第8話 『若桜町へやって来た』というお話 前編

 これまでのあらすじ。

 京都のアパートで母と暮らす少女、志度マコト。

 彼女は中学に上がる直前の春休み、夢の中で化けダヌキのユリに出会う。

 そして目が覚めると、ユリと入れ替わっていた。

 混乱のあまりユリの家を飛び出したマコトが出会ったのは、神に仕える化けギツネ、ミチヨだった。

 ミチヨの協力により、ユリの実家に現状を伝えることに成功するが、その後の話し合いの結果、マコトは事態が解決するまで化けギツネの元で『中村ポン』を名乗り暮らすこととなったのだった。


 大社には結界で区切られ、普段は神獣と神しか立ち入れない空間があるそうだ。

 その結界の中には、ここで修行しているキツネの為の寮もある。

 マコト改め、ポンは今夜、そこに泊めてもらうことになった。

 共同浴場は誰もおらず、広々としていた。

 木製のバスチェアに座ると、蛇口をひねりシャワーを浴びる。

 濡れた前髪の隙間から、壁に取り付けられた鏡が見えた。

 そこにうつっているのは、丸顔の少女――ユリの姿だった。

 改めて『魂替えの術』によってユリと入れ替わったという事実を感じる。

 本名を名乗ってはいけない。だから『中村ポン』という名前をもらった。

 ユリが見つかるまで鳥取で暮らすことになった。明日出発だそうだ。

『志度マコト』と名乗っていた本来の自分が薄くなって消えていきそうな恐怖。

 その一方で、今までの自分ではない全く別の生活ができる、という期待感も少し感じてしまっている。

 髪を洗う。

 よく手入れされているのがわかる、フワフワした緩いくせ毛だ。まるで引っかかることなく、指の間をすり抜けていく。

 自分で嗅ぐことはできないが、きっと良い匂いがするのだろう。

 シャンプーを流し終わると、続いて体を洗う。

 借り物のタオルに、備え付けの固形石鹸をこすりつけ、泡立てる。

 左肩から、左の指先へ。右肩から、右の指先へ。

 首元から、大きめの乳房を経て、腹部へ。

 背中を洗い終えると、下半身。

 足の傷はふさがっていた。きれいな肌なので、傷をつくってしまったことに少し罪悪感を感じる。痕が残らないといいな。

 すべすべとした摩擦の少ない表皮を、タオルに含まれた石鹸がさらに磨き上げていく。

 全体的にやや脂肪が多いようだが、肥満と呼べるほどではないし、むしろ健康的な生活を送ってきたことを物語る要素となっている。そしてなにより、ぬいぐるみのような柔らかさを感じる曲線的な体系は、自然な愛らしさを主張している。

 本人と両親しか見たことがないであろう場所に、大きなほくろがある。


 次の日の朝、京都を出発したホンダの自動車『アクア』は軽やかな足取りで中国自動車道を西へ駆ける。

「お体、大丈夫ですか?」

 ハンドルを握るのはミチヨだ。

「はい。なんだかぐっすり眠れて、今日は元気です」

 ポンは、前の体のときはよく車酔いをした。だから、後部座席ではなく、助手席に乗せてもらっている。こっちの方が酔いにくい気がする。

「でも、これからいくとこって、どんなところなんですか?」

 ポンは尋ねた。

「若桜町は……田舎ですね。景色の綺麗な、普通の田舎町という感じです。本来であればウカ様の力も本来はあまり及ばない土地です」

 ポンは思い出す。

 昨日、タヌキとの話し合いの席に当たり前のように同席していた少女、ウカ。

「ウカさんって何者なんですか? 神社で悩みを聞いているっていってましたけど」

 ミチヨは口元でそっと微笑む。

「ウカ様は神です。本名はウカノミタマノカミといって、稲荷神とか、お稲荷さんとか呼ばれることが多いですね」

「神様だったんですか!」

 ポンは思わず大きな声を出した。神様のイメージといえば、髭がモッサーって感じのお爺さんか、清楚が服を着て歩いているような女神だと思っていた。

 しかし、昨日会ったウカはちょっと、いや、かなり派手な女子高生にしか見えなかった。なんなら、ポンとウカはファッションの話で意気投合していた。

「ウカ様、随分あなたのこと気に入っているみたいですね」

「そうなんですか?」

 運転しながら、ミチヨはうなずく。

「実をいうと、わざわざ若桜町までいく必要はないんです。そんなことしなくても、十分、あなたを悪いタヌキ達から匿い、守り抜くことは可能です。なのにウカ様は若桜町へいけとおっしゃった」

「どうして……」

「神のお告げ、ということでしょうね。私自身が神ではありませんので、ウカ様のご覧になられている景色を見ることも、それを解説することはできませんが、ただ間違いないのは」

