第3話 タヌキになった話 その1

 十二畳の和室に、叫び声が響く。

「なんでユリになってるのー!」

 その途端、ふすまが開く。

「おはようございます。ユリお嬢様」

 現れたのは若い男性だった。和服を着ている。男性は手に洋服を持っていた。

「あ、あの、その、えっと……」

 戸惑うマコト。対して、男性は慣れた様子でマコトの浴衣の帯に手をかける。

「さ、お着換えですよ」

 マコトは思わず男性の手を振り払った。

「だ、大丈夫……です。着替え、一人でできますので、服だけ置いておいてください」

 そういった途端、男性は驚いた顔を浮かべる。

「お、お嬢様。お一人でお着換えを……。もうすぐ中学生なのだから、一人でお着換えなさってくださいとあれほど申し上げても聞かなかったお嬢様が……」

 男性はまるで今にも泣きだしそうな雰囲気だ。

「え、えっと。大丈夫。終わったら呼びますので……」

 マコトはなんとかそういった。

「はい」

 男性はそういって、部屋を出ていった。

 マコトは大きなため息とともに、その場にへたり込んだ。

「ホントに、どうなってんの」

 マコトは音をたてないようにそっと、ふすまを開けた。

 ゆっくりと顔をのぞかせる。そこは縁側になっていた。さっきの男性はいない。

 あの男性は、マコトの服を脱がそうとしていた。

 変質者かもしれない。ここにいたらなにをされるかわからない。

 全く状況がわからない。だけど。

 逃げよう。

 マコトは表に飛び出した。

 裸足のまま広い広い庭を走り抜け、生け垣を飛び越えると道路に出た。

 びっくりするほど体が軽く、少し走るだけでグングン加速する。

 無我夢中で走り続けた。


 ユリになる前よりずっと体力がある。それでもやがては息が切れ、マコトは歩調を緩める。

 ヒトの多い方へ、賑やかな方へと走り続けて、いつしか京都の市街地へとたどり着いていた。市街地まで来てはじめて、ユリの家が京都市内だったことを知った。

「どっちにいけば……」

 道案内の看板の前で立ち止まり、ため息をついた。

 マコトのアパートも京都市内だ。住所は暗唱できる。しかし、それが現在地とどういう位置関係かわからない。

 地図を隅々まで探してもアパートの地名がなかったことから、それなりに距離があるんだということはわかる。

 マコトは大きくため息をつくと、トボトボと歩きはじめた。

 空は厚い雲に覆われていた。


 いき先を定められないまま数時間歩き続け、時間は昼下がり。

 交番で道を尋ねようかと思ったが、やめた。家出人として、ユリの家に送り返されてしまうかもしれない。

 そしたら、あの服を脱がそうとしてくる男のところへ返されてしまうかもしれない。

 ぽつり、ぽつりと水滴が落ちてくる。

 雨脚は、一気に強まった。


 雨宿りできる場所を探してマコトがたどり着いたのは大きな橋の下だった。

 ホームレスのものらしい段ボールが積まれている。

「……寒い」

 マコトは座り込み、体を震わせる。

 この場所を見つけるまでに、ずいぶん濡れてしまった。そもそも、来ているのは浴衣一枚なので、まだまだ寒さの残る三月の気温には不相応だ。

 足の裏が痛い。裸足で歩いていたから。細かな傷が沢山あって血がにじんでいた。

「なんで、こんなことになったんだろう」

 つぶやく声に返事はない。

「これは、夢なのかな? 夢であってほしいな」

 膝を抱え、顔をうずめる。

 涙がこぼれてきた。

 神様でも、奇跡でもいいから、この状況がなんとかなってほしかった。

 そのときだ。

 優しく肩に触れる手があった。

「大丈夫ですか?」

 穏やかな女性の声。

 顔を上げると、傘を差した初老の女性がそこにいた。

「大丈夫ですか? どこかご気分が悪いのですか?」

 女性は心配そうな表情を浮かべる。

「あのっ……」

 マコトは自分の状況を洗いざらい喋ってしまいたかった。しかし、目が覚めたら別人になっていたなんて誰が信じてくれるだろうか。

「……大丈夫です。なんでもありませんから。ご親切にありがとうございます」

 そういって、口を閉じた。

「なにか訳ありなのですね。私でよければお話お伺いいたしますよ。だからとりあえず、その耳、引っ込めませんか?」

 女性はハンドバッグからチークのケースを取り出すと、蓋の裏側の鏡をマコトの顔に向ける。

 そこにうつっていたのはユリの顔。頭に丸いタヌキの耳がある。

 マコトは慌てて頭を触った。

 手には耳に触れた感触。そして耳が手で触られた感触。二つを同時に感じた。

 頭の耳を意識した途端、おしりにも違和感を感じた。

 そっと浴衣の上から触れてみる。

 下着を押しのけ、尾てい骨のあたりからやわらかいものが生えている。

 それは、尻尾だった。

「あ、あの、これは、そのっ、コスプレ。そう、コスプレなんです」

 マコトは慌てて手で耳をおさえる。

「大丈夫ですよ。無理に隠さなくても、わかっていますから」

 いつの間にか女性の頭に三角形の耳が二つ生えていた。それは、どう見てもキツネの耳だった。

「……キツネ」

 マコトがつぶやくと、女性は小さくうなずく。その瞬間、キツネの耳は消えた。

「落ち着いて、とりあえず耳、片付けましょう」

 女性がそういった途端、マコトは固まった。

「耳って、どうやって片付けたらいいんですか?」

 女性は驚きの表情を浮かべる。

「ご存知、ないのですか?」

 マコトはうなずいた。

 この女性が信用できるヒトなのかわからない。だけど、今、頼れるのはこのヒトしかいない。

「あの、私、人間だったんです。でも、目が覚めたらタヌキになっていたんです。ウソみたいな話ですけど、本当なんです。信じてください。それで、あの、あの……」

 必死に話すマコト。

 女性はしばらくまっすぐにマコトを見つめて、笑顔を浮かべる。

「ゆっくり、事情を聞かせていただいていいですか? お力になれるかもしれません」

 女性の手がマコトに触れる。

「目をつむって、ゆっくり深呼吸して、人間の姿をイメージして」

 マコトはいわれた通りにした。

 頭に、ムズムズと独特の感覚があった。

「はい。いいですよ」

 目を開けると、女性は再びチークケースの鏡を見せてくれた。

 頭の耳はなくなっていた。

「そのお召し物では、寒くないですか? 近くにいきつけの服屋さんがありますので、着替えましょう」

 女性は傘を持っていない方の手を差し伸べる。

「あの、私、お金持ってなくて……」

 マコトは財布を持っていなかった。仮に持っていてもそれはユリのお金なので勝手に使うのははばかられる。服屋にいってもなにも買うことができない。

「私は持っていますので、大丈夫ですよ」

 しかし女性は当たり前のようにそう返した。

 マコトは、ゆっくりと女性の手を握り、立ち上がった。

「私、栗駒ミチヨと申します。稲荷大社のキツネで、呪術師範長を務めております」

 女性――ミチヨはそういった。

「呪術師範長?」

 マコトは首を傾げる。

「はい。神の使いのキツネに“術”を教えている師範衆というのがおりまして、そのまとめ役をやっております。だからきっと、あなたのお役にもたてるはずですよ」

 最後にミチヨは「要するにキツネの塾の先生です」と付け加えて笑った。ミチヨは初老なのに、幼い少女のような笑顔だった。

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