月に兎がおりまして

りずべす

序、 新月の夜

 月のない晴れた夜だった。

 梅雨入り前特有のわずかに湿気を帯びた空気の中、俺がようやく徒歩で自宅に帰り着いた頃には、時刻は午後十時を回っていた。

 自宅、とはいえ、その敷地の端から玄関先までは、まだ少しだけ遠い。

 公道に面した鳥居をくぐり、慣れてもなお辟易する長い石段を上り、参道を逸れて社務所と拝殿と本殿の脇を抜けた先に、俺の住む家は建っている。祭事も神事もないので灯籠に光はないが、庭先同然の境内を歩くのに困るほど暗くはない。敷き詰められた砂利が次第に消えて土となり、辺りの草木の剪定がちょっとおざなりになってくると、真に帰宅目前だ。

 今日は疲れた。ようやく訪れた金曜日で、高校の帰りには直接その足で祖父――じじいの入院している病院へ行き、話しながら雑事や食事を済ませて今に至る。

 明日は休みだし、帰ったらもうこのまま寝てしまおう。そんなことを考えながらゆっくり歩みを進めていると、突然、俺の足に何かがぶつかった。

 それも一度ではない。二、三の軽い衝撃があったかと思えば、すぐに傍の木々の隙間に飛び込んでいく音が聞こえる。

 どうやら小動物的なのが数匹駆け抜けていったようだ。もっとも一瞬の出来事だったので、黒色だったこと以外に詳しくは分からなかった。

 俺はそれらが飛び出してきた方に目を向ける。そこにはただ丈の低い茂みがあるばかりだが、よく目を凝らすと、まだ後ろに小さな気配が感じ取れた。

 そっと茂みをかき分ける。

 すると、そこにいたのは、兎だった。

 周囲の微弱な光でさえよくわかるほどに白い、煌々と真っ白な、一匹の白兎だ。

 俺は驚いた。

 こんなところに白兎。それも、やや泥にまみれてはいるが、それでもなお美しいと言わざるをえない発色と毛並み。どうやら左の耳が折れているようだが、そのカクンと曲がった耳さえもが、妙な愛嬌を感じさせる。

 加えて、今は手傷を負って衰弱しながらも、背後にある大きな荷物を守っているように見えた。青い布地に覆われた風呂敷包みのようなそれは、一見して白兎自身の三倍ほどの体積がある。

 まさか運んできたのだろうか。兎って荷物とか運べるのか? それもこんなに大きいのを。

 いずれにせよ、なかなかに見慣れぬ異様な光景だ。

 これは……捨て猫ならぬ捨て兎か。あるいは家出娘ならぬ家出兎。

 様々な憶測が頭の中にいくつも浮かんだ。けれども最終的に残った一つの判断は、とりあえず保護を、というものだった。

 自宅は目前。古くても広さには自信がある年季の入った家だ。弱っているようだから、一晩屋根の下におくだけでも助けにはなるだろう。

 方針を決めてから俺が改めてその兎を見つめると、兎は鋭く光る蒼い両眼でもって俺を捉えていた。おそらくさきほど駆け抜けていった小動物たちと一戦交えたあとなのだろう。だとすれば気が立っていても仕方がない。

 一人と一匹、向かい合っての硬直の末、しかし兎は、徐々に目を細めていく。瞼が落ちかかっているところを見るに、張り詰めた精神に限界がきているようだ。

 俺はそこから、もう少しだけ動きを見せないように注意し、兎の意識が眠りに落ちたと思われるところでそっと胸に抱え上げた。

 ついでに後ろの荷物も余った手で拾う――しっかり体積相応に重い。いや、人間であれば苦にならなくても、兎がこれを運ぶのは不可能ではないだろうか。

 なんて疑問もあるにはあったが、ひとまず面倒は明日に回すことにする。

 家に入って二階の自室に向かい、適当なクッションに兎を安置し、荷物は広げた新聞紙の上へ。

 そうして俺は風呂と着替えを手早く済ませると、すぐにベッドで眠りについた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る