秘密主義の七瀬さん

白川ちさと

秘密主義の七瀬さん

 七瀬さんは季節外れの転校生だった。


 10月の中旬。校庭の銀杏の木が黄色く染まっていた。中学二年生の僕らは、黒板の前に立つ彼女に興味津々に見つめる。黒板には綺麗な字で七瀬咲子と書かれていた。


「それでは七瀬さん、自己紹介をしてください」


「七瀬咲子で――。よろしくお願――ます」


 マスクをした声はすこしこもっていて、後ろの方の僕の席ではところどころ聞こえなかった。僕らもみんなマスクをしているけれど、それにしても聞き取りづらかった。


「それじゃ、七瀬さんはあの席ね」


 先生に言われて、七瀬さんは僕の隣の席にやってくる。昨日までは無かった机と椅子だ。


 七瀬さんが座ると、僕はさっそく声をかけた。


「よろしく、七瀬さん。僕はこのクラスの委員長の川西。分からないことがあったらなんでも聞いてね」


 僕が委員長だから、先生はここを転校生の七瀬さんの席にしたのだと思う。


「……よろしく」


 七瀬さんの声はこの距離でも聞こえづらかった。


 一時間目の数学の授業が終わると、さっそく七瀬さんの周りに人が集まった。


「七瀬さん、どこから来たの?」


「えっと、遠くの方」


「前は部活してた?」


「うん」


「なんの部活?」


「えっと、……秘密」


「七瀬さんは好きな歌手はだれ?」


「秘密……」


 七瀬さんの答えのほとんどは曖昧なもの、というか秘密ばかりだった。それから何を聞かれてもかなりの確率で秘密で返すものだから、一週間経った頃には秘密主義の七瀬さんとして知られていった。


 ◇◇◇

 

 ほとんどのことを秘密にしている七瀬さん。


 まだ、一緒のクラスになって日が浅いが、勉強が出来ないわけでもなく、運動が出来ないわけでもなく、かと言って何かにとても秀でているとは言えない。彼女は部活にも入らず、友達も作ろうとしなかった。大人しい性格らしく、いつも休み時間は本を読んでいる。


 七瀬さんは決して素顔も見せなかった。みんなが知っているのは、少しつり目の目元とストレートの長い髪の毛だけ。体育の授業だろうと、音楽の授業だろうとマスクはつけたままだった。お弁当を食べるときも、いつの間にか教室にいない。だから、誰も彼女の素顔を知らなかった。


「もしかして、口裂け女じゃない」


 あまりにも誰も顔を知らないので、そんなことまで言われていた。冷たい印象ばかりが七瀬さんについていく。


 クラス委員長の僕はさすがにこれはいけないと、七瀬さんをみんなに少しは自分のことを教えて欲しいと話すことにした。


 僕はちょうどこの日、日直だった七瀬さんがひとりになるまで教室で待つ。七瀬さんは自分の席で日誌をつけていた。カリカリとシャーペンの音が聞こえてくる。


「七瀬さん。ちょっといい?」


 僕が七瀬さんに声をかけると、垂れていた髪を耳にかけて僕の方に顔を上げた。


「なに?」


 声色には少しだけ喜色が混じっていた。僕はおやと思う。なぜかは分からないが、これなら話を聞いてもらえるのでは。


「えーと、七瀬さん。転校してきたばかりなのに、日直大変だね」


 まずは直接言うのではなく、軽い雑談から始めようと話を振った。秘密を探るような質問は厳禁だ。


「大変じゃないよ。前にいた学校と同じような感じだから」


「へぇ。前いた学校って……」


 そこまで言って僕は口を押える。話の流れでつい質問しそうになったのだ。 


「? 委員長、わたしは大丈夫だから帰っていいよ」


「いや、七瀬さんと話をしたくて残っていたんだ」


「そう」


 七瀬さんはまた日誌に目線を落した。


 秘密主義の七瀬さんと話をする。こちらからは質問が出来ない。なら、自分のことを話すのがいいだろう。そのうちに少しでも打ち解けられたら、自分のことも話してくれるかもしれない。


「えっと、改めて自己紹介するね。僕は川西晴。みんなには委員長とか、晴とか呼ばれているよ」


「うん。知ってる」


 七瀬さんは日誌から顔を上げずに言う。


「妹と弟がいて、小学五年生と小学三年生。近くの小学校に通っているよ」


「確かに委員長、長男って感じする」


「そう? ふたりとも最近生意気になってきていて。中々言うこと聞かないんだよね。弟は特に暴れん坊で、すぐに僕にプロレスごっこを仕掛けてくるんだ。昨日も僕の背中に馬乗りになって。なんか難しい名前の技を仕掛けてこようとするんだけど、結局失敗して、ふたりで床に転がっちゃってさ。それ見た母さんがすごく怒って」


