壹、 天兎 1

 自室の大きな窓から差し込む朝日で目を覚ます。

 身体を起こすと、熱の溜まった掛け布団の内側をぬるい空気が通り抜けた。しかしながら腰回りだけは未だに暖かい。なぜかと思って寝ぼけた目を向けると、瞬間、俺は飛び上がった。

「うぉ、おおおぉぉぉーー!」

 ベッドの中で俺の腰に巻きついていたのは、なんと一糸纏わぬ姿の女性。朝からこれほどの気つけはない。俺は思わずベッドから逃げるようにあとずさり、そのまま床に転げ落ちた。

 ガタ、ゴト、ズドン。

「っつ……」

 我ながら清々しいまでの典型的落下音だ。

 同時に、ベッドの上では女性がもぞもぞと動き始める。今の衝撃で目を覚ましたらしい。そのまま起きかけの裸体を隠すでもなく、こちらに身を乗り出してくる。

 当然、俺の目には女性のあられもない姿が映った。陶器のような肌。華奢な細い肢体。立てば膝下まであろうかという長い髪は白銀に輝いている。大きな丸い瞳はまるで淡い蒼穹のよう。

 そして艶めく形の良い桃色の唇が、俺に向かってゆっくりと開かれた。

「■■■■■■■■■」

「……っつぁ! いって! なんだこれ、頭が!」

 俺は思わず頭を押さえた。

「■■■■■■■■■■■■■■」

「ぐぁ……やめろやめてくれ!」

 俺はたまらず転げ回った。

 なんだこれは。女性が言葉を発するたび、何か強い衝撃が脳内を駆け抜けていく。頭が割れてしまいそうに痛くて、小さな雷が体内で暴れ回っているような感覚がする。

 なんだ、なんだ、なんなんだこれは。この女、いったい……。

「ああ、ごめんごめん。んー、えっと……これであってる?」

「おいっ! だからさっきからやめろって言って……ん?」

 しかし三度目の発言は俺にも聞き取ることができた。俺の理解しうる言語はこの世界でたった一つ日本語だけだから、おそらくこれは日本語なのだろう。頭痛もピタリと止んでいる。

「お前……会話ができるのか?」

「それはこっちの台詞よ。あんたこそ、統一言語は無理でも土着の言語は話せるようね。安心したわ」

「はあ……?」

 統一……何だって?

「いや、ね。助けてもらったものの会話ができないっていうんじゃあ、お礼をするにも骨が折れるじゃない?」

「助けた? いつ誰が誰を?」

「昨日、あんたが、あたしを」

「いやいや、昨日俺が助けたのはただの白兎……」

 理解が追いつかないまま、俺は部屋の隅に置いたクッションに目を向ける。昨日助けた白兎を安置したはずの場所だ。

 しかし今、そこには何の姿もない。代わりに俺を見下ろす女性が言う。

「その白兎が、あたしってわけ。ま、でも、ただの白兎じゃあ、なかったわけだけど」

 なんとも愉快そうに口の端を引き上げ八重歯を覗かせた彼女は、そこでピョコっと、頭から真っ白く長い耳を飛び出させた。それは確かに兎の耳――しかも、昨日俺が助けた白兎と同じく、左の耳が折れている。

 俺は開いたままの口を閉じることを忘れた。

 耳は、到底作り物には見えない。ふわふわの毛並みと一緒に、彼女の息遣いに合わせてわずかな上下運動を繰り返している。その細い手足、くびれた腰に滑らかな首筋、大きな胸と同じ、生きた彼女の身体の一部だ。

 俺はそこまで考え、ようやくはっと気づいて冷静になる。

「と、とと、とりあえずお前……服、着ろよ」

 彼女は裸だ。彼女が昨日の白兎であるという話を信じるにしても、少なくとも今は女の人――それもおそらく十代後半くらい――にしか見えない。衣服の着用は最優先事項と言える。