 ミチヨはハンドルを切り、車は山崎インターチェンジから下道に降りる。

「ただ間違いないのは、若桜町に暮らすキツネの一家は、必ずあなたを優しく迎えてくれますし、もしものときは、必ずあなたを守ってくれます」

 ポンは小さくうなずいた。


 道は徐々に山奥へと入っていき、同時に曲がりくねったものになる。

 車は滑らかにカーブを抜けていく。

「ミチヨさん、運転上手ですね」

 ポンはいつもの車酔いが襲ってこないことに気付いた。

「ありがとうございます」

 ミチヨは随分と嬉しそうだった。

 道の両脇には、徐々に民家や田んぼが増えていく。

「そろそろ若桜町ですね」

 ミチヨがいった。

 やがて、和風のお城のような建物が見えてきた。

「あれがこの町の学校です。小学校と中学校が統合されれているそうです」

 なるほど。確かにミチヨの言葉通り、その建物は城を模して造られたようだが、全体的に綺麗で、最近建てられたものだということがわかる。

 そしてその学校に近付くと、門からこの学校に通うヒト達が出てくるのが見えた。

 私服でランドセルを背負ったヒトたちが大半で、ちょっとだけ制服を着てスクールバッグを持ったヒトもいる。

 時間は昼前だが、春休みが近いので午前で授業が終わったようだ。

「あ、あれは」

 ミチヨはなにかを見つけたようだ。ポンもミチヨの視線をたどる。

 その先にいたのは、小学校高学年くらいの女の子だった。

 女の子は友達と楽しそうに言葉を交わすと、分かれて別方向へ歩き出す。

 ミチヨはゆっくりと車を進め、女の子と並走する。

「こんにちは」

 そして、窓を開けて呼び止めた。

「先生! どうしてここに……」

 女の子は驚いたように声を上げた。

「お久しぶりです。サナさん」

 ミチヨは車を停め、女の子も立ち止まる。女の子の名前はサナというようだ。

「これからお店にいくんですが、乗っていくます……コホン……乗っていきますか?」

 ミチヨは一度噛んで、いいなおした。

「ありがとうございます」

 サナは後部座席に乗り込んで、ポンを見つめる。

「先生、どうしてこの町に来たんですか」

「お母様から聞いていませんか? 昨日連絡させてもらったのですが?」

 ミチヨはルームミラー越しにチラリとサナの顔を見ると、車を発進させる。

「昨日の夜から、やけに機嫌がよかったんです。でも理由を訊いても教えてくれなくて」

「じゃあ、サプライズのつもりだったんですね。うっかり台無しにしてしまいました」

 ミチヨは全く悪びれていないようだった。

 車は少し走って、やわらかく停まった。丸太を何本も抱えたフォークリフトがゆっくりと前を横切る。山で切り出した丸太を材木に加工する場所があるのだが、その資材置き場が道路をはさんだ反対側なのだ。

 ポンは物珍しく、つい見とれてしまう。

「ポンさん、紹介しますね。こちらキツネの長尾サナさん。ポンさんに暮らしていただく家のお嬢さんで、以前は私が呪術を教えていました」

 ミチヨの声で我に返り、ポンは慌てて振り返りサナを見た。

「あ、えっと、中村ポン。よろしくね」

 ポンは慌ててそういった。

 フォークリフトは通り過ぎ、ミチヨは車を発進させる。フォークリフトの運転手が「ごめんね」という感じに手を挙げて、ミチヨは「気にしないで」という感じで手を挙げて返した。

「サナさん、ポンさんは元々人間だったんですが、魂替えの術でタヌキと入れ替わってしまって、元々の体が見つかるまでサナさんの家で暮らしていただくことになったんです」

「魂替えの術って本当にあるんですね」

 サナはそういいながら後部座席から身を乗り出し、ポンに鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。

「大社の石鹸の匂いがする……。私、長尾サナ。よろしくな」

 サナはニッと笑った。

 それが、つくった笑顔だということがわかってしまった。


 ほどなくしてお店に到着した。

 車は停まり、ポンは降りる。

 風が、フワフワの髪を撫でた。

 目の前にあったのは、いったいいつからここに建っているんだろうと思うくらい古い木造の建物。

 窓は暗く、ヒトの気配は感じない。

 実際、入り口には『準備中』の札が掲げられていた。

 木の板に墨で店名が書かれた看板。これまたかなり古いものらしい。擦れて、かろうじて読める店名は『和食処 若桜』となっていた。

「いらっしゃい。入ってくれ」

 そういって、サナは扉を開ける。


 カラン。


 ドアに取り付けられていたベルが音をたてた。

 ポンはゆっくりと店に入る。

 カウンターテーブルの内側に、作務衣を着た少女がいた。この店の店員らしい。

「いらっしゃいませ」

 少女は笑みを浮かべた。その左頬には、大きな火傷の痕があった。

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