第3話

「ラッキーだったァ、まだパン、売り切れてなかったの」

 ゆずきが嬉しそうに満面の笑顔で戻って来た。

「そんなに人気なの?」

「うん、二番目の休憩のグループに入ったら、もうほとんど無いよ」

「ふうん…」

 私は、ゆずきの手に大切そうに包み込まれたサンドイッチへ視線を落とした。


 長く空いていた購買所の一角に、再び新しいパン屋さんが入ったというのは私も知っていた。けれど、それがあの夜に立ち寄ったパン屋さんと同じであるとわかると、私はわざとのように興味の無いていを装い、一度も買いに行かなかった。

 理由は明白だった。

 べにがあのパン屋さんのパンをいたく気に入り、別れる日の朝まで、いそいそとパンを買いに行っていたからだった。


(こんなふうに)

 微笑わらっていた。

 ゆずきの姿と紅の姿が重なって、席に着くまで追ってしまった。


 最近、彼女は綺麗になった。もともと目鼻立ちの整った、可愛らしい顔立ちをしていたけれど、より女性らしい美しさが現れてきた。きっと幸せな恋をしているのだろう。

「——なんだって」

「え?」

「だからぁ、もー、聞いてなかったのー」

「ゴメンゴメン、もう一回言って」

 机にランチバックを置きながら、ごまかすように微笑った。

「だからね……」

「え?」

 私の前に四角いラスクが一つ、揺れていた。

「おまけでくれたの。ほら、食べてみて」

「……じゃあ」

 いらない、とは言えなかった。

「はい、あーん」

 彼女の言葉に合わせるように唇で挟み、そのラスクをゆっくりと食べた。

「どお?」

「うん…甘い…」

「やだー、そりゃそうだよー」

 何が可笑しかったのか、ゆずきは声をたてて笑い転げた。

「うん…」

 紅の事を思い出していた。

 味覚とは不思議なものだ。あんなに避けていたのに、一度食べてしまうと今度は無性に食べたくなった。


 そして。

 会いたくなった。



 仕事を終えアパートに着くと、紅が使っていた部屋へと真っ直ぐ足を向けた。

 どうしても、どうしても寂しくてたまらなくなった時だけ、紅のベッドに横になった。日に日に薄らいでいく彼女の香りに不安を感じながら、それでもそうせずにはいられなかった。


(会いたい会いたい会いたい)

 呪文のように繰り返し心の中で叫んだ。目を閉じ、丸くなった。悲鳴をあげるように、最後は名前を呼んでいた。何度も呼び、呼んではもがいて、身をよじった。別れてから数ヶ月、こんなに狂うように彼女の幻影を追ったのは初めてだった。




(……あのまま寝ちゃったんだ)

 明るくなった部屋で、ぼんやりとしたまま瞼をあけた。紅が使っていた目覚まし時計に目をやると、五時を少し過ぎていた。

(クリーニング出さなきゃ)

 苦笑しながら、ゆっくり上身を起こし、しわだらけになったスーツを脱いだ。


 よろめきながらベッドから立ち上がり、身支度を整えた。サイフとエコバッグを手にして、アパートを出た。

(そりゃお腹も空くよね)

 昨夜は夕食も食べずに寝てしまったのだ。煮炊きするより、パンでもコンビニで買った方が早いだろうと、朝靄あさもやの中をゆっくりと歩いて行った。



 公園を横切ってコンビニまであと少しの所まで来た時だった。

「あっ」

 懐かしい、紅の香りを聞いた気がした。私は思わず足を止め、あたりをきょろきょろと見回した。

 一人の女性が公園前の不動産店の前で、賃貸物件の広告を熱心に見ていた。

「………」

 その女性の肩を撫ぜた風にのせて、僅かに運ばれてくる甘い香りはおそらく香水ではなく、紅が愛用していた柔軟剤と同じだった。肌の弱い私はそれを使用したことはなく、さらには家事のほとんどを紅に頼っていた為に、彼女がどんな洗剤を使っていたかも知らないままだった。