 すると彼女は「あぁ」と生返事で部屋の中を見回し、相も変わらず恥ずかしがるそぶりすら見せずに立ち上がった。そのままベッドを降りると、部屋の入口の方へと歩いていく。

 目的とするのは、どうやら自身の手荷物のようだ。俺が昨日、兎と一緒にここまで運んだ大きな風呂敷包み。そのこんもり丸々とした包みを漁り、衣類らしきものを豪快に引っ張り出す。

 俺はそれを確認したところで後ろを向き、完全に彼女を視界から排した。

「背中向けてるから、着終わったら教えてくれ」

「はいはい。悪いけど、ちょっとかかるわ」

「ああ。構わないから、ちゃんと着ろよ」

 それからしばらく、背後で衣擦れの音のする時間だけが続いた。静かな部屋の中、するすると響くそれらの音は、特に聞き耳を立てなくても聞こえてしまう。宣言通り時間を要するようだったので、俺は正面の壁を見つめたまま待ち、やがてなんとなしに口を開いた。

「あのさ、お前が本当に昨日の白兎なら、夜のうちに、人間の姿になったってことだよな?」

「そうねぇ」

「ベッドに潜り込んできたのは……寒かったからか?」

 人間の姿になると同時に、あの白くてふさふさの体毛はなくなったはずだ。今、時期は六月初旬。そろそろ暖かい夜も増えてきた季節ではあるが、それでも裸では冷えたのだろうか。

「さあねぇ」

「さあって、お前」

「何しろあたしも寝ぼけてたみたいだし、あんまりよく覚えてないのよ。寒かったのか、それとも、寂しかったのか」

「なんだよ、そりゃ」

「まあ、異郷の夜ってのは、誰であっても寂しいものじゃない? 特にあたしたち兎は、寂しいのが苦手でね」

 そう答える彼女の声は、わずかに笑みを含んでいた。俺は後ろを向いているからわからないけれども、もしかしたら今もまた、彼女は小さな八重歯を覗かせていたのかもしれない。

 兎は寂しいと死んでしまう……なんて話を、まあ、俺だって聞いたことくらいはある。でもあれは単なる迷信だったはずだし、何よりここにいる彼女は、全然そんなタチには見えない。

「あるいは、あんたが一人で寝てるのを見て、寂しそうって思ったのかも?」

「はあ? 俺が?」

「そうよ。うん、きっとそう! 朝起きたとき、誰かの温もりが傍にあるのは安心するでしょう? 今朝はどうだった?」

 声を聞いただけで、彼女のニヤついた顔が目に浮かぶようだった。

「それは……余計なお世話だよ。添い寝そのものは嬉しくても、肝心の相手が兎じゃあ」

 図星と思われては悔しいのでそう言い返しつつも、しかし、ベッドで裸を見たときにはやはりドキッとした。だって何しろ裸だし。それに、聞こえてくる衣擦れの音も妙に色っぽいから体温上昇に拍車をかけるが……いや、そういう思考は今はいらない。

 俺は一旦かぶりを振って身体の熱を冷まし、居住まいを正した。

「要するにお前は、兎人間なんだな?」

 真っ先に思い浮かべたのは、狼人間とか鳥人間とか、いわゆる半人半獣の……。

「違うわ」

 違うらしい。

「あたしは兎よ。少なくとも人じゃあない」

「……って、人間の姿で言われてもなぁ」

「人の姿の方が便利なの。それに、あたしたち兎の信じる神様は人間の形をしているから、それにあやかっている意味もある。それでもこれが仮の姿であることは疑いようがないわ。だってあたしたち兎はいくら人に擬態しても……ほら、耳と尻尾が元のままだから」

 ほらと言われても今は見れん。まだ着替えの最中だろうに。

 しかしまあ、神様云々はよくわからないが、確かに耳は兎のままだった。あの長い耳はとても目立つから、普段は寝せて髪の毛に隠しているのだろう。尻尾の方は、直接見てはいないけれど、たぶん服を着ればそれで隠れる。

