第10話 過ちの果ての話
ポンが若桜町へきた翌日。
久しぶりにぐっすり眠れた。
目を覚ますと、九時前だった。着替えてからふすまを開けて、部屋を出た。
「おはよう。よく眠れた?」
縁側から見える裏庭ではサナの母、ノノが洗濯物を干していた。
「すみません。こんな時間まで寝ちゃって」
「いいの、いいの。春休みなんだし。朝ご飯、ダイニングに置いてあるわ。チンして食べて」
「ありがとう、ございます」
縁側を進むと、その先がダイニングだ。テーブルの上には、白ご飯とみそ汁、それから豆腐を使った料理が置いてあった。
サランラップがかけられ、そこにメモが張られていた。悪筆だが、丁寧な字だ。
『おはよう。
嫌いじゃなかったら、チンして食べて
コン』
ポンは小さくうなずくと、料理を電子レンジに入れた。
オレンジの光に照らされながらグルグル回る。
ノノがダイニングにやって来たのは、チンッと鳴るのとほぼ同時だった。
「私も、コーヒーもらうわ」
ノノはそういってマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、ケトルからお湯を注ぐ。
ポンとノノはテーブルをはさんでむかい合い座る。
「いただきます」
ポンは謎の豆腐料理を一口食べる。
それは、野沢菜と一緒に炒めた料理のようだった。唐辛子も入っているのか、後味に微かにピリリとした程よい辛さを感じた。
「美味しいでしょ。コンちゃんのお料理、凄いよね」
ノノは笑顔を浮かべながらいった。
「コンさんって、キツネじゃないんですよね。人間の幽霊だっていってました。どうして一緒に暮らしているんですか?」
ポンが尋ねると、ノノはコーヒーを一口飲む。
「死んだヒトはね、本当はヨモツクニへ逝かなければいけないの。だけどね、コンちゃんは生きていた頃に一度、サナを助けてくれたことがあって、その縁で一緒に暮らしてるの。家事を手伝ってくれてとても助かってるけど、本当はこの家で生まれた子供のようになって欲しいかな、とも思うわ」
ポンは小さくうなずくと、口の中で「ヨモツクニ」とつぶやいた。
「まあ、もし何か思うところがあるなら、一度コンちゃんに訊いてみれば? 多分コンちゃん自身のこと、いろいろ話してくれるはずよ」
朝食を終えたポンは、家を出てコンのお店へむかう。
風が吹くと、微かに桜の花びらが飛んでくる。
ふと、正面に女性の姿を見つけた。
抱っこ紐で赤ん坊を抱いて、両手に大きな買い物袋を持っている。
ああ。赤ちゃんってあんなんなんだ。と思いながら通り過ぎようとしたそのときだ。
女性がつまずき、バランスを崩す。
ポンは「あっ」と思うと同時に体が動いていた。
夢中だったから、なにをどうやったのかわからない。気が付くとポンはタヌキの姿になり、走り出していた。
一瞬で距離を詰め、再び人間の姿になると、女性の体を支える。
「大丈夫ですか?」
「え、あ、ありがとう」
女性に抱かれた赤ん坊も無事だった。すやすやと眠っている。
ポンは女性が両手に持っている買い物袋を見る。
「家、近くですか? 荷物持ちましょうか?」
「いいの?」
驚く女性の顔が、一瞬ポンの母の顔と重なった気がした。
女性の家はそれほど離れてはいなかった。表札は『江坂』となっている。女性の名前は江坂ヒトミというのだという。ポンも、自分の名前を名乗った。
ヒトミは赤ん坊を抱き、二つの買い物袋は両方ともポンが持って、家までやって来た。
「時間ある? ジュースでも飲んでいかない?」
こうして、ポンは家に上がらせてもらった。
リビングに、お仏壇があった。二つ並んでいる。
ポンはその片方の前に正座すると、そっと手を合わせる。そして、隣のお仏壇の前に移動し、再び手を合わせる。
「ありがとう。旦那はね、再婚なの。片方が前の奥さん。もう一つは、私の最初の子供」
ヒトミはベビーベットに赤ん坊を寝かせ、優しい笑顔を浮かべる。
「私も、少し前に、父と……それから妹が死んだんです」
ポンは静かにいった。
「そう……。じゃあ、今はお母さんと二人暮らし?」
ヒトミが尋ねると、ポンはうなずく。
「ちょっと時間ある? 少し、お話しない?」
ポンが椅子に座ると、ヒトミがジュースの入ったコップを差し出す。
「あの、気分悪くしたらごめん。だけど、一つだけ訊かせて。お母さんと、仲良くできてる? 怒鳴られてり、ご飯もらえなかったり、叩かれたりしてない?」
ヒトミは随分真剣な様子だった。
「え、あ、はい。ご飯は私がつくってますけど、それは私がいいだしたことですし、喧嘩することもあるけど、叩かれたことはないですし」
するとヒトミは、安心したように椅子に座った。
「そっか。よかった。ごめんね。変なこと訊いて」
「いいんです。でも、どうしてそんなことを?」
ヒトミが虐待を疑っているのは明らかだった。しかし、ポンの体は特に怪我や痣はないし、痩せているわけではない。むしろ、ちょっと太り気味だ。元々の体だって、疑われる要素はなかったはずだ。あっちはちょっと痩せ気味だったけど。
ヒトミは少しためらうように視線を左右に泳がせたあと、ポンを見ずにこういった。
「私が昔、子供を虐待していたから」
ヒトミの視線は、最初の子供だといった方のお仏壇を見ていた。
「私が一人目の子供を産んだのは、十七のときだった。好きになったヒトがいて、家出してそのヒトと暮らして、妊娠して、病院で出産した。だけど、入院中にそのヒトは失踪して、どうしていいかわからなくなった」
