第4話
アパートに戻ると、袖口に顔を寄せて、彼女から移った香りを何度も何度も聞いた。
ああ、紅だ。
紅と同じ香りがした。
忘れなければと思いながら、紅の面影に
「あ、そうだ、パン」
テーブルに置いたパンをビニールから出すと、お皿の上へ置いた。メロンパンとクロワッサンの上に、猫とチューリップ、そしてイヌの絵が描かれていた。
「………」
目の前に紅が座っている気がした。紅は、よく私の為に朝食のトーストにチューブのチョコで絵を描いてくれた。このパンに描かれたような、繊細で美しい絵ではなかったけれど、それを見るとだんだん目が冴えて、そしてとても幸せな気持ちになった。
手に取り、口に運んだ。
美味しかった。とても。
別れの朝、彼女が食べていたのもクロワッサンだった。
噛み締めるように食べた。
いい大人が、と思う自分も頭の片隅にいた。けれど、生木を裂くようにして別れて、悲しみや苦しみは別れた直後よりも、数ヶ月後の今の方がはるかに大きくなっていた。どうしようもなく紅に会いたくて、抱きしめたくて、声を聞きたかった。
一時の幻のようなものでもよかった。
(南さんっていうのか…)
貰ったお店のパンフレットに書かれた名前を何度も目で辿った。
明日になればあの人に会える。雰囲気も容姿も何もかも違う。でも、求めずにはいられなかった。
「そういうこと。おかしいと思ったんだよねー」
ソファに深く座り直しながら瞳子が笑った。
-瞳子のマンション-
カラカラと、彼女の持つグラスが音をたて、目の前で揺れていた。
「もうずっと前から、
「だって……。彼女のサイフの中に瞳子の名刺が入ってるのが見えて…。もう一度、どうしても会いたいって思ったから…」
「そっか、それで…。私が離婚したの、別に隠してたわけじゃないんだけど、言うタイミングも無くて。だから旧姓に戻した新しい名刺を作って職場で配ったんだよね。ま、愛称みたいなもんだから、みんな結局広瀬で呼ぶんだけど」
そう言って、からっと笑った彼女は、
そして、その瞳子と同じ会社で、しかも直属の部下がまひるさんだと知って、私は運命すら感じていた。
「で。佐伯は何て?」
「な、何てって別にまだ何も言ってないよ。だってそもそもほとんど初対面に近い感じだったし……。明日うちに来る約束したけど、でもそれもパンに関係してのことだし」
「何してたの? 今まで」
「何って…」
「あのさ、いくらうちで働いてちょっとは顔見知りになったとしても、そこから一歩出なきゃ、ただのパン屋さんとお客さんなだけだよ」
彼女の綺麗な眉が、ぴりりと上がった。
「わ、わかってるよ、そんなこと」
わかってるけど、これが私の精一杯なんだもん。
「一応、佐伯、今はフリーだと思うよ」
「えっ、本当に!?」
「たぶんね。何かをふっきりたいように残業してる。前はちょくちょく元カノが迎えに来てたんだけど、最近見ないし。それがその人……」
饒舌だった瞳子の唇が動きを止めた。
「え…ちょっと……何?」
「いいの? 言って」
「そ、そんなに言いづらい事? ……とんでもない美女…とか……?」
「……別にフォローとかじゃなく、先に言っとくけど南は線も細くて女性らしいし、違う種類で綺麗だからね。でも私が見た佐伯の元カノは、綺麗とか美人とかそういう言葉で言い表せない感じなんだよね」
カタリとグラスを置いた瞳子の右の口角が僅かに上がった。
「何てゆーの? 長襦袢が似合う……みたいな?」
「ながじゅ…ばん?」
「そう。それも白じゃなく、朽ちた
「………」
私は確かめるように、瞳子の脇に置かれたペットボトルをサッと見た。
「まだ
瞳子が笑った。瞳子の唯一と言っていい欠点の一つが、酒グセの悪さだ。しかも本人の記憶がほとんど無い、というからタチが悪い。
「じゃあ…本当の話なんだ」