「人間に化けられるのに、じゃあなんで、昨日は兎の姿だったんだ?」

「それはあれよ。昨日は新月だったでしょう? この地では、月のない日は人の姿を取ることができないの。それがあたしたち『天兎てんと』――月に住む兎のさがだから」

「つ、月に住む兎だって!?」

 俺は信じられない思いで聞き返した。咄嗟に振り向きそうになるのを抑える。月に住む兎なんて……そんなの、もはや御伽噺の領域だ。

「何よあんた。この神社に住んでるってのに、天兎のこと知らないの? 薄々変だとは思ってたけど……もしかしてあんた、宮東菫司みやとうきんじじゃないの?」

 そして、彼女の口から出た名前が、さらに俺の身を硬くする。

 宮東菫司。

 現在するその人物の名前が現れたことで、ここまで全て冗談や空想の域を出なかった彼女の話が、途端に現実味を帯びた。話半分で聞き流すわけにもいかなくなる。

「……菫司は、俺のじじいだ。俺はその孫の、宮東紫苑みやとうしおん

「ふぅん……なるほど、孫ね。んで、その孫はあたしたち天兎のことについて、菫司から何も伝えられてない、と」

「まあ……じじいから御伽話を聞いた記憶はないな」

 事実、聞いた試しがない。じじいは歳に似合わず軽口や冗談の絶えない性格だが、それでも月に住む兎の話なんて一度もしたことはなかった。

「あっはっは、御伽噺か。ま、そうよね。あんたたち人間にとっちゃ、兎なんて御伽噺に出てくるのが関の山かもしれないわね」

 彼女は愉快そうに笑う。そうして一通り声を上げると、その笑ったままの声音で言った。

「でもね。えてして御伽噺、あるいは説話や伝承の類って、根拠なしには生まれないものよ」

 その根拠こそが、他ならぬ自分なのだという顔で。

 あんまり堂々と、さも当然のことのように話されると、俺はうっかり信じてしまいそうな気分になった。彼女の言葉には、不思議とそういう力があった。

 いや、待て待て。こんな荒唐無稽な話に、そう易々と飲まれてはいけない。

 俺が自分に改めて言い聞かせる間、背後で彼女はさらに尋ねた。

「で、紫苑。菫司はどこ? ここにはいないの?」

「じじいは、二年前から入院してる。この家には、今は俺しか住んでない」

 淀みなく動き続けていた彼女の手が、そこでふと止まったのがわかった。

 俺はやや間をおき、それでも彼女が口を開かないので、溜息混じりにまた切り出す。

「とりあえず、じじいの客ってわけか」

 いっとう面妖な客ではあるが、それもじじい目当てなら然もありなんというところ。じじいは結構、方々に顔が広いのだ。入院した当初は毎日見舞いが絶えなかったし、それから一年間くらいは、話に聞いたと顔を見せにくる人が代わる代わるいた。今でもたまにそういうことはあるし、こいつもその一人……いや一匹? なのかもしれない。

「まあ、ここにはいないが、会いにいけば話くらいはできると思うぞ」

「……ほんと?」

「ああ。けど、会うなら来週末がいいと思う。今週は病院で検査があるみたいだし」

 大した症状でもないのに大袈裟だ、と本人は検査の度に文句を言っている。

「らい、しゅうまつ……って、いつのこと?」

「え? ああ……」

 そうか。月から来たって設定の奴に、曜日の感覚はわからないか。

「来週の土曜。今から七日後だ」

「七日後か……」

 彼女は俺の言葉を繰り返しながら、何かを考え込むように黙った。そしてしばらく無言でまた着替えを続け……って、いや、さすがに着替えが長すぎやしないか。いったいいつまで待たせるつもりなんだ。いい加減に俺が痺れを切らして文句を言おうとしたところで、しかし彼女は、まるでそれを先読みしたかのように告げた。

