来た」
一匹……か。
「……ずっと気になってたんだけど……お前、父親はいないのか」
「いないこともないわ。父さんと、それと姉さんがいるみたい」
「みたいって……なんだよ」
「あたしは会ったことがないのよ。その昔、母さんが月に移る際に生き別れたって聞いたけど……まあ、よくは知らない。母さんも、あんまりその話はしなかったし」
じゃあ、アオは今、本当に独りなのだ。帰る場所も、頼る相手もいない。寂しくても、その叫びを誰にも聞いてもらえない――孤独なのだ。
「……ねぇ、紫苑」アオは長い耳を力なく垂らし、今にも空気に溶けてしまいそうな声で俺を呼んだ。「あたし本当はね……満月なんて来てほしくはなかったわ。ここであんたと過ごすのが心地良かった。ずっと終わってほしくなかった。だからどうかこの先も、あたしをここにおいてほしい。あたしとここで、静かに暮らしていくのはどう?」
顔や肩にかかる髪を払うことなく、その隙間からまるで縋るような弱々しい瞳を俺に向ける。
「考えたのよ。あたし、あんたのこと好きになれると思う。好きになっていけると思うの。だから、つがいになりましょう? ほら、人間から見ても、あたしの容姿は十分に美しいはずじゃない。あんたに、あたしのこと好きになって……あたしのこと、抱いてほしいな」
アオは確かに、誰の目から見ても美しい。今、彼女の過去を知り、その上で見る彼女の虚ろな表情は、響く声は……背筋が凍りつくほどの凄艶さを孕んでいる。
「天兎ってね、月では永遠に生きられても、月の光の乏しい地上では、せいぜい人間と同じ程度の寿命しかないの。でもそれも、あんたと生きる上では、むしろ好都合でしょう? ここであんたと一緒に生きて、老いて、朽ちて、そして……一緒に死んでいきたいの」
頭上から降る冷たい月光が、彼女の顔に黒い影を落としている。その顔に浮かぶ表情に、落ちた影よりも濃い悲愴が見え隠れする。
「月になんて、住めなくていい。たいそうな感動も胸躍る波乱も、何も要らない。平坦でささやかな幸せがあるだけの日々……それのどこがいけないの。ただ誰かが傍にいて、孤独の波に攫われることのない平穏。それさえが、あればいい」
宙を見るようだった彼女の瞳が、そのときふっと、もう一度俺への焦点を結んだ。彼女はまるで壊れてしまったかのように淡々と、しかし饒舌に話し続ける。
「ここであんたのくれた食事は、ここであんたとともにした寝床は、あたしのこれまでの生で間違いなく、もっとも暖かいものだったわ。ねぇ、あんたの目に、今のあたしはどう見える? 不憫で、哀れで、可哀想で……でもだからこそ、たまらなく愛おしいでしょう? そんなあたしの言ってほしい言葉が……紫苑、わかる?」
俺はもはや、彼女の顔を見ていることができなかった。その姿はあまりにも痛々しくて、彼女の中に渦巻く悲壮が、十分すぎるほど俺に波及した。
長い長い年月を生き、積もり積もったやり場のない怒りと悲しみ。そうした激しい感情から濾過されて残った寂しさだけが、今の彼女の胸を埋め尽くしている。混じり気のない、他の感情を全て飲み込んでしまうほどの無垢な孤独……それが彼女の闇だ。そんな深い闇の中で、彼女は俺の言葉を待っていた。彼女の望む、俺の言葉を待っていた。
でも俺は……答えられない。今の彼女の想いに……俺は……。
音にしようとする言葉が、喉元まで上がってきては、形にならずにまた沈んでいく。そんな逡巡を何度も繰り返しているうち、アオの薄く笑ったような声が聞こえた。
「……いえ、やっぱり兎と人は別の生き物。相容れないのが宿命よね」
「そ……そういうわけじゃ、ない。ここには、お前がいたいだけいたらいい。ただ……」
「いいわ。ごめん、あんたを困らせたいわけじゃなかったの。言ってみただけよ。全部忘れて」
なんで笑える? なんで今まで、笑えてた? いっそ思いきり泣けた方が、楽になるかもしれないのに……。
でも、そんなことを俺が訊いていいはずはなくて。中途半端に踏み込んでいわけがなくて。
だから何も言えない。
「……飯、あるぞ」
結局、俺はテーブルの盆を見ながらそんな言葉を並べることしかできず
「ごめんね。今日は……要らない」
ガラス玉のように抜けた瞳で月を見るアオの返事を最後に部屋を出た。
その日を境にアオとの接点が急激に減った。
彼女が家に帰ってくるのは三日に一回程度になり、帰ってくるとしても夜遅く。そして眠るのは、これまで我が物顔で陣取っていた俺のベッドや部屋の窓際ではなく、縁側だったり居間だったり、あるいは境内の本殿の軒下、社務所の屋根の上、神楽殿の隅だったりと点々変わっていた。その上、俺が起きる前に朝早く姿を消す。
たまに顔を合わせることがあっても、以前のようにはいかなかった。中でも一番の変化は、あれほど賑やかだったアオの口数が減って、笑わなくなったことだ。その変化から、逆に今までの笑顔がいくらか意図的なものだったということが窺えた。彼女のあんなにも華やかで快活で楽しそうだった笑顔が、そうした境遇の上での産物だと知ってしまったことが辛かった。