「前に外回りから戻った時、佐伯を迎えに来てる元カノの前を通ったんだけど、その人、体中から色気がほとばしってて、すごいびっくりしたの。でも、そのすぐ後に佐伯がその人のとこへ駆け寄ってくの見たんだけど、二人で並ぶと佐伯もその人に
瞳子の言葉に、私は固まってしまった。
(いくら)
フリーだとしても、そんな女性とつき合っていたまひるさんに、私みたいな恋愛初心者で、しかも取り立てて特徴のない女が必死でアプローチをしたとして、どうあっても霞んでしまうに違いない。
しおしおと、
「あれ? まさか、もう敗北宣言するつもり?」
ソファから立ち上がった瞳子が冷たく私に言った。
「だって……」
「私さ、彼女出来たの」
「えっ!」
私は驚いて、顔を上げた。
「離婚して、まだ何かもやもやしてる頃に、今の職場の部下から告白されて。佐伯と同期の子でね」
瞳子の手にはワイングラスとワインがあった。
「ゆずきっていうんだけどさ。その子がね、真っ直ぐに、純粋にぶつかってきてくれたの。話すといろいろあるんだけど、とにかく正面突破して、ただただ好きだって言ってくれた。何かね、すごく嬉しかったんだよね」
瞳子はカタリとグラスを置いた。
「恋愛はもういいや…とか思わなかったの?」
「思わなかった。いや、思ってたのかな? でも気づいたら受け入れてた。今では、私の方が彼女無しじゃいられないかもね」
言いながら、照れたように
ワイングラスに広がってゆくワインを見つめながら、
(こんな深い色なのかな…)
ぼんやりと、まひるさんのかつての恋人を思っていた。
すると瞳子が私の横に座り、ごく自然に、私にボトルを差し出した。受け取った私が、今度は瞳子のグラスにワインを注ぐ。
「ねえ、今日は私がいるからいいけど……。瞳子の彼女は知ってるの?」
「私が酔った時の醜態のこと?」
「うん」
「知ってるよ。何もかも全て」
「知ってるの!?」
「まあね」
「あの姿を見せたのっ!?」
私はボトルをテーブルに置き、瞳子の腕を掴んで揺すった。
「うん。つき合う前に全てさらけ出した」
「で、それでもいいって言ってくれたの?」
「むしろ弱い所があって、ほっとしたって言ってくれたよ」
「すごい……何て出来た人なの……」
「でも、それでもいろいろあるんだけどね。今日は南の
「うん、わかった。絶対今度ちゃんと聞くからね」
腕を離して、かしこまって頷いた私を、
「南ちゃんの、そういうマジメなトコが大好きなのー」
まだ酔ってないはずの瞳子が、しなだれかかるようにして私を抱きしめた。そして、
「あー南のいい香りがするー」
すりすりと子猫のように、瞳子が頬擦りしながら目を閉じた。
「こんな風に……」
自然体で彼女を抱きしめられたらなぁ…。
美しい
「ん? 何か言った?」
赤くなった私は、照れ隠しのように少し、微笑った。
「ううん、別に……。あ、そうだ、瞳子にお願いがあるんだった」
「何?」
「あのね…」
目の前で、湯気をたてて食パンがふわりと二つに割れた。
「上手く焼けた。でもまだ熱いから気をつけてね」
湯気の先に南さんの笑顔があった。
-南の店(パン屋)-
「ねえ、まひるちゃん。良かったら、まひるちゃんもやってみない?」
「え? 私?」
「そう。お土産に渡すのは私が描くから。どう?」
南さんが用意してくれたデコレーション用のチョコやチョコペンは、ピンクや白などがあって、絵が苦手な私でも、確かにワクワクした気持ちになっていた。
「はい、じゃあ、せっかくですから…」
「OK! ここにあるの好きに使っていいからね。わからなかったら聞いて」
「ありがとうございます」
しばらくは、二人で黙々と絵を描いていた。
「あー…、やっぱ下手かも…」
私は呟いて、チョコペンを置いた。
イヌを描いたつもりが、どう見てもネコに見える。
「どれどれ……? え? 全然可愛いじゃない、そのネコ」