「悪いわね。待たせたわ」

 もうとっくに、壁との睨めっこは飽きている。その言葉の直後、俺は素早く身体を回転させ、ついでに目の前の彼女に曜日というものについて説明してやろうと口を開いた。

 けれども結局、俺の口が声を発することはなかった。振り向いてすぐに目にした彼女の姿に、俺は言葉を失ったのだ。

 そこにいた彼女はなんと、着物姿だった。どうやら彼女、俺の後ろでずっと着替え――というよりは着付けをしていたらしい。だから時間がかかっていたのだ。そしてその着付けの成果ともいうべき彼女の佇まいには、さきほどまでにはまったく感じられなかった気品があった。

 召し物は深い青紺に白の花柄という粋な染物で、それを上から締める帯は、彼女の瞳の色と同じ蒼。かつ、白銀の髪は背に流されたまま適度に結われ、そこにも洒落た花のかんざしがあしらわれていた。格好そのものはまるで本当に御伽噺から出てきたようでもあるが、それが異質な白い肌や髪と合わさることで、何やら不思議とエキゾチックな装いに仕上がっている。

 彼女は硬直したままの俺に向かって歩み寄り、ゆっくりと膝を折った。目線を同じ高さに合わせたかと思うと、その身をこちらに傾け、たおやかに右手を伸ばしてくる。

 彼女の冷たい手のひらが、俺の左の頬に触れた。

「ねぇ紫苑。昨夜、あたしを助けてくれたその温情、感謝してもしきれないわ。ところで、おおかた察しはついているかもしれないけれど……この通り、あたしには行く当てがない。そこで、どうかしら。温情ついでに、あたしをここにおいてくれたりしない?」

「温情ついでって、お前……結構強引だな」

「あたしとっては死活問題だからね」

 気が入っているのかいないのか、そんな出来損ないの芝居は如何ともし難い。けれどまあ、あんな風呂敷包みと一緒に庭先で弱っていた相手だ。身寄りのない境遇かもしれないことは予想がついていた。それが単なる兎か、人の姿をとる兎かで、話の規模は随分と違うが。

「それに、あんたもひとたび生き物を拾ったからには、最後まで面倒を見る責任があるのではなくて?」

 そう言われてしまえば、言えなくもない……かもしれない。

「もちろん、お礼はするつもりよ。例えば、ほら、こんなのとか」

 すると彼女は、俺に覆いかぶさるようにその身を乗り出し、なんと、左手で着物の胸元をはだけてみせた。途端、俺の視線は、多少なりともその奥に吸い寄せられずにはいられない。芝居は似非でも、やたらと容姿がいいものだから雰囲気が出る。

 これは……いけない。俺はベッドで見た裸がフラッシュバックするのをなんとか振り払った。

「こらこら、せっかく着た物をすぐさま脱いでどうするんだ。馬鹿やってないで、ほら、ちゃんと着て!」

「あ、ちょっと。せっかくあたしが厚意で――」

 こんな厚意があってたまるか。俺は両手でせっせと彼女の襟元を正してやりながら、たまらず「はぁ」と大きく零した。そりゃ溜息も出るというものだ。結局俺は、礼あれこれではなく、行く当てがないとわかっているじじいの客を、ほっぽり出すわけにはいかないのだから。