家では一人の時間が増え、ぐるぐると回る思考の区切りがつけられなくなる。
――あたし、あんたのこと好きになれると思う。
あんなことを言われるなんて、思ってなかった。あの日から俺は、きっとアオのことばかり考えている。彼女のあの、すり切れたような悲愴の滲む笑みが、頭から離れない。
華やかで美しいアオ。孤独で寂しそうなアオ。その激しい乖離が、ただただ俺の胸を乱す。
六月も終わりに差しかかるが、アオは相変わらず、帰ってきたり、こなかったり。
俺の方はいつしか期末試験本番の週を迎え、けれども初日は、ひどいものだった。試験の問題なんて、たぶん一つもまともに読んでない。
そんなものどうでもよかった。
今の俺には、もっと考えなければならないことがあった。
そして俺はこの日から、就寝時間を後ろにずらして彼女の帰りを待ち始めた。初日と二日目は肩透かしを食らって居間や玄関前で寝落ちしたが、三日日の深夜に神楽殿の階段で張っていたら上手く出くわせた。
遠目でお互いに姿を認めたとき、アオも俺の意図を察したのだろう、視線を横に流して少し黙ったが、やがてピョンと飛んで殿上に入った。柱の一つを背に、片足を投げ出して座る。
それからたっぷり五分の沈黙を経て、俺は階段に腰掛け口を開いた。
「あのさ、アオ……お前の言ってほしい言葉は……わかるつもりだ」
ここで一緒に暮らそう。アオは、きっとそう言ってほしいのだろう。何で飾られた言葉でもなく、気の利いた優しい言葉でもなく……ただ、一緒に生きよう、と。
「でも……悪い。それは言えないんだ。お前が月から逃げてきて、帰る場所がないってんなら、ここにいるのは構わない。けど、それでも……俺には今、好きな人がいる」
背を向け合って、わずかに互いを感じるだけの距離を隔て、他に何をするわけでもなく……彼女はたぶん、目尻の下がった寂しそうな顔を、月のない虚ろな夜空に向けている。
「律儀ね。わざわざそれを答えにきたの? 忘れてって言ったのにさ……恥ずかしいじゃない」
アオはまるで意地を張るように、しかし表情は変わらず切なげなまま溜息を零した。
「……知ってるわよ。ヤマナシ、だっけ。あんたは……そんなに、あのこがいいのね」
「……ああ、ずっと好きだったんだ」
俺は静かに、ゆっくり答える。冷静なときは、こんなにも簡単にはっきりと口にできる。
「でもやっぱり……本人にちゃんと好きだって伝えることもできないようじゃ、駄目だと思う」
そんなんじゃ月見里だけじゃなく、今ここにいるアオにだって、自信持って胸は張れない。
「だから……言おうと思うんだ。ちゃんと」
もちろんいつかは言うつもりだった。けれどそれはいったい、いつだったのだろう。もしアオが現れなければ、アオとこうして話すことがなければ……俺は学校で月見里と過ごし、きっとそのまま、ずっと言えなかったのではないだろうか。
それじゃあいけない。言わなければ、何も変えられないのだから。
「……あたしはね。よく、母さんに似てるって言われるわ。その昔、母さんは、それはそれは多くの貴公子を虜にしたそうだけど……でも、そういうところは、残念ながら似てないみたい」
アオは、空に向かって、まるで歌うようにそう呟いた。
「……ねぇ、そんなに求めてどうするの?」
「どうって……何が」
「追い求めること、手を伸ばし続けるということは、決して楽なことじゃないわ。それは、あんたにだってわかるでしょう?」
それは……わかる。何かを追い求めれば、思い通りにならないことはいくらでもある。思うように事が運ばない。思うように結果が出ない。そういうことの方が多いくらいだ。
「その上、苦しみながら手を伸ばし、もし仮に届いたとしても……しかし得る喜びは束の間の夢も同然」
静かな夜。吹き抜ける風がアオの声を、まるですぐ傍で聞いているかのように近くまで運んでくる。彼女の息遣いが、彼女の奏でる悲しい旋律が、この耳にとても響く。
「追い求めるという感情に、えてして終わりは訪れないものよ。手にしても手にしても、やがてはまた次に手を伸ばすことになる。まるで何かに駆られるようにして、永遠にその繰り返し」
「繰り、返し……」
「そう。満たされることなんて、決してありはしないの。求めたものは、手にしたそばから色褪せてゆく。飢えても飢えても手にしたそばから食物が燃えてしまう餓鬼のように……欲し、焦がれ、喘ぎ、求め……手にしてはその価値のなさに絶望し、また次へ……」
俺はそのとき、思わず彼女の方を振り返っていた。彼女は俺の視線に気づくことなく、闇の中でただ右手を真っ直ぐに空へ、雲に覆われた光のない空へと伸ばしていた。
「ああ、なんて……なんて残酷なんでしょうね。何を、どれほど手にしても、その身は乾いていく一方。この世界は一番望んだものほど、手に入らないようにできているというのに……」
そしてその手は空を切る。
「そんな果てのない苦しみに、みすみす飲まれてやることはないわ。全部全部、何もかも諦めてしまえばいいのよ。それが唯一の、救いの道なんだから」
諦めるのが……救い……?
