第5話
-まひるのアパート-
「ふうー」
洗い物を終え、クッションの上に座り込んだ時だった。
えっと…、というように、ちょっと照れながら、まひるが私の正面に膝をついた。腕には彼女用のクッションが抱かれている。
「あの、膝枕、してもいい?」
「うん、いいよ」
「ありがと」
ちょっと照れたように
「
微笑いながら私が視線を合わせようとすると、彼女がそれを避けた。
(めちゃめちゃ可愛い!)
彼女の横顔が、それ以上尋ねるのを拒んでいた。でも、私にしてみればそんな彼女の仕草一つ一つが可愛らしく、愛しくて仕方なかった。
-カシャッ-
「え? ちょっと、何撮ってるんですか」
私は上身を起こして南を見た。
「イヤ…何か、可愛くて……」
南がケータイを後ろに隠した。
「ちょっと! 消して下さい」
私が手を出すと、
「嫌だー」
ダダダッと南が逃げた。
「あっ」
「お風呂入るからー」
そしてそのままバスルームへ入ってしまった。
「………」
追いかけた私は、そこで立ち止まった。
私たちの今の関係は、おそらく友だちよりは上だ。けれど、恋人と呼べるものではない。だから、お互いに入り込めない場所がたくさんあった。
それでいいのか、それがいいのか、わからない。
でも、やっぱり南は大人で、そしてとても優しかった。
ふてくされて先に横になった私を心配して、南が戸口で囁いた。
「まひるちゃん、もう寝ちゃった? 今日は一緒に寝なくて…いいの?」
「………」
私は無言のまま、掛け布団の端を無造作に上げた。
くすっと南が笑った。そしていつもより少しだけ距離を置いて横になった。
私のベッドは、紅が使用していた物よりも大きく、二人で寝てもかなり余裕がある。けれど、朝方私が目覚めると、一度として南が横にいたことはなく、私が眠ると、自室に戻っているようだった。
「………」
仰向けて、無言のまま、私は南に体を寄せていった。いつも寝る前にはおやすみのハグをしてくれることになっていた。この日も大人の南は、私を拒絶する事なく、優しく私を抱きしめてくれた。
紅と同じ香りに包まれた。私はゆっくりと
体中で紅を感じた。ああ、まだ私はこんなにもあなたを想っている。離れても、別れても、まだ紅をこんなにも想っているんだ。
(……あ……)
私から、南がゆっくりと離れた。幻のような、紅との時間が消えた。
「さっきはごめんね。写真、消したから」
南の指が伸びてきて、私の額の前髪を優しく左右に分けた。その動きには、一つも
「嫌だったら
「え?」
私は肘をついて上身を起こした。南を見下ろす形になり、南の頬に手を当て、愛おしげに手のひらで何度か撫でたあと、私は唇を重ねていった。
暗がりの中でも、南が驚いて睫毛を上下させているのがわかった。けれど、私に何かを伝えようと、私の手を南が求めるように握りしめ、そしてやがて恋人繋ぎのように、私たちの指はどちらともなく絡み合い、重なり合っていった。
私は、舌を差し入れた。
紅よりも低い体温を感じ取りながら、遠慮がちに私を求めてきた南の舌先を優しく受けとめ、抱きしめた。ぎこちないながら、私と合わせるように舞う年上の南が、とても愛しく思えた。
指先で、南の髪を肩を背を、何度も辿るように撫ぜた。
(それでも…)
それでも、と、続く言葉を私は打ち消した。そして南から唇を離すと、暗がりの中、もう一度静かに南と向き合った。
「こんな私で良かったら…。恋人になってくれませんか」
まだ少し上気している南は、
「えっ!?」
と、驚いて声をあげたが、やがて私の背へ腕を回して、
「喜んで。まひるちゃん、喜んで!」
煌めく笑顔で、まるで頬擦りするかのように私を抱きしめてきた。
-翌朝 瞳子のマンション-
「で? やっちゃったの?」
「やっやるって、だってそ、そんなすぐにはっ」
「だよね」
瞳子が笑った。
「とりあえず、瞳子には伝えなきゃって」
「佐伯はまだ寝てるの?」
「うん。朝食は置いて来たけど、朝は弱いから起こさないで来ちゃった」