 しばらく黙したが、やがて俺は、彼女からゆっくりと距離を取って言った。

「わかったよ。どうせ無駄に広い家だ。部屋もいっぱいあるし、お前の用が済むくらいまでなら、好きに使ってくれていい」

 すると彼女は、その顔にパッと大きな花を咲かせる。

「ほんと!? そう言ってくれると嬉しいわ! じゃあ紫苑、今夜が楽しみね!」

「その礼はいらないけどな」

 しかし花は途端に散った。彼女はあからさまに眇めた目を俺へと向け。

「……何よ、あんた。つれないわね。据え膳食わぬはオスの恥よ」

「そうは言っても、俺だって相手くらい選ぶって」

 彼女は何やら、片足でタンッと床を蹴りながら拗ねたようにぼやく。

「別に減るもんでもないのに」

「減りもしないものを礼に寄越されてもなあ。とにかく、その礼はなし! はい決まり」

 俺はそれだけ答えると、再度溜息をつきながら立ち上がった。クローゼットを開け適当に服を取り、部屋から出ようと扉に手をかける。さすがに客の前では着替えられない。

 俺が部屋をあとにするとき、座ったまま首だけでこちらを向いた彼女は、白い八重歯を見せてまた笑った。今度は、さきほどとはまた違った挑戦的な笑みで。

「そっか。あんた……さてはあれね。お人好しね?」

 そんな彼女に、俺は意趣返しのつもりで同じように笑ってみせる。

「それを言うなら、兎好しの間違いだろ」

「あっはは! じゃあなおのこと、あたしにとっては好都合ね」

 存外、それでも彼女は満足げな様子であった。


 落ち着いた頃に時刻を見ると、午前十時だった。目を覚ましたのはもっとずっと早かったはずだが、気づいてみればこの時間だ。

 気を取り直して遅い朝食を摂ろうとしたところで、しかしほとんど空っぽの冷蔵庫に出くわしてしまう。当然、放っておいても誰かが買い足してくれるわけではないので、俺は渋々、近所の商店街へと足を向けた。

 覗く晴れ間が、アスファルトに薄い雲の影を浮き上がらせる。その影の部分だけを選んでゆっくりと進む。商店街までは歩いて十分くらい。もう少し足を伸ばして駅まで向かえば、すこぶる現代的な街並みの中で買い物ができるが、食料や日用品だけなら商店街で十分だ。おそらくこれは、俺のようにこの街の駅から東側に住む人間であれば、皆が持っている感覚だろう。

 一方、駅から西側の住人は、日常的に駅で買い物をする。古くから居を構える人間が多く、したがって街としての機能も一通り揃っている東側に対し、新しく山々を切り開いて作られた新興住宅地の西側には極端に住居だけが建ち並んでいる。豪華な戸建てや大きなマンションはたくさんあるが、商店、行政、医療などの機関は全て駅でご利用くださいといった造りなのだ。

 このため、同じ街ではあっても自然と東西の分かれが生じる。単なる街の構造上の分裂が、人の心理にまで及ぶというのはいささかくだらない話だが、実際、気にする人は意外に多い。

 俺は商店街に着いてから、まずは基本的な買い物を済ませる。そして今日は、最後に一軒だけ、馴染みのない店を探した。ペットショップだ。

 目的はもちろん、あいつの食料を買うためである。

 そう、あいつ――いや、出がけにちゃんと呼び名を決めたんだった。

 今朝、彼女を客として――あるいは居候としてかもしれないけれど――家におくことになってから、二、三、会話をしただけで気づいた。呼び名が無いのは非常に不便だと。

 そこで俺が名前を尋ねたところ、奴はなんと

「名前? ■■よ」

 と答えたのだ。

 ちなみに、俺には聞き取れない謎の言語の瞬間には、またご丁寧に頭痛が走った。

 彼女曰く、これは月に住む天兎たちの間で用いられている統一言語というものらしい。一つひとつの発音に含まれている情報量が極めて多いために、人間の脳がそれを処理しきれず痛みを引き起こすのかもしれない、とかなんとか説明された。

 とにもかくにも、聞き取れもしなければ呼べもしない名前に意味はない。痛みの抜けた頭を押さえて、俺は彼女に言ったのだ。

「ひとまず、お前の呼び名は俺が決める」

「ふぅん。いいけど、なんて呼ぶの?」

「そうだな……」

 俺は顎に手を添え、思いついたことをそのまま口にした。

「シロ」

 瞬間、彼女の澄ました顔からさーっと表情が消えていった。哀れむような、呆れたような……まるで俺の中の何かを疑うようなじとっとした半眼。それは非常に、気の失せた顔だった。

 同時に後ろ足を一回、タンッと床に打ち付ける。

 ちょくちょく彼女が見せるこの、後ろ足で床を鳴らす行為。こっそりスマホで調べたところ、スタンピングという兎の習性の一つだそうだ。仲間に危険を知らせたり、不快感を表したりする意図があるらしいが、この場合はもちろん後者。要するに名前が気に食わなかったとみえる。

