壹、 天兎 3

 その昔といっても、遡ること所詮は八ヶ月だ。高校一年、十月、秋。文化祭を一ヶ月後に控え、準備やら何やらで校内は、それはそれは色めき立っていた。

 けれどもそんな華やいだ空気にまったく興味がなかった俺は、午後からの学級活動――もとい文化祭の準備の時間を無視して抜け出した。もともとこの頃は、普段の授業も出たり出なかったりだったのだ。そんな俺が準備をバックレたからといって、別に誰も困りはしない。むしろ俺がいない方が、周りも楽しくやるだろうとさえ思った。

 当たり前だが、たまにしか顔を出さない俺にとって、教室は到底居心地のいい場所ではなかった。ただ、かといって、そこを抜け出せば気分が晴れるというわけでもなく、やり場のない不快感は絶えず腹の中に蓄積して消えることがない。帰宅中の街でショーウィンドウのガラスに映った自分の顔は、誰が見ても気持ちのいいものではなかっただろう。目にした自分さえも、さらにいっそう、険しい表情になったくらいなのだから。

 そして不機嫌や不満はさらなる不幸を招く。これはその典型だったのかもしれない。ガラスの反射を通して妙な連中と目が合った。他校の学生服を着た、俺と同じように昼間から街をうろついている柄のよくない四人の男の集団。既視感があったが、誰かまでは思い出せない。

 しかし、そのわずかな間に相手はこちらの視線をキャッチし、一言二言の会話をすると、やおら進路を変えて俺の行く手を阻むように取り囲んできた。

 当時は――今でもないとは言わないが――こんなことは珍しくなかった。俺の顔と噂は、この街で喧嘩を呼ぶには十分な理由と言えた。

 連中を至近で見て、俺はようやく思い出す。彼らは俺が中学の頃に一度衝突した上級生だ。

 この時点で、次の展開は予想できた。お互い睨み合いながら、無言で近場の裏路地へと向かった。相手は四人だが恐れることはない。以前もまったく同じ面子でやりあって、全員殴り伏せてやったのだ。要するにこれは、そのときのお礼参りみたいなものなのだろう。望むところだ。むしろ殴る相手ができて、俺としても喜びたいくらいだった。

 ビルとビルの隙間に入って人目がなくなったところで、目の前の相手が振り返る。

「よく素直についてきたな、宮東」

 俺が答えずにいると、そいつは聞こえよがしに舌打ちをし、次いで右の拳を振りかぶった。

 当然、避ける。そしてそれを合図として、残りの四人も向かってくる。

 殴りかかってきたのだから、もうこちらから殴り返しても文句はないはずだ。とりあえず一通りかわし、俺は改めて拳を握る。

 反撃に出ようとしたところで、突然背後に、タンッと足音が聞こえた。

「こちらにいらしたのですね。申し訳ありません、はぐれてしまって」

 予想外、かつあまりにも場に不釣り合いなそのソプラノは、ものの見事に四人全員の動きを止めた。表通りに延びる光の中から小走りで現れたのは、当時の俺とはまだ面識のなかった月見里紅音だ。目立つ女生徒だったから、辛うじて同じクラスにいるという認識だけはあった。

「は? お前、なん……」

 彼女の闖入に、俺は戸惑いつつもそう零す。俺の目の前で構えていた相手も気持ちは同じだったようで、威圧的な声で訊いた。

「おい、誰だてめぇ! 今こっちがこいつと話してんだろ!」

 その間に、月見里は素早く俺と相手四人の間に割って立ち。

「お待ちください。あの、おそらく人違いかと。この方は、あなた方が思っているような人ではありません」

「は? 何言ってんだ。こいつは間違いなくあの宮東だろ。君こそ知ってんの? こいつ、君みたいな子が気にするような奴じゃないよ? 喧嘩ばっかクソほど強え、とんでもない不良! もはや人間じゃない、化物だぜ!?」