「…イヌなんです」
「…………イヌ…」
パンと私に交互に視線を送っていた南さんが、たまらず吹き出した。
「あー! 笑ったぁー」
「ゴメンゴメン。じゃあ、手直ししよっか」
私の後ろにまわった南さんが私にチョコペンを握らせ、その私の右手を、南さんの手が優しく包み込んだ。
「ほら。耳を垂らすとイヌっぽくなるでしょ」
南さんに修正されて、私のイヌネコは可愛いイヌになった。
「ホントだー」
はしゃいだ私が振り返ると、
「ねっ?」
優しい南さんの笑顔があった。
「………」
「じゃ、紅茶淹れてくるから、パンで朝食にしようか」
「……はい」
(ウソ……)
私は動揺していた。
今。
この一瞬、私はさみしいと思った。
-離れないで-
そう言いかけた。
まだ、このままでいてって。
私……。
どうしちゃったんだろう……。
「じゃあ、これ…」
「ありがとうございます、いろいろ……。最後まで片付けしなくてすみません」
「いいの、いいの。この後仕込みで使うんだから。こっちこそ送れなくてごめんね」
南さんにお礼を言って、歩き始めてしばらくした時だった。
「あっ、ヤバッ」
私は、お店にケータイを入れた小さなバッグを置いてきたことに気がついた。
(でも、すぐ気づいて良かったぁ)
「あのぉ…すみません、ケータイ……忘れちゃって…」
シャッター横の出入り口から、そっと声をかけた。店を出てまだ三十分くらいだ。
「あのー、南さん…?」
きょろきょろと見回すと、
(いたっ)
ソファに座る南さんを見つけた。
けれど。
(あっ、寝てる…!)
売場の奥に休憩用のソファがあり、そのソファで腕を枕にして、南さんが座ったまま眠っていた。
(…そっか)
早朝から押しかけてしまったのだ。当然の事ながら、その前にいろいろと準備をしてくれて、疲労困憊しているに違いなかった。
よく見ると、膝には南さんのケータイが乗っていて、その横に私のバッグが置かれていた。
(私に知らせようとして、寝ちゃったんだ……)
私は南さんを起こさないようにバッグを手に取ると、中身のケータイを確認した。
(よかった)
安心して一息つくと、ふと南さんの寝顔を見つめた。
(綺麗な寝顔)
整った、上品な目鼻立ちをしていた。
「………」
私は、南さんの横に少し離れて座った。けれど、少しずつ近づいていき、やがてぺたりと体をくっつけた。そして、
南さんのいい香りと、紅とは違う肌のぬくもりが、衣服を通して伝わってきた。
「えっ」
えっえっえっ!?
何で?
何でまひるさんが私の横にいるの!? ってゆーか寝てるし、私の肩にもたれかかってるし!
すぐには状況が掴めなかったけれど、取り敢えず彼女を起こさないように、体を固くしたまま、私は目だけを動かして彼女を見た。
(やっぱり、美人は寝てても美人なんだ)
サラサラと、以前より少し伸びた髪が肩と胸の前後へ流れ落ちて、彼女の呼吸に合わせて揺れていた。
「彼女になって、なんて言えないけど……」
私は呟いた。
「友だちでいいから、まひるさんの傍にいたいなんて言ったら、引かれちゃうよね……」
寝ている彼女へなら、素直に言えた。
「いいですよ」
瞬間、ぱちっと、まひるさんの切れ長の瞳が開いた。
「えっ…あ、えっ!??」
「いいですよ。私のアパートの一室が空いていますから。前に不動産屋の前で部屋、探してましたよね」
「おっ起きて……。でも部屋…は…」
動揺と恥ずかしさで、私の言葉は乱れに乱れた。
「その代わり、私のっ……、私の心の穴を埋めてください」
「え?」
「お願いっ! 私の傍にいて欲しいの!!」
私に縋りつくように、抱きしめてきたまひるさんが、私の胸の中で声を放って鳴いた。
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