「ま、まあ……白兎だからシロじゃあ、あんまりに安直だよな」

 そうは言うものの、名前などだいたいが外見や雰囲気から決めるものではないのだろうか。とりあえずもう少しだけ考えようと、今一度まじまじ彼女を見つめ直す。すると、どこまでも白い肌や髪以外に、青く鮮やかな着物と、もう一箇所、俺の注意を引く部位があった。

 眼だ。今はちょっとだけ不機嫌な様子で俺を見つめているその、空のような――蒼い瞳。

「あ、アオ……とか」

 小さく呟いただけのつもりだったが、自らの命名をじっと待っていた彼女には、それがしっかりと聞こえたらしい。気の利いた名前でない自覚はある。相変わらず晴れない彼女の表情からもそれは読みとれる。しかしやがて、彼女は諦めたように「はぁ」と漏らし、緊張を緩めた。

「……ま、そんでいいわ。今のあたしは、あんたに拾われた身の上だしね。飼い主の名付けに文句はないわ」

「はは……その妥協に感謝するよ、アオ」

「はいはい」

 見送りに表に出てきたはずの彼女は、俺が出発する際に「いってらっしゃい」ではなく「あんたの名付けの才には、そこはかとない絶望を感じたけどね」と言った。

 そんなわけで、ここでの彼女の名前は『アオ』と相なった。

 俺は向こう数日分の食料と、アオのためのラビットフードを購入して帰路に着いた。


 残念なことに、アオはラビットフードを食べなかった。粒状のそれらを一つだけ指で摘み上げて口へと運んだが、咀嚼した途端に複雑な表情を呈し、苦労して飲み込んだのちにはボソッと「……いらない」と言った。

 ならばと思って、俺が自分で用意した昼食の中から野菜炒めを一部取り分けて出してみると

「うん。初めて食べたけど、味はいいわね」

 と意外にも喜んで食べ始めた。どうやら味覚は人間寄りらしい。

 それからアオはゆっくりと時間をかけて皿の上の半分ほどを食し、やがて満足げに帯の上から腹を押さえた。座敷の机を挟んだ俺の正面で、身体を反って足を崩す。

 俺は手早く自分の分を平らげてから箸を置き、皿を重ねて一息ついた。

「で、味はいいが、何が不満なんだ?」

 アオは「ん?」とこちらへ視線を向ける。

「ああ……ごめんね。そういう意味じゃ、なかったんだけど」

「別に気にしたわけじゃないけど。そうじゃなくて、お前はあくまで兎なんだよな? じゃあ、人間の飯食って、身体に何かあったら困るだろう。食えないものとかあるのか?」

 よく、犬や猫にネギ類やチョコレートなんかを与えてはいけないという話は聞く。たぶん兎にだってそういうものはあるだろう。この野菜炒めについては、あれば自分で避けただろうが。

 俺がそうやって真面目に考えていたにもかかわらず、反った身体を起こしたアオは、意味深に口の端を上げて八重歯を覗かせた。

「ふぅん? 何よあんた、随分と優しいじゃない。自分で名前なんか付けたもんだから、早速あたしに情が湧いちゃった?」

「抜かせ」

 心配して損した。戯言は斬って捨てる。

 俺が無言で先を促すと、アオは残った野菜炒めを見ながら話し始めた。

「いや、ね。美味しいと思ったのは本当よ。でも、これには月の光がほとんど宿ってないの」

「月の光?」

「そうよ。あんたたち人間にとっての空気や水、ひいてはそこから得る養分のように、生きるために欠かせない生命力のほとんどを、あたしたち兎は月から得てる。より正確には、月の地表にある特殊な物質が太陽光に溶けて、その光をあたしたちが浴びることで生命力に変換できるんだけど、その物質ってのはこの地よりも月の方に極めて多くて……」