「でも……それじゃあ何も、叶わないだろ」
「大丈夫よ。あんたが今、どんなに追い求めていることであっても、どんなに焦がれていることであっても……未来になれば、全部等しく些細なこと。時は全ての感情を癒し、均す。膨れて尖った感情をも穏やかに鎮めてゆく。たとえ望みが叶わないとして、でもそれは所詮、いっときの感情にすぎない。望みも悔しさも葛藤も煩悶も、全て流れる時が過去にしてくれる」
全てが過去に……確かにその通りなのかもしれない。でも俺は、アオのその言葉を聞いたとき、ひどく、ひどく胸がざらついた。あんまりだ。それではあまりに……虚しすぎる。
「俺は……」
呟くその先を懸命に探していた。こみ上げる感情を、言葉に編み直していた。彼女の主張をそのまま受け入れることを、俺は無意識に拒んでいたのかもしれない。
「そりゃあさ……今の俺が心の底から望んでいることでも、未来の俺にとっては、大したことじゃないのかもしれない。そういうことが、今まで一度もなかったわけじゃない。……でも、今、ここにいる俺は、そんなふうには思いたくないんだ」
静かに、けれど力強く、俺はそう告げる。そのとき、まるで事切れるように力なく下ろされたアオの右手――俺はことさら見ない振りをする。
「だって、俺がこれまで手にしてきたものの中には、今も大事に思えるものが、ちゃんとあるんだ。あのとき俺は、それを手にすることができてよかったって、それに恵まれて幸せだって、そう思えるものが確かにあるんだ」
じじいがこの家に引き取ってくれたこととか。学校で月見里と出会えたこととか。そして、もしかしたらそれは、アオとのことも……。
必死に求めて得た成果。当たり前に見えた幸運。どれもちゃんと振り返ってみれば、手にできなかった未来など、考えられないくらい。
「そういうのって、手にしてからでもずっと、色褪せることはないはずなんだ。自分の中で光り輝いているはずなんだよ。ときには失うのが怖くなるくらい……きっとこれからも、永遠に」
ともすれば皆、何かを追いながら、願いながら生きている。誰もがそれら一つひとつを手にし、ときには逃し……でもそれは、決して苦悩では、ないと思う。
「追い求めるのは決して楽なことじゃない。でも俺は、この手を伸ばすことを、やめたいとは思わない。だって、追わずにはいられないんだ。どうしても惹かれるんだ。だから……」
俺は言葉を切った。いつしかアオがこちらを振り返っていたからだ。
俺は改めて息を吸い、目の前の彼女の、蒼く光る瞳を見つめる。
「だから……俺は言うよ」
アオは答えなかったが、それでも俺は、彼女から視線を逸さずにいた。
すると彼女も、俺を見つめることだけはやめなかった。
無音だった夜に、いつからだろうか、しとしとと雨音が溶け込んでいる。
やがて、どちらからでもなく互いに目を閉じて、視線を切り……背後ではアオの立ち上がる気配があった。そして「タン……」と気のない足音が一つしたあと、彼女は飛び去っていった。
屋根からはみ出た自分の足が濡れているのにようやく気づく。静かにひっそりと降る涙雨の音が、途端に大きくなったように感じられた。
ポケットから取り出したスマホで時刻を確かめると、午前二時を回っている。立ち上がろうとして、今まで身体の感覚だけでなく、眠気さえもが麻痺していたことを知る。
俺はそのまま真っ直ぐに歩いて家まで戻り、すぐに眠った。
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