「ふふっ」


 七瀬さんが微かに笑った。しかし、笑った顔はマスクで見えない。


「七瀬さん、たまにはマスク取った方がいいよ。まだ、一度もみんな七瀬さんの素顔を見ていないからさ。みんな、どんな顔だろうって気になっているよ」


 僕は思ったことをそのまま言った。


「……気が向いたらね。日誌終わったから職員室に出してくる。委員長、じゃあ、また明日ね」


 沈んだ声でそう言って、七瀬さんは立ち上がった。そのまま、スタスタと教室を出て行く。


 やってしまった。もっと雑談をしてから言うつもりが、つい口をついて出てしまった。僕自身が七瀬さんの笑った顔を見てみたいと思ったせいかもしれない。


 また明日と言われたからには、教室に残っていても気まずい思いをするだけだろう。僕は荷物を持って、教室から出た。


 うーん。だけど、どうしたら七瀬さんは心を開いてくれるのだろうか。笑ってくれて、少しは打ち解けたと思ったのに。


 僕はうんうん唸りながら下駄箱にやってくる。


「よお、委員長! いま、帰りか?」


「原くん」


 靴箱の横を通りかかったのは同じクラスの原くんだ。サッカー部の部活中だったのか、ゼッケンを着て片手にサッカーボールを持っている。


「ねぇ、原くん。七瀬さんがクラスで打ち解けてもらうにはどうすればいいと思う?」


 僕は原くんに相談してみた。


「七瀬? うーん、女子がもうあんまり話そうとしないから無理じゃないか? 七瀬から自分のことを話せば別なんだろうけど」


「やっぱり、そうかあ」


「なんだ、委員長。七瀬のことが気になるのか。確かにちょっと美人っぽいけど、でも性格冷たそうじゃん」


「べ、別に気になるとかじゃないよ。僕は委員長として、気にしているだけで、それに七瀬さんはそんなに冷たい性格じゃないと思うし」


 僕は自分と七瀬さんの弁解に必死になる。


「委員長としてかー。さすが毎年、委員長。ま、なるようになるって。じゃあな!」


 原くんは手を上げて校庭の方へと走って行った。


 僕は歩いて家に帰ってきた。その頃には、ぽつぽつと空から雨粒が降ってきていた。


「お帰り、晴」「お帰り、お兄ちゃん」


 居間に顔を出すと、テレビを見ていた母さんと妹の愛衣が振り返った。


「ただいま、あれ? 修は?」


 いつもならキックのひとつもお見舞いしてくる弟の修の姿が見えない。


「ああ。新しく出来たお友達の家に遊びに行ったわ。でも、そろそろ夕ご飯の時間ね」


 時計を見ると、六時を過ぎている。


「外、雨が降ってきているよ」


「あら、本当。晴、暗くなってきたし迎えに行ってくれる?」


「いいけど、場所はどこ?」


「わたし、知ってる。その子の家、ちょうど通学路の途中にあるから」


 愛衣がそう言うので、僕は妹とふたりで弟を迎えに家を出た。


 陽はもうとっくに沈んでいて、電灯に明かりがついている。こんな時間になるまで帰ってこないということは、その新しい友達とはよほど気が合うらしい。


「あ。ここだよ」


 赤い傘をさしている妹の愛衣が指をさした。そこは普通の一軒家だった。僕がインターホンを押そうとすると、ドタンバタンと物音が聞こえてくる。それに、キャーキャー叫ぶ声まで。


 まさか、人様の家に来てまで暴れているのではと思って顔が青ざめる。迷惑をかけて、ごめんなさいと心で謝りつつ、インターホンを押した。すぐにはーいと声がして母親らしい女性が出てくる。


「修の兄です。迎えに来ました」


「あら、修くーん、お迎えよー」


 しかし、ギャーギャーと叫ぶのに夢中で中々声に気づかないようだ。


「すみません。少しだけお邪魔します」


 僕は靴を脱いで家の中に入った。修がいるだろう、すぐそこの部屋に入る。


「修! 帰る……ぞ……」


「コブラツイスト!!」


「ギャー! 参った、参った!」


 リビングの中央で弟の腕を取って関節技をかけている人物。その人物と僕は目があった。


「七瀬、さん?」


 七瀬さんは制服のまま、マスクを取って嬉々として僕の弟にコブラツイストをかけていた。七瀬さんはその体制のまま固まっている。瞬きを数度すると、腕がするりと抜けた。


 この人が本当にあの大人しい秘密主義の七瀬さん? いや、人違いかもしれない。マスクを取った顔は見たことないし、目元がよく似ている別人なのかも。


「あ! 兄ちゃん! 迎えに来たんだ!」


「じゃあ、また明日な」


「おう! またな、七瀬!」


 弟が友達だろう男子を七瀬と呼ぶ。


「兄ちゃん?」


「あ、ああ。行こうか。えっと、すみません、お邪魔しました」


 回らない頭でなんとかそれだけ言って、家を出る。帰り際に家の表札を見ると、間違いなく七瀬と書かれていた。


 次の日、学校に行くと七瀬さんはマスクをして、静かに本を読んでいた。


 本当に、この大人しそうな人があの弟にプロレス技をかけていた人と同一人物なのだろうか。弟の話だと、やはり最近引っ越してきて、放課後遊んでくれるそうだ。しかも、プロレスにかなり詳しいらしい。