 すると他の連中もそれに続いて言う。

「ま、それでもさ。こっちもやむをえない事情とか、ほら、色々あってね?」

「んで、事情ついでに、俺らがこういう化物不良を退治してやろうって話よ。こんなのにフラフラ街歩かれたら、みんな迷惑じゃん?」

「……化物かどうかはともかく、不良はあなた方も同じでは?」

 その月見里の一言に、またも連中は動きを止める。一瞬きょとんとして、何を言われたのかわかっていないような表情をしていた。しかし数秒後、再び頭が回り始めたのか

「あ? んだとこの女」

 という脅し文句とともに距離を詰めた。同時に拳が振り上げられる。

 一方の月見里は月見里で「すみません。つい口が……」みたいな顔で固まっていた。

 俺は咄嗟に彼女の肩を掴んで後ろに引く。そうやって回避させなければ、間違いなく相手の拳は彼女に当たっていた。

 かっと頭に血が上り、目を見張る。

「おい。無関係の奴殴るのは違うだろ」

 俺が構えて踏み込もうとしたところで、しかし今度は、月見里が後ろからこの腕を止める。

「待ってください! こちらへ」

 相手が怯んでできた空間に向かって、月見里は俺の腕を掴んだまま駆け出していた。そのまま表通りまで走る。あまりにも唐突だった彼女の行動に、その場の誰も反応を示さない。俺が月見里に腕を引かれたまま後ろを振り返ると、連中はただこちらを向いて立っているだけで、追ってくることはなかった。

 しばらく走り続けて駅の繁華街を抜けた。そうして街西側の住宅地へと繋がる道の手前で、月見里は止まった。道の壁に手をついて肩を上下させている。彼女の走るスピードは意外にも早くて、俺の方も同じく息は切れていた。

「お前……どういうつもりだよ」

 俺が尋ねると、彼女は壁についた手を払い、軽く身なりを整えて答える。

「いえ、文化祭の準備の買い出しに駅まで来ていたのですが、たまたまあなたが囲まれているのを見てしまいまして」

「見てしまいましてって……お前、もしかして俺のこと知らないのか?」

「存じていますよ。宮東さんですよね? 同じクラスの」

 あっさり名前を答えられて驚いた。この名前は今や札付きだ。同じ高校に通う生徒なら、やはり知らないわけがない。なのにこいつは、囲まれていた俺を見て追ってきたのか。

「私は、月見里紅音と申します」

「それは……知ってるよ」

 逆に彼女の名前は折り紙付き。こちらも同じ高校に通う生徒なら知っていて当然。

「いや、じゃなくて!」

 話が単なる自己紹介に流れようとしていたので、即座に軌道修正する。

「俺のこと知ってるなら、噂だって聞いたことあるだろ。なんでこんなことしてんだよ」

「噂とは、さて、どの噂のことでしょう?」

「は? どのって……?」

「夜な夜な喧嘩で相手を病院送りにしているという噂ですか? それとも、堅気らしからぬ人と通じているという噂ですか? あるいは、実は保護観察中だという噂ですか?」

 ……なんかいっぱいあるんだな。しかもこの三つに関しては全部デマだ。

 迷い半分、呆れ半分で俺が黙っていると、彼女はふわりと柔らかく笑った。

「噂は、あくまでも噂ではないですか」

「……え?」

「必ずしも事実とは限りません。仮に事実だったとしても、それはその人の一面を捉えただけのものにすぎない。ですから私は、自分の目で見たことだけ、信じるようにしています」

 彼女の視線は、まっすぐに俺へと向いていた。曇りのない大きな瞳で語られたその言葉も同じくらいまっすぐで、そして、とても澄んでいた。

 俺が依然、何も答えられずにいると、彼女が顔を綻ばせてまたすぐに言う。

「ところで、ご存じですか? 私、文化祭実行委員なのです」

「……いや、知らないけど……」

「では知ってください。買い出し、まだ済んでいないので、宮東さんも是非ご一緒しましょう」

「それは……別に俺が手伝う義理はないんじゃ」

 向けられた笑顔とまっすぐな瞳に負け、目を逸らすと、その隙に彼女は再び俺の手を取った。

「いいえ、宮東さんも同じクラスの一員です。実行委員の役目は、生徒全員が気持ち良く文化祭に参加できるようにすることですから」

「あっ、おい!」

 そのまま来た道をまっすぐ戻っていく彼女に、俺は惹かれた。真面目で丁寧、だけど妙に力強いその姿勢に、ついつい別れるタイミングを見失う。結局、繁華街まで引き返すと、なし崩し的に彼女の用に付き合わされることになった。

