雪待ちの人

柚緒駆

雪待ちの人

 私は理解力が低い。平たく言えば頭が悪い。だからずっと賢さに憧れていた。賢い人になりたかった。でも、いまはもうそんな風には思わない。




 その人は、清流の脇にそそり立つ大きな岩の上に腰をかけていた。天狗みたい、私の頭に出て来る言葉はその程度だった。


「紅葉を見に来たのかい、お嬢ちゃん」


 そう、確かに私は紅葉を見に来た。高校時代登山部だった同級生に、ここの紅葉が絶景だと聞いた事があったからだ。それほどの景色なら、最後に一度くらい見ておいてもいいだろうと。


「時期が悪かったねえ」


 標高までは知らないものの、ふもとの駅から最寄りの停留所までバスで一時間、そこからさらに一時間以上歩く、山間の狭い渓谷。冬になれば深い雪の下に埋まるため、道路は封鎖され、この一帯には入れなくなる。だから雪景色は無理でも紅葉ならと来てみたのだが、どうやら彼の言う通りらしい。木々は多くが葉を落とし、もう次の季節に備えていた。山には早くも冬が来ているのだ。


 ひょうひょうとした中年男の天狗さんは、ロングのTシャツに青いダウンベスト姿の軽装で、三脚に立てた一眼レフの隣に胡座をかいている。この時期に、寒くはないのだろうか。


「何の写真を撮りに来たんですか」


 別に興味があった訳ではない。ただ傍目から見ても楽しげな彼が腹立たしかったのだ。何か嫌味の一つでも言いたくなるほどに。もっともどんな嫌味を言えばいいのか、このできの悪い頭には思いつかなかったけど。


 天狗さんは笑顔で空を見上げた。


「雪をね、待ってるんだ」


「雪を……?」


 空は晴れ上がり、素人目に見ても雪の降る気配はない。しかし天狗さんは、今にも雪が降り出すかのように、それを待ちきれないといった顔で空を見上げている。


「うちの娘は自然が好きでね、ここへは春と夏と秋は来たことがあるんだよ。紅葉だけじゃないんだ。春の新緑、夏空の青も本当に美しくてね、写真も山ほど撮ってるんだけど、冬の写真だけがない。だから一枚だけでも欲しいなって思ってさ」


 実家の父を思い出す。こんなに飄々としていない、どちらかと言えば寡黙で感情表現には乏しいが、それでも家計の苦しい中、男手一つで大学にまで送り出してくれた父を。私に向かって頭が悪いなどと一度たりとも言わなかった父を。


 そんな父を裏切ってしまった。入試にはなんとか受かったものの、頭の悪い私は学業にも学生生活にもついて行けず、留年し、中退した。せめて働いて安心させたかったのだが、いまどき大学中退で正社員の就職先などあるはずもない。


 数え切れない枚数の履歴書を書き、数え切れない程の面接を繰り返した後、何とか派遣の営業職を見つけたが、折からの不況でそこも雇い止めに遭ってしまった。手元に残ったのは二度と着たくないリクルートスーツと、渡す相手もない名刺だけ。


 もう疲れた。父に合わせる顔がない。こんなに頭の悪い私なんか、生きていても意味がない。


 そうか、諦めるしかないんだ。私はようやく理解した。


 すべてを諦めたら、不思議と少しだけ体が軽くなった。そのとき感じた、これは運命なんだと。こうなる事は最初から決まっていたんだと。なんだ、だったら仕方ない。この悪い頭で運命なんて変えられるはずなかったのだから。私はすべて投げ出して、人生を終わらせる旅に出た。その途中でこの渓谷にやって来たのだ。


「楽しそうですね」


 みんながあなたのように楽しげに生きられる訳ではない。そう付け加えたかったが、口からは出て来なかった。でも態度には出ていたはずだ。なのに天狗さんは飄々とした雰囲気を崩すことなく、ただ空を見上げていた。


「楽しくはないさ。ただ嬉しいだけでね」


「嬉しい?」


 楽しいと嬉しいは違うのだろうか。生まれてこの方、いままで一度たりとも考えた事はなかった。だから私は頭が悪いのかも知れない。天狗さんは笑顔をこちらに向けた。


「楽しさなんてなくてもいいんだ。人間は楽しくなんてなくても、嬉しければ足は前に進むものだから。お嬢ちゃんは何が嬉しい?」


「私は……嬉しい事なんて何もないです」


 愚痴るつもりなどなかった。ただあまりに自然な問いかけに、つい答えてしまったのだ。


「そうか、ないか。でも昔はあったんだよね」


「昔」


 昔なら。そう、ずっと昔の小さな子供の頃なら、あったかも知れない。父の笑顔が。たまにしか見られない、父の笑顔が嬉しかった記憶がある。


「あったんなら、そっちの方に歩いて行ってごらん。きっとまた何か嬉しい事が見つかるさ」


 そう言うと岩からひょいと飛び降りた。目の前に立たれてビックリした。私より背が低い。もっと大きな人だとばかり思っていたのに。天狗さんは笑顔で胸のポケットから白い紙片を取り出し差し出した。


