第6話
「あまり無理しないでね」
ミルクティーを淹れたカップを、まひるの机の横に置いた。
「うん、ありがと」
パソコンから一瞬だけ目を離して私と目を合わせると、再びまひるはパソコンに向かった。
あれからまひるの仕事が忙しくなり、二人で食事をするどころか、会話すらままならなくなっていた。
(仕事だから仕方ないけど…)
こんなに毎日じゃ、体を壊しちゃう。
私の心配はピークに達してしまっていた。
-瞳子のマンション-
「持ち帰り残業? 何それ」
「だって、毎日毎日夜遅くまでパソコンに向かって…。今朝だって休みなのに、起きてもう仕事してるよ」
「知らない。それに今、うち、繁忙期じゃないし」
ずずっと、瞳子がコーヒーをすすった。
「本当に仕事なの?」
疑わしそうに瞳子が目だけを動かして私を見つめた。
「………それってどういう…」
私の胸が、とくん、と一つ鳴った。
「一応直属の部下だし、入社してから教育してきたの私だから」
そう前置きした瞳子は、カップを手にして横に座った。
「佐伯は、喜怒哀楽が下手なんだよ。その上、変に我慢しちゃうでしょ、強がっちゃって」
瞳子の話に、私は無言で頷く。
「紅さんっていう昔の恋人のことを、佐伯はまだ吹っ切れてないでいる。でも一方で南のことも大切に思い始めてる」
カタリと、瞳子がカップをテーブルに置いた。
「言ったでしょ、前に。アイツ、誰にも相談しないでいっつも一人で抱え込んでるの。南みたいに私に相談したり、気持ちを吐き出したりしないんだよ」
(そ…うか…)
私は小さく頷いた。
「私ね、その、紅さんと会ったことないの。お店には来てくれてたみたいなんだけど、その時間は私、
(それに)
私はとてもずるかった。
そんな魅力的な人に会わないでいて良かったと、心底ほっとしていた。その人の影がちらついたまま、まひると向き合うのが怖かったから。
黙り込んだ私の肩に、瞳子がしなだれかかってきた。
「ねえ、南。私ね、今の私が
「どういうこと?」
「うち、転勤族だったでしょ? あちこち行って、また戻って来ることもあって。また皆と溶け込めるかとか、子供心に不安で心配で辛くて。でも、南にいつも救われてたの。南だけは、会った瞬間から、『瞳子おかえり』って、いつもの笑顔で出迎えてくれた。いっつも、どこでも、何度でも…。変わらず、南は南でいてくれた」
そう言うと、瞳子は
「だから、南は私のかけがえのない人でもあり、初恋の人でもあるの」
「………へ?」
「どさくさまぎれに言っちゃったー」
瞳子が糸のように目を細めて、からっと笑った。
「えっと……」
「小学生の時の話だから。まあ、その小学生の時に、佐伯は紅さんにプロポーズしてるけどね」
瞳子の屈託のない笑顔に、私も思わず笑ってしまった。
「もー、励ますならちゃんと励ましてよー」
「ゴメンゴメン。だからさ、南なら大丈夫って言いたかったの。南は南のままで、佐伯と向き合ってあげて」
(なんだか)
まひるとつき合ってから、瞳子との友情がより深くなった気がしていた。もう一度、私にしなだれかかってきた瞳子を受け止めながら、まひるの事を心配しながらも私は温かな気持ちになっていた。
(あれっ)
アパートに戻ると、部屋が暗く人の気配がしなかった。
「まひる……?」
リビングにまひるの姿はなかった。
開いたままのパソコンに目がいった。普段、触れる事も無いまひるのパソコンに吸い寄せられるように近づき、指を伸ばした。
「あっ!」
再び明るくなった画面を見て、私は思わず腰から崩れ落ちそうになった。
そこには一面のチューリップ畑が映し出されていて、一目でその場所が、あのハガキと同じ場所であるとわかった。
(やっぱり…)
やっぱり、まひるは私のことなんかまるで見ていなかった。
ピエロにすらなれない自分が、憐れで、惨めに思えた。
「もういいや」
床に座り込み、手を後ろにぺたりとついた。
住居の老朽化が進み、店ごと移転しようかと思っていた矢先、まひるからの誘いに喜んで乗ったけれど、ここらで一区切りをつけよう。心機一転、どこか静かな場所で店を開き、私はパンたちと向き合って生きていこう。
「はぁ……」
深いため息をつくと、掻き抱くように近くにあった椅子に頬を乗せた。無気力に目だけを動かして、見るともなしにパソコンの方へ視線を向けた。
(……ん?)