 もう一度、あの香りに包まれたくても、私には出来ないことだった。

 バカみたいだと思いながらも、立ち去る事が出来なかった私に、次の瞬間奇跡が起こった。


「あ………、お早うございます」

 振り返ったそのひとが、私に会釈をしたのだ。しかも、私の方へ歩み寄りながら。

「…お、お早うございます…」

 やがてその人が、購買に入ったパン屋さんだと気づくと、あわてて私は頭を下げた。









(超ラッキーだ)

 私は心を踊らせた。

 こんな所であのひとに会えるなんて。それに今は外注であるとはいえ、同じ建物の中で働いている仲間でもある。私たちは、どうも…、お早いですね…、などと軽い挨拶を交わしたけれど、不思議なことに挨拶をした後も、どちらも立ち去る素振りが無く、それなりに会話を続けたことだった。どころか、少しずつ会話が弾んでいった。


「それじゃ、夕食も食べずに寝ちゃったんですか?」

「そうなんです。朝食作る気力も無くて。もうコンビニでいいかって」

 弾ける様に笑った彼女はとても綺麗で、そして可愛らしかった。

「あの、もし良かったらこれ、食べて下さい」

 私は手にしていたパンを、彼女に差し出した。

「いえ、そんなつもりじゃ…」

「本当にいいんです。お店に試作品で作ったのがいっぱいあって。たまたま、散歩がてら、ちょっと物件に気になるのを見に来て、一応で持って来ただけですから」

「……じゃあ…、遠慮なく…。ありがとうございます」

 両手で受け取った彼女に、

「あ、そうだ。チョコペンがあるんだった」

 手のひらの上のチョコペンを、見える様に差し出した。

「チョコペン?」

「パンに絵を描いたりするんです。どうせ食べちゃうんですけどね、せっかくなら可愛い方がいいから…」

「………」

 彼女の切れ長で大きな瞳が、こぼれ落ちるのではないかと思うほど大きくなった。




「じゃあ次! イヌ! イヌを描いて!」


(これ……無意識なんだろうなァ……)

 私の肘のあたりの服を彼女がぎゅっと握り、どころか私の腕を抱くように密着して私に催促している。もうかれこれ10分も私は彼女のリクエストに応えて、パンにチョコペンで動物や花を描いている。

 彼女の会話のなかから、彼女の名がまひるという名であることを知った。

 綺麗な横顔にドキドキしながらも、彼女が喜んでくれることが嬉しくて、催促されるまま私はパンにチョコペンを走らせた。

「上手! すっごい上手」


(何か……)

 見た目から想像していた人とはかなり違っていた。でもそれは嬉しい誤算であったようにも感じる。

「ねえ、まひるさん」

「ハイ」

 子供のような綺麗な瞳が、私を至近距離で見つめた。

「明日、会社お休みですよね? ウチも珍しく休みにしたんです。良かったら、その日改めてお店の方へ来て頂けませんか?」

「え? お店に?」

「はい。そこならもっとゆっくり丁寧に描けますから。前に一度…」

 そこまで言うと、

「はい、以前に一度……。でもいいんですか?」

「ええ、もちろん」

 私が頷くと、

「じゃあ伺います」

 ぱっと、握っていた私の服を放して、前に立った。

 この時、恋愛経験ゼロの私が、何かを感じ取った。


(私……じゃ、ないんだ……)

 私に誰かを重ねて、彼女は見ていた。この近すぎるほどの表情やしぐさも、たぶん、その重ねている相手に向けていて、普段の彼女がこういう感じなのではなく、大好きな恋人の前の、素の彼女の一面で、時々子供のように無邪気な姿を垣間見せるだけなのだ。

 告白する前に、友だち以上恋人未満の立ち位置に立ってしまった。


(でも)

 それでも嬉しかった。そう、私は嬉しかったんだ。

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