參、 笑み、嘆く 2

 はいはい、どうせ俺と月見里は合いません。釣り合いませんよ! 知ってた知ってた。

 別に? だから? そんなことは今更だ。今更すぎて気にもならないなるわけない。

 無闇に尖りきった言葉が、胸の中から生まれては喉元に迫り上がってくる。午後の授業中、帰宅の歩行中、家での家事の最中、俺はそれらを逐一飲み込み、ときには無音で呟いて消した。

 言われた直後は少しばかり腹も立ったが、なに、考えてみればそれは当然のことなのだ。俺の目にも、誰の目にも、最近この街に来たばかりで数回学校を覗いただけのアオの目にも、簡単にわかる純粋な事実。月見里紅音は、そもそも人間としての質が全然違う。

 とりあえず今は、勢いで告白しなくてよかったと、そうホッとするばかりだ。ついでにその後のぐずぐずとくだを巻いた思考も、日常の些事で蓋をして無意識下に沈めた。

 そうして翌朝。家を見渡して気づいたが、どうやら昨晩、アオは帰っていないようだった。

 学校へ向かう際に戸締りをどうしようか迷っていたら、ちょうどアオが眠そうな顔とくしゃけた着物姿で現れる。そしてそのまま真っ直ぐ俺の部屋に向かってベッドで丸くなった。遊び回っているわけでもなさそうだが、いったい何をしているのか。

 さらにその日も帰宅すると彼女の姿はなく、俺が床に就く直前で帰ってくる。窓の外のベランダにピョンと現れた彼女が雨や泥に塗れ、綺麗な顔に二、三の擦り傷を作ってきた光景にはぎょっとしたが、本人は相変わらず気にしたそぶりもなく、また早々に眠りに落ちる。汚れと傷に処置をする暇もなかった。

 次の日、俺はたまらず学校の授業を終えると真っ先に家に戻った。帰宅してもアオはまだベッドで眠っていたので、先に家事をしながら目覚めるのを待ち、傷の手当てをしたのち汚れた着物を剥ぎ取って、代わりの服を投げつけた。アオが例の特大風呂敷に自前の着物を何着か持っていたため当座は凌げたが、汚れた着物も早めのクリーニングを予定した。

 俺は溜息混じりに汚れた部屋を掃除しながら、近頃の奇行について彼女に尋ねる。

「お前、最近何してるんだよ。生活が無茶苦茶じゃないか」

「何でもいいでしょ。ってかあんた。それはあたしのことを心配してんの?」

「それもあるけど、俺が寝てる間に部屋から出たり入ったり、普通に迷惑だろ!」

 アオの身を案じた問いかけでも、言葉はいつもより二割増できつくなる。それは先日、アオの何気ない一言に痛手を食らった記憶があるからだ。しかしこの兎、俺がいくら言葉を尖らせても効きやしない。メンタルだけはめっぽう強いときているから厄介この上ない。

「ああ、それについてはごめんあそばせ。あと、あたしは心身ともに平気よ。ま、確かにここ最近は、月の光が地上に届きにくくて難儀するけど、そこはあんたのくれる酒に頼るつもり」

「そんなんでいいのかよ……」

 アルコール依存症みたいなこと言わないでくれ。最近、台所の酒の減りが早いものだから余計に語弊がある。肝心なのはユエの方で、月の光が浴びられない分を補うという話だろう。

「危ないことしてたりしないだろうな?」

「危ないことって、例えば?」

「え、そりゃ……前に、地兎っていったっけか、そいつらに襲われたときみたいな」

「まあ、そういうことも、多少はあるわねぇ。調べたところによると、どうやらこの辺りの地兎たちは、何かしらの目的を持って、地上に来た天兎を狙ってるみたいだし。あのこたちは、こっちから仕掛けなくても、わらわらと絡んでくるのよ」

「だったら、なおのこと家から出ずにじっとしてろよ。だいたい、お前の目的はあれだろ。儀式の遣いとかいう。そっちはいいのかよ?」

「ん? ああ……」尋ねると、しかしアオは意外なほどに薄い反応を見せた。「あれは、満月の日まで待つことになってるわ」

 気の抜けた声だ。せっせと雑巾で床を拭いていた俺は、思わず手を止めて視線を向ける。

 気づけば彼女は、ベランダで空を見ていた。雲間に花開く純白の月は、日毎に美しい円に近づきつつある。あと数日で満開というところだろう。

 明るい室内と対極のように夜のベランダは暗く、その月明かりの差す場所にアオは座り込んでいる。目の上にはらりとかかる前髪も退けず、ただただ能面のような無表情で、いったい何を考えているのかわからない。その整った顔の、口だけが最小限に動く。