「お、おい。待て待て、待ってくれ。それはまた、何かの冗談か?」

 唐突に滔々と語り始めたアオの口上。俺は面食らいながらも、ひとまずそれに制止をかける。いきなりではとても頭がついていかない。

 対して、気分よく口を動かしていたらしいアオは軽く俺を睨んだ。

「ちょっと紫苑。戯言であろうとなかろうと、まず他者の話は最後まで聞くものよ。それと、今のあたしの話の中に、笑えるところが一つでもあったかしら?」

「いや……なかったけど」

「なら、全部真面目な話に決まってるでしょ!」

「でもお前」

「うるさい。とにかくあたしに喋らせて!」

 ……俺の話も聞いてくれ。

「要するにね。あたしたち兎は、月の光を浴びることで生きてるの。そして、あたしたちはその月の光から得られる生命力のことを『ユエ』って呼んでる」

「……ユエ?」

「そ。あんたたちの言語でもっとも近い発音をすればね。これがあるから、あたしたちは月で生きられるし、もっと言えば、その恩恵を一番近くで享受できる月に、好んで住んでるの」

 なるほど。月に住んでいれば月の光を――地表に反射した太陽光を、一番近くで効率的に浴びることができる。例えるならそれは、アスファルトの照り返しのように。

「万物には、大なり小なりこのユエが宿っている。そこらの草木にも石や岩にも、こうした食物にも……もちろん、あんたたち人間にもね」

「俺たちにも?」

「そうよ」

 アオはそこで、残したはずの野菜炒めを再度、少量箸で摘んで口へと運んだ。よく見れば綺麗に人参だけを避けるようにして……って、こいつ兎のくせに人参嫌いなのか。

「まあそうは言っても、この地上は、月からは随分遠い。だから基本的に、人間の持つユエは極めて小さい。到底意識なんてできないくらいにね。一方であたしたち兎は、そのユエを重要な生命の根源として大きく発達させたってわけ」

 味はいい、と評された俺の野菜炒め。アオは相変わらずそれをちょびちょびと食べていくが、なくなる気配はないので俺も横からつつくことにする。適当に摘むと、アオの避けた人参ばかりが釣れてムッとなった。

「全てのものにユエは宿っている……だからこの野菜炒めにも、いや、元となった食材にもユエはある。けど、その量がものすごく少なかった、ってことか?」

「その通りね」

 つまり、アオのこの野菜炒めへの感想をより正確にするなら「味はいい。が、ユエの摂取はできない」か。

 俺とアオは、まるでそういう機械になったかのように、ちょびちょびちょびちょび野菜炒めを食している。空腹だからではなく、たぶん手慰み、口慰みとして。

 やがてアオは、人参率の上がった皿に嫌気が差したのか、勢いよく立ち上がって言った。

「賢い紫苑。もうあたしの言いたいことがわかったでしょう? あたしはね、月の光をいっぱいに浴びたものが食べたい!」


「んなこと急に言われても困るって!」

 大仰な仁王立ちで告げられたアオの要請。対する俺の感想は、これだ。

 当たり前だ。月の光をたくさん浴びた食べ物なんて、どこに行ったら手に入るのか検討もつかない。どの店も、そんな文句で物を売っていたりはしないのだ。

 しかし、アオにそう伝えようと俺が口を開きかけたとき、ふと脳裏に浮かぶものがあった。

 それは家の台所の隅に置かれた、とある箱たち。

 この家に一人で住むようになって丸二年。それまでじじいが管理していたものについて、俺は少しずつ把握してきているつもりだが、未だによくわからないものは多い。

 これもその一つ。ちょうど今くらいの時期になると、どこからともなく送られてくる、蓋付きの、妙に精巧で内布まで貼られた立派な桐箱。

 受け取ったまま何段も積み重なっているその中身は、なんと酒だ。大瓶の前面にバッチリ貼られたラベルには、見た目に劣らぬ大層なブランド名「みつき」が楷書で記されている。嘘か真か、よくよく月光に当てられた米を原料とする純米吟醸。