ポンの脳裏で、母の声が聞こえた。以前、自分の身の上を語ってくれた母親の声が。
ヒトミの話しは続く。
「恐かったの。なにもわからないまま、子供の人生を背負ってしまったのが。子供はなくくし、わめくし、我儘だっていう。それが普通なの。だけど、その全部が『母親として間違っているから泣き止まない』って思っちゃった。だから、苛立って、あの子に酷いこともいったし、何度も暴力をふるった」
「その子供さんが死んじゃったのって……」
ヒトミは首を振って否定する。
「私がしたことが直接あの子の死因になったわけじゃないわ。あの子は児童相談所に保護されて、その後、ある事件で死んだから」
ヒトミは「だけどね」と言葉をつなぐ。
「ずっと私が育てることができていたら、その事件は起こらなかったはずよ。だから、私が殺したようなものね」
ポンは慎重に言葉を選び、尋ねる。
「どうして、私にその話しをするんですか?」
そのとき、ベビーベットの赤ん坊がぐずりはじめる。
ヒトミは立ち上がると、赤ん坊を抱き上げ、優しくあやす。赤ん坊はすぐに上機嫌になる。
「どうしてあのとき失敗したんだろうって考えるとね、この子は私が育てなければいけないと思い込んで、誰にも助けてっていえなかった。助けてくれそうなヒトを探すこともしなかった。母親である以上、一人で育てないといけないと思い込んでいた。一人で子供を育てることより、子供が生きていけるようにすることの方がよっぽど大事なのにね」
家の前を、子供たちの楽しそうな声が通過する。
「今日は終業式だから、はやいのね」
ヒトミは赤ん坊を抱いたまま、まっすぐにポンを見た。
「困ったら、助けてっていってね。お母さんに、私と同じ間違いを起こさせないために」
ポンは、小さくうなずいた。
ヒトミの家を出て『和食処 若櫻』へむかう。
少し道に迷ったが、たどり着くことが出来た。
入口のドアを開けると、カラリとベルが鳴った。
「いらっしゃい。ポンちゃん」
コンは笑顔を浮かべながらいった。
ふと、コンの顔とヒトミの顔が重なる。
そう。コンはヒトミによく似ているのだ。
もしかして、という予感が頭をよぎる。
「道に迷って、遅くなっちゃいました。あの、それで昨日の話しなんですけど」
「お料理教えてほしいってやつやろ。もちろんええよ。こっちおいで」
ポンはコンに招かれて、ポンはカウンターの内側、厨房へ入った。
「今からゆっくりつくっていけば、ちょうどお昼ご飯にできるな。食べたいもんある?」
ポンは少し考えて。
「卵の焼き方、教えてくれませんか?」
「うん。わかった」
コンは冷蔵庫から卵を二つ取り出し、一つをポンに渡す。
「卵、割れる?」
「いつも、殻が入っちゃうんです」
コンはうなずくと、ボウルを用意する。
「殻を割るときな、テーブルの角とか、ボウルの淵とかでヒビ入れると、細かい殻が内側に入ってしまうから、平らな場所でヒビ入れるといいねんで」
コンは調理台の上でヒビを入れ、ボウルに割ってみせた。
ポンも同じようにやってみる。殻が混ざることなく、綺麗な黄身と白身がボウルの中に落ちた。
「できた!」
ポンは嬉しそうに声を上げた。
「簡単やろ」
コンは笑みを浮かべながら、戸棚からなにやら草を取り出した。長い茎に丸っこい葉っぱがついた草だ。
「これも入れよか」
「なんですか? それ」
「ミツバ。美味しいで」
ポンにとって、ミツバという野菜を見たのははじめてだった。どんな味にまるで予想ができない。
「四センチくらいに切って」
「はい。これ使っていいですか?」
コンにいわれ、ポンは棚にあった包丁とまな板を取り出す。
「うん。それ使って」
ポンはまな板の上に三つ葉を置いて、きざみはじめる。とても不器用な手つき。
「それやと危ないで。包丁はこう持って、左手はこう」
後ろから、コンが手を添えた。
「ねえ、コンさん」
真剣なまなざしで手元を見ながら、ポンは尋ねる。
「ん? なに?」
「コンさんは、どうして死んじゃったんですか?」
「私な、施設で育ってん。児童養護施設ってやつ。それで、中一のとき、引き取りたいっていうヒトがいてんけど、そのヒトらと喧嘩になって、殺されちゃった」
コンの右目。火傷していない方の目は、ポンが握っている包丁の刃先を見ていた。
「虐待、ですか? 児童養護施設に入ることになったのって」
コンはうなずく。
「うん。ママは私のこと、何回も蹴ったり殴ったりした。でも、ある日、児童相談所のヒトが来て、ママと凄い長い時間な話ししてて、それからママはすごい優しくなってん」
「なのに、どうして」
ポンは思わず振り返りそうになり、コンにたしなめられる。「手元見とかんと、怪我住んで」と。
ポンが再び視線を前にむけたのを確認してから、コンは話を続ける。
「この火傷、ママが優しくなってからのもんで、事故やってん。私が悪かった。でも、前段があるから、虐待やと思われて、ママとは離れ離れ」
「……コンさん。可哀想」
ポンは思わずつぶやいた。
「色々あったけど、私のご飯を美味しいっていってくれるヒトがいて、私は嬉しいで」
コンがいうと同時に、入り口の扉が開く。
「ただいま、コン」
ランドセルを背負ったサナが飛び込んできた。
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