「あの地兎たちは、あたしがこの街にいることを、もう知ってる。そんな連中が周りで動いている以上、こっちもある程度は探っておかなくちゃならないわ。いざってとき……例えば新月の日とかに、痛い目を見ないためにもね」

「でも……」

「閉じ籠って身を守るばかりが安全とは限らないわよ。牽制もそれなりに重要なんだから」

 そうかもしれないけど、と口に出しかけた言葉は、しかし結局、声にならなかった。

「それにね、紫苑」アオがゆっくりカクンとこちらに首を傾けるのと同時、俺の言葉を上書きしたのだ。「もとより獣に、平穏な一日なんてありはしないわ。毎日が戦い、それが普通なの。あたしはこれまで、ずっとそんな日々を生きてきたんだから」

 陰る月明かり。暗がりで静かに話すアオは、薄い笑みを浮かべていた。それはかすかに自虐的で、俺を見つめる蒼い瞳は、この喉に未だ残っていた言葉の全てを溜息に変えた。

 黙す俺を見て彼女は、いやに艶のあるか細い声で続ける。

「……もうわかってることだけど、あんたはやっぱりお節介ねぇ。ほんと可愛くて、飼い主向きの、優しい性格。駄目よ、あんまり優しいとあたし、好きになっちゃうんだから」

 こ、こいつはすぐこういうことを言う。俺はすぐに背を向けて赤面を隠し、これ以上からかわれまいと掃除に徹した。

 それから俺は二人分の夕食を作って、居間に並べた。食べ始めるとアオは台所から瓶ごと酒を持ってきてかっ食らっていた。ユエが全身に染み渡るとかいう意味不明な感想とともに顔を赤らめ、さきほどまでの気怠い雰囲気を感じさせないペースで早々に瓶を空にした。


 時針回って午後十時半。あとは寝るだけとなったところで、アオが声をかけてきた。

「ねぇ、あんたに一つ提案があるんだけどさ。庭に行かない?」

 しんとした闇夜だった。街明かりも少しずつ消え、空の月はほとんど雲に隠れていた。

 俺とアオは庭で、ひと二人分ほどの間隔を空けて向かい立つ。

 彼女の手には例の白い和傘――月影。その柄を掴んで引き抜き、刀身部分を露わにする。右手に刀を、左手に傘を、それぞれ持ってアオはこちらを見た。

「お、おい……何する気だ。物騒な話か?」

「いいえ、怯えるようなことは何もないわ」彼女は少しだけ楽しそうに答える。「あんたにもらったこの刀、近頃、地兎たちと遊んだおかげでコツが掴めたから、説明しとこうかなって」

 なんだそういうことか。わざわざ庭まで呼び出すから何事かと思ってしまった。無意識に張っていた肩から力が抜ける。

 吹き抜ける夜の風はいくらかの湿気と冷気を孕んでいる。

「別に、俺はいいよ。あんま興味ないしさ」

「まあまあ、そうつれないこと言わないで。あたしの酔い覚ましに付き合いなさいよ」

 この酔っ払い……結局はそれが目的だな。

「前にも少し言いかけたけど、この月影は与奪の宝具である『枝』から作り出された宝刀よ。したがってその宝具の性質を、そのまま受け継いでいる」

 そういえば前に蔵を漁ったときにも、そんなようなことを言っていた気がする。

「『与奪』をこの月影に当てはめると『放出と吸収』ね。こっちの刀は持ち主、もしくは月影そのものに内包されたユエを放出して、使役したり、他者に分け与えることができるみたい」

 アオは言い終えると同時、刀を握る右手を上げ、俺へ向けて刃先を構えた。すると刀身が次第にぼんやりと、夜空に浮かぶはずの月と同じ光を灯し始める。柔らかな光の美しさに思わず視線を奪われたが、なんとその光は、宙を舞って俺の方へと向かってきた。

 これは、ユエだ。アオのユエが、仄かに輝きながら、やがて俺の身体の中に収まっていく。

 その一連の光景を見届けると、次にアオは左手の傘を開いた。

「対してこっちの傘は、ユエによる攻撃を吸収したり、他者から強引に奪い取ることができる」

 模様も飾りもない真っ白な傘紙。一見地味だが、夜の闇の中で円く開かれたその姿は、凛々しくも燻みのない満月そのものだ。アオの姿をすっぽりと覆い隠すほどの大きな円に、今しがた俺に集まったユエが吸い寄せられ、再び彼女の体内に戻っていく。

「……とまあ、こんな芸当が可能な代物ね」

 着物やユエの光も相まって、幻想的な彼女の佇まい。それを見ているうち、辺りはただの雲夜に戻った。終わってみれば一瞬だったが、酔っ払いの酔い覚ましにしては、聞き流すに惜しい話だ。俺はそう思う。