私は、瞳子が淹れてくれた紅茶のカップを手にした。
「あのさ」
瞳子は、私が持って来たクロワッサンに手を伸ばすと、それを口に運びながら、
「佐伯はちょっと私に似てるから」
上目遣いで私を見つめた。
「あんまり人に気を許さないっていうか……。自分の中でだけ、
「安心?」
「そう、安心したの。南なら、佐伯の全てを受け入れてあげられると思ったから」
「……そう…」
この時は、私は瞳子の言葉の意味を深く考えず、軽く頷いただけだった。
けれど、瞳子が放った言葉の意味を、帰宅した私は、まざまざと知ることになった。
「ただいま」
リビングから、テレビの音が聞こえる。まひるちゃん、起きた? と声を掛けようとして、私は戸口で立ち尽くした。
まひるは、出がけに私がポストから取り出した郵便物の前に立っていた。
そして、一枚のハガキのある箇所を、何度も、何度も繰り返し撫ぜていた。
昨夜、私を愛しげに撫ぜてくれた彼女の人差し指が、今はハガキの上を行き来していた。
私は朧げに、そのハガキに鮮やかなチューリップ畑の写真が印刷されていたことを思い出した。
もしかしたら。
そう、そのハガキの差し出し人は、まひるのかつての恋人、紅さんではないかと思った。
-佐伯の全てを-
瞳子が言った言葉の一つが、きっとこのことだったのかも知れない。
真剣で、けれど蒼白く、引きつった頬をしたまひるの姿に、私の心が凍りつくようだった。
(でも)
と、私は顔を上げた。
私は、まひるを愛したい。
彼女の歩んで来たあしあとの全てを認めてあげたい。
例えばそれが、悲しみでぬかるんでいたとしても、私を通り過ぎて去っていくのだとしても…。
「ただいま」
もう一度玄関へ戻り、足音を高くして、何事もないように私はリビングに入っていった。
「…あ、おかえり…」
まひるの指が、ハガキから離れた。
「ご飯、食べた?」
「まだ…」
緊張した、探るような目をしたまひるに、心が乱れた。けれど、懸命に笑顔を作った。
「そう、じゃあ紅茶淹れるね」
「うん。ありがと…」
まひるは、ぎこちなく頷いた。
机の上に置かれたままになったハガキに目線を移し、
「キレイね」
カップを置きながら、まひるに
「うん、綺麗……」
まひるの表情が少し、和らいだ。
私は、もう心が折れそうだった。
ダメージを受けた私の背へ、
「たぶん、あれ出したの、紅だと思う」
まひるが小さな声で言った。
「えっ?」
振り返った私に、さらに言う。
「住所は書いてないけど、名前書いて、消した跡があるの」
近寄ってハガキをよく見ると、そこには筆圧が残っていて、確かに〈紅〉と読めるあとがあった。
(これを撫ぞっていたんだ)
胸が詰まる思いだった。
朝食を済ませると、
「これ、見て」
私はバッグからある物を出してテーブルの上に置いた。
何? というような表情でまひるがそれを手に取った。
あっ、という表情をして、まひるが私を見た。
「瞳子とは、ずっと昔からの友だちなの。まひると初めて会った時、まひるが瞳子の名刺を持っているのが見えて…」
-ああ、だから-
彼女の唇がそんなふうに動いたように見えた。
私たちの関係はとても複雑で、そして曖昧だった。近づき過ぎれば壊れてしまうのに、離れてしまうと崩れてしまう。なのに、絆だけは、日に日に強く結ばれていくようだった。
そして、以前の私ならば、それで満足だった。
私は勇気を出してまひるの背へ回ると、壊れ物に触れるように、そっとまひるを抱きしめた。
「まひるに会いたくて、赤い糸を手繰り寄せたの」
そう。
あなたに会いたくて、私はここまで来た。
「あなたが好き。出会った日からずっと」
私の声に、まひるがゆっくりと振り返った。
まひるは、ただ、じっと私を見つめていた。
瞬きもせずに。ただただ私を見つめていた。
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