第2話

 -まひるのアパート-


「ただいま…」

 玄関に入ると、いくつもの梱包されたダンボールが否応なしに目に飛び込んでくる。

「お帰りなさい、お疲れ様。私もさっき帰って来たところなの」

 玄関まで出迎えてくれた元彼女のべにが、私をぎゅっと抱きしめた。

 数日前まで最愛のひとであったその人は、今はただの同居人となっていた。

「パン…途中で買ったんだけど、食べる?」

「食べるっ。じゃあ、シチュー温めるわね」

「………」

 私は少しだけ紅の背を目で追っただけで、私室へ向かった。


 こんな時、それぞれ一つずつ私室があるのは有り難かった。

 着替えている間、様々な事を考えていた。此処ここに至るまで、もちろん私は紅が思い直してくれることを、翻意してくれることを願って言葉を尽くしてきた。

『別れたくない』という、ありふれた言葉も、どれほどあなたを愛しているか、必要としているかという恋人としての言葉も、そして『私を捨てるのか』という一人の人間としての、吠えるような魂をのせた言葉さえも。

 でも、彼女の思いは変わらなかった。


「わ、おいし」

 紅が一口パンを食べて目を丸くし、ついで三日月のように細めた。

「うん、ほんと」

 私も素直に頷いた。

 しばらくして、紅が言った。

「これ作ったの、女の人だね、きっと」

「何で?」

「なんとなくね」

 そして、でも、と続けた。

「こういう優しいパンを作るような人に、まひるを託せたら安心なんだけどな」



 勝手だよ、そんなの。

 もう、私のこと好きじゃないから、そんなこと言えるんでしょ。


 前ならそう言って、傷つけて困らせた。

「あ、黙った」

 からかうように紅が笑う。

 どうせ、全て見透かされているのだ。私は何も言わずに、静かにパンを口に運び、彼女より少しだけ先に食べ終えた。


 引っ越しとは関係ないタイミングで傷んだソファを捨てたのを後悔していた。広すぎるリビングに横になると、彼女が居なくなった後の寂しさに耐えられるのかと、現実が迫ってくるようだった。

「ねえ、怒った?」

 ぴとっと、紅が私の背を横抱きにした。

「別に」

「怒ってるじゃない」

 紅が上身を起こして、腰に体を預けて覗き込んで来た。目は微笑わらっている。

 微笑うと、目元に艶めいた香りが生まれ、これほど妖艶な美しさをたたえた人を、私は知らない。


「初めて会った時……」

 ゆっくりと手を伸ばした。彼女の長い黒髪のいくすじかが私の腰の上でたわんでいるのを指先で拾い上げた。

「何て女性の色気に満ちた人なんだろうって思った。子供心に」

「……まひるは小学生か中学生くらいだったわね」

 紅の手に力がこもり、転がされる形で仰向けになった。



 小六の夏休み、友人の家へいつものように遊びに行き、インターフォンを鳴らした。

 しばらくしてドアが静かに開いた。

「ごめんなさいね、ユウちゃん今出かけてるの。すぐ帰ると思うんだけれど…」

 これが紅との出会いだった。



「私、大学受験で東京の親戚宅に滞在してたのよね」

 私の指から髪がすり抜けていく。紅が自分の耳に髪をゆっくりとかけた。

「びっくりしたわ。いきなり結婚してって言われたから」

「して、とは言ってないけど」

「同じでしょ。『どうしたらあなたと結婚出来ますか』って、初対面の女の子に言われたんだもの」

 紅がくすくす笑う。

 答えを、私は鮮明に覚えている。

『じゃあ、大人になったらいつか』

 そんなおしゃれな返答セリフだった。


 そして、私が二十歳の頃、紅の従姉妹である友人のユウと食事をしている時、偶然仕事帰りの紅とばったり会った。

 私を見て、紅は驚いていた。

『まひる…ちゃん…!?』

 大きな瞳を見開いて、大人になった私を確かめるように、紅は上から下へと何度も視線を移していった。


 話すうち二人の記憶も進んでゆき、二度目に会った日で重なった。

「すぐには信じられなかったわ、あの時。すっかり大人の女性になっているんだもの」

 ゆっくりと横臥おうがした彼女のために、私は自然と右腕を広げた。馴染んだ恋人の名残だろうか、誘われるように私の腕に紅は頬をのせた。

「でも、会うごとにどんどん惹かれていった。それにまひる、よく言ってくれたでしょ。ドレスの似合う美しい人はたくさん見て来た。でも長襦袢ながじゅばんの似合う人は紅さんだけだって。何かね、変だけど、すごい嬉しかったの」

「嬉しかったの?」

「そう、嬉しかった。本当の私のまま、飾らなくてもいいんだって。だから『早く私をあなたの恋人にして』なんて思ってた。…思ってたけど、私からは言えなかった」


 別れが決まってから、彼女はふと心のなかにあった、彼女だけが知っている大切な想いの数々を、私に見せてくれるようになった。

 彼女の手のひらから覗くそれらの景色の奥には、裸のままの、少女のような紅が、こちらを向いて、笑ったり、泣いたりしていた。


「ふくざつ」

 私は呟いた。

「ふくざつ?」

 紅の長い睫毛が、ゆったりと上下した。


 失恋わかれという苦しみと引き換えに、あなたがどれほど素晴らしい女性だったかをより知ることになった。彼女を見つめたまま、続く言葉を心の中で投げた。

 彼女は、表情を動かさずじっと私と視線を合わせていた。けれどやがて、紅の吐息が私の耳をくすぐった。

 彼女の濡れた唇が動き、

「残念ね」

 まるで他人事のように、彼女はその一言だけを言い、微笑った。



 数日後、彼女はアパートを去った。

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