「これをあげよう」


 それは名刺。中央に縦書きで名前が書かれ、右上には肩書きがあった。カメラマンと。


「山にはいろんなモノがいるからね。お守りくらいにはなるんじゃないかな」


 受け取った私はどうしたものかと困ったのだが、不意に思い出した。財布のカードポケットの中に何枚か名刺を入れていた事を。慌てて財布から名刺を取り出すと、少し端の曲がったそれをマナー講習で教わった要領で天狗さんに差し出した。


 天狗さんは少し驚いた顔を見せたものの、「ありがとう」と言って受け取ると、私の名前を見て白い歯を見せた。


「素敵な名前じゃないか」


 私はつられて笑ってしまった。きっとぎこちない笑顔だったに違いない。頬の辺りに違和感を感じたから。考えてみれば、長い間笑う事など忘れていた。


 天狗さんとの思い出はここまで。私は無言で頭を下げると背中を向け、彼の名刺を手に歩き出した。麓の駅にたどり着くまで、やって来たときにはまるで感じなかった心細さを、この名刺が支えてくれた。


 その後電車を乗り継ぎアパートに戻ると、荷物の不在票がポストにあった。翌日に再配達されたのは、父からの荷物。開けてみれば米と果物、インスタントコーヒーと地元の菓子類の上に、白い封筒に入った手紙。便箋は一枚、短い一言だけ。


――つらいなら帰って来なさい。やり直せばいい


 私はこのとき生まれて初めて、嬉しさの意味を理解したのかも知れない。




 やがて冬が来て、春になった。私は実家に戻り、改めて地元で職を探し始めた。渓谷で出会った天狗さんの事も忘れがちになっていた、桜も散り始めた頃のある日、見知らぬ訪問者があった。


 その優しげな初老の男性は、短く刈り上げた頭を下げながら警察手帳を見せる。話を聞けば、あの渓谷のある村で駐在を務めているらしい。


 駐在さんが上着のポケットから取り出した透明なビニール袋の中に入っている物を見て、私は声を失った。


「これはあなたの名刺で間違いないですね」


 どんなに頭が悪くても、その意味くらいは理解できる。


「……あの人に何かあったんですか」


「ええ、亡くなりました」


「それは、その、事故か何かで」


「いえ、凍死です。ただ、自殺の可能性が高いと思われます」


 駐在さんの説明によるとこうだ。春になり渓谷の雪が溶けたとき、村の青年団が異常がないか見回ってみると、川の脇にある大岩の上に大の字で倒れている中年男性を見つけた。持ち物はデジタルカメラと三脚、あとは自分の物と思われる名刺数枚と、私の渡した名刺だけだったという。食べ物も財布も持っていなかった。


「おそらくは冬、雪の降り始めたときにあの岩に登り、そのまま雪に埋もれて死んだのでしょうな」


「どうして」


 他に言葉が思いつかない。頭の中が真っ白になっている私にうなずくと、駐在さんは話を続けた。


「遺書がないので断定はできんのですが、カメラのカードに動画が残っておりましてね、降り始めた雪を撮影しているのです。逃げる様子はなかった。ただずっと雪を写して、途中で一度だけ、音声が記録されております。娘の名前をつぶやいたようです。後は容量が尽きるまで延々とそのままでした」


 この話は娘さんも知っているのだろうか。当然知っているのだろう。私は胸の中がかき乱された。天狗さんへの怒りにも似た感情と、娘さんへの同情とで。何故、どうして自殺なんか。自分の事は棚に上げて。


「それでですな」


 駐在さんは言いにくそうに言葉を続けた。


「このカメラについて、ちょっと困っておりましてね。事件の証拠でありますから、当面は警察が保管しますが、普通ならいずれ所有者に返却せねばなりません。本人が亡くなっている場合には遺族にです。しかも高価な物でありますから、処分するにも気を遣いまして、その」


 この人は何を言っているのだろう。理解力に欠ける私には意味がわからなかった。


「どういう事ですか?」


「ええ、ですからそのカメラの引受先が必要なのですが、どなたかご存じありませんか」


「どなたかって、それは娘さんが受け取るべき物ですよね」


 すると駐在さんは目を丸くして頭を掻いた。


「ああ、これはいかん。話が前後しましたな。娘はおらんのです」


「いない? でも」


「娘は二年前に交通事故で亡くなっておるのです。妻とも死別しておりますし、親兄弟親類縁者もおりません。天涯孤独なのです。だから困っとるのですが……あ、あの聞いておられますか、もしもし」


 駐在さんの声を遠くに聞きながら、私はようやく理解した。


――楽しくはないさ。ただ嬉しいだけでね


 嬉しかったんだ。あの人はあそこで死を迎えるのが本当に嬉しかったんだ。この世界には、彼をそう思わせるものがもう何も残っていなかったから。


 でも楽しい訳じゃなかった。だからあちら側に足を踏み入れそうになっていた私をこちらに送り返した。私の父に、自分と同じ思いをさせたくなかったのかも知れない。


 私は理解力が低い。頭が悪いから、もっと賢くなりたかった。でも正直、こんな気持ちまで理解したくはなかったな。

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