 俺は飲んだことがないが、じじい曰く絶品らしい。入院するまでは好んで飲んでいたし、去年に至っては、わざわざ俺に病院まで運ばせておいて看護師に止められていた。

 試しにそいつをお猪口と一緒に持っていくと、アオは一口で気に入った。外見からして飲酒が合法か違法か微妙なところだが、考えてみれば兎に人間の法は関係ない。

 アオはそれから瓶の酒をいいだけ――とはいえせいぜい四、五杯ほどだったが――飲んでへべれけ上機嫌だった。ユエとやらを補給する以前に、アルコールに脳をやられてやいないだろうかと疑う俺の横で、アオはお猪口を弄びながら言う。

「何よ紫苑。食事中のメスを無闇に見つめるものじゃないわよ。それともあんたも飲みたいの?」

 こちらの視線に気づいている様子がなかったので少し驚く。上気した顔に反して、案外思考はまともなようだ。口調も平時とさほど変わらない。

「安心しろ。この国では、未成年じゃ酒は飲めないよ」

「みせー、ねん? よくわかんないけど……こんな美味しい水が飲めないなんて、可哀想ね」

「水ってお前……酒を知らないのか?」

「そうねぇ。こういう、身体が熱くなるお水? みたいなのは、初めて飲んだわ」

 どうやら月には酒がないらしい。また一つどうでもいい知識を得る。

 いや、そんなことより。

「んで、肝心のユエとやらは補給できたのか?」

「ん? まあ、ぼちぼちかな。ひとまず経口で摂取するには十分な量だったわ」

「そうかそうか。そりゃあ、よかったよ」

 俺の淡白な返しにアオは「さてはあんた、信じてないわね?」と訝しげな顔を向けてくる。

 もちろんのこと、半信半疑だ。偶然とはいえ彼女の所望のものを探し当てたのだから、信じる信じないまでは俺の自由である。

 それから俺は、アオに家の中を軽く案内し、生活の流れを一通り説明した。一応相手は客だから、家事や雑事を手伝わせるわけにはいかなくても、せめて自分のことは自分でやってもらいたい。代表的なのは着替えとか風呂とかだ。

 ついでに話の過程でこいつの生活能力を探ってみたが、率直に言って非常に際どい。まず読み書きができない。しかし幸い、会話はほとんど問題ない。シャワー、ドライヤー、冷蔵庫やテレビその他の現代的なあれこれには、はしゃぐ威嚇するの大混乱だが、それでも覚えは早く、立ち居振る舞いや社会的な常識はそれなりにわきまえているようだった。

 最後に、部屋を一つアオにあてがった。しかし結局、これは無駄に終わった。

「寝ている間は、月の光を浴びたいの。南向きで窓の大きな部屋がいいわ」

 というのが彼女の要望だったのだが、いくつか部屋を吟味した末、条件に合うのが俺の部屋しかなかったのだ。

「仕方ない。諦めてくれ」

 と言ったら、片足をタンッと鳴らし

「あんたはあたしを殺す気か!」

 と返されて俺は閉口した。天兎にとってユエは生命線。食事による摂取には限界があるらしく、月の光を浴びるのだけはどうしても欠かせないらしい。

 そしてどうなったかといえば、彼女は俺の部屋に頑として居座った。主に窓際を陣取り、夜はそこに布団を引くか、兎の姿になって座布団で寝ると言い張った。もう勝手にしてくれ、と内心で思う。

 そんなこんなで土曜日は暮れ、日曜は、前々からじじいに言われていた境内の掃除を一日かけて行った。

 アオは時たま戯れに喋りにきたが、大半の時間は部屋の窓際や境内の本殿、社務所の屋根の上などで、日光浴ならぬ月光浴をしていた。新月の前後は月も昼間に出ているからだろう、アオはできるだけその光の届く場所にいて、まさに日向ぼっこそのもののようだった。

 口は随分と達者だったとはいえ、保護されてからまだ数日。体調が万全ではないのは明らかだ。眠っていると気が緩むのか、たびたび頭からはピョコっと、折れた白い耳が現れては風に揺れる。

 そいつを視界の端に捉えながら、俺は改めて、妙な奴を拾ってしまったと思った。

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