「……ユエは、兎にとっては生命力そのもの、なんだよな? これって、もしかしてすごい力なんじゃないか?」

「もしかしなくても、すごい力よ。傘で奪い溜め込んだユエを使役して戦えば、持ち主のユエの消費は格段に抑えられる。それに、この刀そのものにも、持ち主のユエを引き出す力があるみたいだから、普通の武器にユエを纏わせるよりも効率がいいわ。月から離れた地上で戦う者にとっては、この上ない得物ね」

 というよりむしろ、そういう用途のために作られたとさえ思える。ユエの使役効率、補充、外部貯蓄……武器としての側面以外にも利点が多い。

「手鏡が節約できそうね」

「酒の節約にもなるわけだな」

 にこやかに笑うアオが一瞬だけものすごく渋い顔をしたが、気づいていないことにした。

 するとアオはアオで、俺の発言など聞こえもしなかったように尋ねる。

「それはそうと紫苑、ここからが本題なんだけど……さっきあたしのユエの流れを身に受けて、何か感じた?」

「え? 何かって……んなこと、今更言われても」

「じゃあもう一度よ。さ、こっちに背中向けて、感覚を研ぎ澄ませて」

「はあ……?」

 話をとっとと酒から遠ざけようとしているのか、アオは俺を急かすように指図した。

「ほら早く!」わかったうるさいちょっと待て。

 俺は渋々、アオに背を受ける。後ろで彼女が刀を振る気配があった。

「どう?」

 注意深く意識を背後に、背中に、身体中に巡らせる。

「あー……うーん……言われてみれば、なんとなく? ……こう、うねりみたいなのが、来てる気がする」

 実際にやってみて驚いたのは、ユエに対して意識的になることで、視覚にも変化があったことだ。ユエの流れ込んでいる俺の身体が、さきほどよりもさらに強く光っているのがわかった。

 しばらく経ってその光が弱まり、また背後に吸われていく。

「あ、あー……なんか身体から抜けていくなぁ」

 そして、与えられたユエが再び身体から抜けきるのを待ち、俺は振り返った。

「上出来ね」アオが満足そうに頷く。「もともとあんたは、無意識ではあっても指先に灯せる程度には、ユエを扱うことができたわけだしね」

 言いながら、アオは傘を閉じてそこに刀を収めた。仕込み刀はただの和傘に戻る。

「基本的な感覚はそれと変わらないわ。体内にユエを巡らせて、制御する感覚」

「はあ……で、それがなんなんだよ?」

 結局、何をさせられたのかわかっていない俺の質問に、アオははっきりと答える。

「あんたは、訓練を重ねることで、今よりもっと多くのユエを、高い精度で使役できるようになる可能性を秘めている」

「俺が?」

「……かもしれない」

 ん?

「……と言えなくもない」

 だんだん弱まっていく語気に合わせて、俺の中に少しばかり膨らんだ期待も萎んだ。

「……希望は薄そうだな」

「人間でありながらユエが扱えるだけで、既にあんたは十分に希少種よ。前例のないことに、断定的なことは言えないのよ」

 まあ……ごもっともで。

「だけど、ものは試しだと思わない? やって損することは何もないわ」

 実際、それも同じくごもっともだ。

「そうだな。そういや、じじいもそんなようなこと、言ってた気がするし」

「そ。試せるだけ、あんたはお得なのよ。特別会員様だけの、お買い得すぺしゃるぷらん、よ!」

 とりあえず、アオがたびたび変な言葉を習得していることに関しては、あとでちゃんと突っ込んでやろう。今にどこかで恥をかくに違いない。

 そんなことを考えている俺に向かって、アオは突然、持っていた月影を軽々と放った。

「おわっと!」

 咄嗟のことに俺は慌てて構え、両手で抱え込むように受け取る。

 そうしてホッと息をついてから文句を飛ばそうとした俺よりも早く、彼女が言った。

「使って。こいつはあんたの訓練にも、役に立つ代物だと思うわ」

 その訓練について、アオが提案した内容はこうだった。

 俺が月影を構えて傘でアオからユエを吸い取り、一度身体に取り込んでから、刀でアオに戻す。それにより、身体は必然的にユエの流れの中に置かれることになる。一度に取り込むユエを増やしていくことで、より多くユエを扱うことができるようになる。一度に取り込むユエを減らしていくことで、より繊細なユエの制御ができるようになる。そういう趣旨の訓練らしい。

 ちなみに信憑性はない。アオが即興で考えたものらしく、この訓練が正しく意味を成すのかはわからないようだ。しかしそれも致し方ない。前例のない訓練、いわばこれは、教科書のない勉強なのだ。成果にはあまり期待せず、夜の運動程度に考えて取り組むのがよさそうである。

「普段の生活に影響のない範囲で努力するよ」

 そう返答する俺に対し、アオは

「じゃあ、あんたの努力とやらに大いに期待するわ」

 と朗らかに笑った。

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