あれ?
私は、ゆっくりと顔をもたげた。
画面に顔を近づけて、食い入るようにある文字を確かめた。
次の瞬間、私は跳ね上がるように立ち上がっていた。
一度握った車のキーを、
(ダメだ、こんな気持ちじゃ事故を起こしちゃう)
もう一度キーケースへしまい、ケータイでタクシーを呼び、私はタクシーに乗り込んだ。
チューリップなんて、一本も咲いていなかった。
そこにはハガキの写真とは似ても似つかない、枯れた残骸たちが一面広がっているだけだった。
紅に会えるなんて、思っていなかった。ただ、紅が訪れた場所に立ちたかっただけだった。
心が追いつかなかった。
紅と同じ景色が見れることを、期待していたから。
膝を抱えたまま、俯いて、ただ、そうしていた。
帰ろうと思っても足に力が入らず、私はただそうしていることしか出来なかった。
その時。
草を踏み分ける音と、優しいあの香りを私は聞いた。
けれど、顔を上げることは出来なかった。
(いたっ)
まひるの姿を見つけると、心の底からほっとした。けれど次第に失望の気持ちが訪れ、そしてそれはどこか、怒りにも似た感情を散りばめていた。
私は深呼吸を一つして、どうにか冷静さを取り戻し、いつもの私になった。
「心配したよ、まひる」
「……………」
膝を抱え、力なく俯いた彼女がそこには居た。長い髪が彼女を守るように流れ落ち、全ての物を拒絶しているかのようだった。
そして、彼女の目の前に広がる景色は、無惨なほど哀しいものだった。
パソコンの画面を見て、日付に気づいた。それは一ヶ月以上も前のもので、まひるがその事に気づかずに来て、枯れ果てたこの景色を見たら、繊細な彼女は打ちひしがれてしまうだろう。そう考えたら、自然と体が動いていた。
「紅さん、まひるに見せたかったんだと思うよ。でも、すごく迷ったんだね。まひるの心を乱れさせてしまうかもしれないから……」
紅さんが見た景色は、一面の鮮やかで美しいチューリップ畑だったに違いなかった。それを、別れても大切だったまひるに見せたくて。でも悩んで……。名前を消したのも、何度も書いて、思い直して消して……、そうこうしているうちに刻が経ってしまった。
けれど、私の言葉に、まひるが首を振った。
「違う」
「違う…?」
「全然違う。私、バカなんだ」
南の言葉は、きっと真実に近かった。
でも、それが何だというのだろう。
「どうしたの? 大丈夫?」
南が私の肩を包むように抱いた。
(でも、今頃気づいてもどうしようもないじゃない)
初めて涙が零れた。
私が
やがて、泣き腫らした顔で、私は目を僅かに上げた。優しげに私を見つめる南がそこには居た。南の唇が動いた。
「ごめんね、まひる。私じゃ、まひるの悲しみも苦しみも埋められなかったよね」
「……え?」
「近いうち、新しい住居見つけて出て行くから」
-ほら-
私は私に語りかけた。
何てばかなの、まひる。
紅が去った後の心の穴なんて、もうとっくに塞がれていたというのに。
何を見ていたの?
何を追いかけていたの?
「もう、まひるは自由なんだよ」
ああ。
大好きな南が優しく
私に別れを告げる為に。
愛しい私の、南が微笑った。
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