「委員長。ちょっといい?」


 僕の席の前に七瀬さんが立ってそう言う。


「えっと……」


 僕は見てはいけないものを見てしまったんだなと目をそらしながら思った。


「昨日、見たよね」


「う、うん」


「みんなには、秘密にしていて」


 確かに弟にプロレス技をかけていたことはちょっと恥ずかしいことかもしれないけど、そんなに秘密にしないといけないことなのかな。


 僕が疑問に思っていると、僕の肩を誰かが叩いた。


「なんだ、なんだ。秘密の話しか」


 原くんだ。興味津々といった顔で僕と七瀬さんの顔を見比べている。


「何でもない」


「ちぇ、可愛くない女」


 これはいけないと思った。これ以上、七瀬さんのイメージを悪くしてはいけない。本当は会ってまもない弟の友達と遊んでくれる、いいお姉さんなんだ。

 

「でも昨日、七瀬さんの素顔を少しだけ見たんだけど普通に可愛い顔をしていたよ」


「へー、委員長見たんだ」


「……そんなことない」


 七瀬さんが否定する。


「そんなことあるよ」


「嘘だよ。だって……」


 

 七瀬さんの様子がおかしい。そう思ったときには、もう遅かった。


「委員長の目はおかしい。だって、私、こんなにニキビだらけなのに」


 そう言いながら七瀬さんはマスクを下げて素顔を見せた。涙をボロボロと流しながら。


「な、七瀬さん?」


 僕はびっくりしていた。ニキビがあることは分かっていた。両頬にポツポツと3つぐらいずつ。でも、それぐらい思春期の僕らにはよく見られる。


「えっと、それぐらい気にしなくて……」


「委員長、ひどい!!」


「七瀬さん泣かした!」


 え。


 いつの間にか僕らは注目を集めていた。僕に女子たちの鋭い視線が集まっている。そばにいた原くんはいつの間にかどこかに行っていた。


「七瀬さん大丈夫?」


「気になると鏡を見るのも憂うつだよね」


「だから、ずっとマスクしていたんだ」


 あ! 僕には分からなかったけれど、女子にはすぐに分かったようだ。七瀬さんのマスクはニキビを隠すためにあったんだ。


「うっうっ、私、すごく田舎から来て。部活も地味な園芸部で。引っ越すから垢抜けて街に馴染むように、がんばろうって思ってて。でも、ニキビが引っ越す前にできて……」


 周りの女子たちが頷きながら、七瀬さんの背中をさすっている。


「そうだったんだ」


「私、ニキビにいい石鹸知っているよ」


「いまは保健室に行こうか」


 七瀬さんは女子二人に付き添われて、教室を出ていく。


 ぽかーん。僕の表情はそうとしか表現できないだろう。


「女子って、よく分からないな」


 いつの間にかまた僕のそばに来た原くんが言う。僕はただ深く頷いた。


  ◇◇◇


 それから七瀬さんはそれまでのことが嘘のようにクラスに馴染みだした。


 いまも女子のグループに混じって、おしゃべりしている。


「ごめんね、委員長。悪者みたいにしちゃって」


 昼休みになると七瀬さんが女子たちと来て謝ってくれた。


「僕こそ、無神経でごめんね」


「ううん。私が気にしすぎていたの。でも、みんなに話したらすごくスッキリした。それに委員長に気にかけてもらえて嬉しかったよ」


 七瀬さんはマスクをした顔で、目を細めて笑う。


「そっか、よかった。あ、またうちの弟と遊んでやって。昨日、すごく興奮して七瀬さんがいろんなプロレス技を知っているんだって言っていたからさ」


 七瀬さんの横にいた女子が目を丸くする。


「え、七瀬さんがプロレス?」


「あ」


 また失言したことに気づいた。


「いや、七瀬さんのコブラツイストはすごくかっこいいから」


「委員長!!」


 七瀬さんはプロレスラーには詳しいが、今どきの歌手はさっぱりらしい。


 こうして、秘密主義の七瀬さんはいつの間にかニキビと共に消え、天真爛漫の七瀬さんに変わっていた。


 

 了

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