第71話 帰路

 沖合いで秀久たちの乗る船と別れた。船上では秀久がてを振り続けているのが見えた。まったく、どこまで行っても暑苦しい馬鹿だった。使いようによっては有能な男だが、やっぱりああいう手合いは嫌いだ。


 その秀久の横で頭を下げている影は三左衛門だろう。彼も、名護屋までの同行を拒否していた。


『石田様には申し訳ありませんが、やはりあの者のそばにはいたくありません!』


 自身の目的のためにデウスの教えを捻じ曲げた天后が許せないらしい。三左衛門の使うゴーレム使役の術とて、伴天連バテレンの教えには無い外法げほうであるのだが、そこは彼なりに線を引き、己の信仰との折り合いをつけているようだった。それに対し、天后は存在自体が聖書の教えと真っ向から反する。にもかかわらず、その都合の良い部分だけを利用している。それが三左衛門の目には許しがたい冒涜として写っていた。


『良い。そもそも、そなたは私の家臣ではない。しかし小西殿の元に戻るのであれば、名護屋を経由せねば……』

『ご心配なく。仙石殿の船に長崎まで乗せていただきます。そこでイスパニアの船に乗り換え、朝鮮へ』

『むう。そうか』


 それはそれで問題なんだが……。諸侯と南蛮との付き合いを監督すべき奉行職としては、イスパニアの唐入りへの介入を黙っているわけにもいかない。ただ、今後豊臣政権を外交面で支えていくであろう小西家との対立は避けたい。三成は黙って送り出すことにした。



      *     *     *



 秀久の船と別れてから、半日あまり。三成一行は名護屋まであと少しという所まで来ていた。行きの半分以下の時間しか掛かっていない。


「風向きも潮の流れも、不思議なくらい快調でして……こんなことは初めてです!」


 水夫たちは、ありえない船速に喜びつつも戸惑っているようだった。


「これがあなたの力ですか、天后殿?」

「はい。私は本来船乗りを守護する神。安全かつ迅速に目的地へと連れて行くことを務めとしてますゆえ」


 なるほど。太閤殿下がこの力を利用したい気もわかる。殿下は、御自らの渡海を希望していた。日の本のすべての将を服属せしめたその軍略を、朝鮮の地で存分にふるいたいとお考えなのだ。しかし現状、加賀の前田利家や江戸の徳川家康ら大名衆が、それを止めている。


『殿下の軍才を疑うものは一人とておりません。しかし渡海には危険が伴います。万が一、航海中に殿下の御座船に何かあれば、唐入りどころか日の本の政治そのものに大混乱が生じます。何卒、ご自重くだされ……!』


 前田利家は前回の軍議で、そう言って秀吉に思い直しを求めた。つまり、天后が持つこの力があれば、少なくとも渡海の危険はなくなる。大名衆が殿下を止める名目も失うわけだ。


「前田様の言い分はわかる。しかし、勝利を決定的にするための手段として、殿下のご出馬は間違いなく有効だ」


 秀吉本隊の出馬とあらば、もちろん三成も同行するつもりだった。黄金の軍配を預かるものとして、命に変えても殿下のお命は護り通す。渡海の安全が確保できるのであれば、むしろそれこそが明国や朝鮮との早期決着のための、唯一の手段にも思えた。


「おい、主殿あるじどの!」


 船首でもの思いにふけっていると、不意に左近が袖を掴んできた。


「あれを見ろ」


 左近が指差す方向から黒い点が飛来してきた。それは1羽のカラスだった。陰陽寮の術士たちが手なづけている式神だ。一条戻橋の同士である土御門久脩つちみかどひさながは京都に残っているが、彼の配下が名護屋に来ている。彼らからの伝令だろう。しかし妙だ。


「もう名護屋までは目と鼻の先。わざわざカラスを飛ばしてくるとは、一体どういうことだ?」


 三成は左腕を伸ばし、そこにカラスを止まらせた。その脚には、書簡が結わえ付けられている。それを手に取り、伸ばすようにして広げた。


「これは……」


 兄、石田正澄からの密書だった。兄が陰陽師に、三成との連絡を求めたようだった。その密書の内容を見て、三成は思わず冷や汗を流した。



 名護屋滞陣中の諸将に不穏の動きあり。調練を名目に兵を動かし、港及び街道を封鎖せり。諸将の目的は、治部少輔の暗殺および天后の奪還と見られる。直ちに引き返すべし。



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