第74話 江戸大納言・徳川家康

「お待ちしておりました、石田殿」

「…………」


 値賀崎の根元を少し進んだ山あいに、陣幕が張られていた。家紋などのついていない無地の幕だ。服部半蔵に導かれその中に入ると、その男は待ち構えていた。


 徳川大納言家康。太閤豊臣秀吉に次ぐ実力の持ち主であり、殿下が唯一勝利することができなかった男だ。


「さあ、どうぞこちらへ」

「……ありがとう、ございます」


 家康に促され、三成は床几に腰を下ろした。家康の後ろには半蔵が立ち、陣幕の入り口には勾陳と喜多が立つ。半ば退路を絶たれた形だ。左近はと言うと、半蔵の登場に心を許したのか、警戒心がすっかり薄らいでいるように見える。


「……狩り、ですか?」


 家康は狩装束を身につけていた。


「さよう。私は鷹狩りが何よりも好きでしてな。今日は公務もない故、こうして羽をのばしている所でござった」


 なるほど、確かにわずかな供回りを連れて余暇を楽しんでいたように見える。が、その供回りが十二天将となると事情は異なる。この陣幕もだ。ただの鷹狩なら葵の門が入ったものを堂々と張れば良い。そもそも、こんな山と林に囲まれた地形で鷹狩りというのがおかしい。

 この男も何者かから……恐らくは城を封鎖する軍勢から姿をくらませる必要があるという事か。


「もっとも、それは表向きのこと。名護屋城が結界で閉鎖される前に出てきたというのが、実際のところです」

「結界、するとやはり城へは……?」

「入れません。もちろん、出ることも」


 想定はしていた。城内の奉行衆たちが、街道や港の閉鎖を許すはずがない。となれば、霊的な何かで城門より内側が孤立していると考えるのは、ある意味当然のことだった。

 場内に土御門久脩がいてよかった。彼の式神でなければ、三成の元に密書を届けられなかったかもしれない。


「何者ですか謀反人は?」

「疑わしき者はいます。なので、あなたのご意見を伺いたい」


 家康が合図すると、小姓が丸めた紙を持って幕内に入ってきた。家康はそれを広げて三成に見せる。名護屋城周辺の地形が描き込まれた地図だった。


「早朝より探らせて作った布陣図です」

「むう……」


 三成は思わず唸り声をあげる。見事な布陣だった。陸も海も何重にも罠が巡らせてある。これだけの兵をよく動員できたものだ。


「元は太閤殿下が、名護屋待機軍全兵に向けて調練の命令を出したことがきっかけでした。敵はそれを巧みに利用し、調練に参加する部隊を操ってこの布陣を作ったと思われます」

「つまり彼らは自らが謀反に加わっていることにすら気づいていない?」

「全員とは申しませんが……」

「というと?」

「申し上げにくき事ながら、あなたに恨みを持つ大名の元には、それとなくあなたが標的であることが伝えられているようです」

「…………」


 横で左近の肩が震えているのがわかった。こいつ、笑いを堪えてやがる。私の人望が薄いことがそんなに楽しいか……!?

 不愉快な気分を殺しながら、絵図には神経を集中させる。そして、その形が頭に引っかかった。


「これはまさか……?」

「お気づきですか?」


 実物を見ないことには確証は持てない。しかし、絵図に書き込まれた軍勢の特徴や位置を見ると一つの疑念が浮かび上がる。


「これは……【水】を拠り所にする者を追い詰めるための罠に見えます」


 沢や川は、兵が通る道で巧妙に気の流れを断ち切られている。さらに街道を封鎖しているように見える木柵は、【水】の気の流れを【木】の力として吸い取るためのものだ。

 そして海上。本来【水】に満ちているはずのこの場所に【金】の気を宿す鉄甲船が配置され、【水】の気の集中を妨げている。

 その他、盛り土や篝火などを巧みに利用し、徹底的に【水】の力を潰しにかかっている。しかも恐ろしいのは、これだけの仕掛けが表面的には軍勢の調練にしか見えない所だ。


「狙いは私の連れでしょうね。【水】の申し子たる天后を奪い取ろうと言う腹づもりは明白です。しかしこれほど巧みに布陣を行える者となると……」


 三成は顔をしかめ、手で口を押さえた。わかってる。こんなことできるのは一人しかいない。


「……黒田殿、ですな?」


 家康の問いかけに、三成は黙ってうなづく。黒田官兵衛。三成の軍配術の師のひとり。彼以外に、この陣の構築は不可能だった。


 

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