 店を巡り、メモに従って次々と物品を買い揃えていく。するとそれらはみるみるうちに一人では運びきれない量となり、俺は余計に別れを切り出せなくなる。店を出るたび、右手に左手にどんどん荷物が増えていき、俺の顔は次第にげっそりと沈む一方、しかし月見里の表情は変わらず凛と涼やかだった。

 工具、木材、テープ、色紙……それらを的確に漏れなく、そしてわずかだけの楽しさを滲ませながら選ぶ彼女。そんな光景に、俺はじっと、懐疑的な視線を向けずにはいられなかった。

「さきほど出すぎた真似をしたこと……まだ怒っておられますか?」

 出すぎた真似――それはもちろん、月見里が突然、喧嘩に割って入ったことだ。

「……怒ってはいないよ。けど、あれは危ない」

「では、宮東さんも危なかったはずです」

「俺は喧嘩に慣れてる。あんなのに囲まれたって、どうってことない」

 事実だ。誇れるものでもないが、それなりに喧嘩は強い。

「そうでしょうか。いくら喧嘩が強くとも、痛いものは痛いと思います」

「全部避けるさ」

「違います。相手を傷つけるというのは、同じように自分も傷つくことですから。不必要な諍いは避けましょう。皆で仲良く。それが一番です」

 あまりに平然とした口調で絵空事めいたことを言うものだから、少し戸惑う。

「そりゃ、それができたら、一番なんだろうけど……」

「では仲良くしましょう。簡単ですよ。せっかく同じ学校で、せっかく同じクラスなのです。私は宮東さんとも、仲良くしたいと思っています」

 彼女はどこまでもさっぱりと言った。俺と仲良くしたい、などと。

 それは久しく――いや、もしかしたら今まで一度も、言われたことのない言葉だった。

「そんなこと言う奴は、普通はいない」

「ここにはいます」

 月見里は俺を振り返って微笑む。そして続ける。

「それに、宮東さんがその気になれば、そう言う人はこれからもっと増えると思います」

「いや、そんなわけ……」

「ありますよ。宮東さんが、宮東さんの持つ力を、宮東さんと皆が喜ぶように使えば、きっと」

 穏やかな声音で、冗談でもなく、でも大仰でも演技でもなく、それは自然な言葉だった。

 まっすぐな言葉を、そのまままっすぐに伝えられる人間は、実はさほど多くない。少なくとも俺にとっては難しいことだった。

 けれど月見里にはそれができる。彼女の言葉は信じられる気がした。

「そういうわけで、今日はこうしてお誘いしました。次からは、学校での準備にも参加してみてください。力仕事とかでは、特にいっそう、頼りにされると思います」

 彼女はまるで、ここまでが今日のシナリオでしたと言わんばかりに胸の前で両手を合わせた。

 気持ちのいい言葉。まっすぐな言葉。正しい言葉。そいつらはどうも白々しいから、俺はあまり好きにはなれなかった。なのに月見里が言うと、不思議と白々しくはなかった。自分でも意外なくらい、すんなりと胸の中に受け入れられた。

「……わかったよ。まあ、どうせこの荷物は学校まで運ぶんだしな。そのついでだ」

「はい、助かります。やはり宮東さんは、皆が誤解しているような人ではないようです。出すぎた真似も、たまにはしてみるものですね」

 いや、女一人であんなことをするものではない。これきりにしてほしいものだ。

 だが、それでも。

 このときの俺は、確かに助けられたのだろう。あの喧嘩からだけではない。傷つけられること、傷つけること、その結果また傷つけられること。そんなささくれた日々の繰り返しから。

 だからだろう。このときの俺には、殴る相手ができてちょうどいいなんて気持ちは、もうなかった。むしゃくしゃしていて、何かを殴りたくて、でも殴っても全然晴れなかったであろう不快感が、嘘みたいに晴れていた。

 この、たった一人の女の子によって。

 彼女にもらった言葉の一つひとつが嬉しかったこと。俺はそれを、日を重ねるごとに何度も何度も思い出し、いつしか必然的に、彼女への好意を自覚した。

 俺は月見里が、好きなのだ。

 そしてそれは、今でも変わらずこの胸にある。

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