あなたのあしあと

【全七話】

第1話

 -金曜日-


 退社時間十五分前。今日終わらせる仕事は全て終わらせ、後はゆっくりと確認の為に資料に目を通していた時だった。

「うそー!!」

 同期で、隣席のゆずきが声をあげた。

「どした?」

 ひょい、と肩越しから覗き込んだ。

「見て、ほらぁ」

 そこには、取引先からの発注メールが届いていた。


『ホントだー』

 メールに気づいた社員たちからあちこちで悲鳴が上がる。この量だと、書類作成に一時間は軽くかかる事は明白だった。

「私、最近残業してないから、私だよね…」

 ゆずきがため息まじりに呟いた。

 肩を落としてがっくりするその姿は、彼女に今夜何かしら予定がある事を知るのに十分だった。

「大丈夫だよ、ゆずき」

 私は、彼女の背にそっと手を置き、ポンポンと叩いた。

「え?」

 そのまま、腰を浮かすようにして立ち上がると、

「私、残りますから」

 頭一つ皆より高くなった姿で、部署を見回すようにして告げた。

「いいの?」

 広瀬主任がデスクから目を上げ、私を見つめる。

「はい。最近少し厳しいんで。残業したいんです」

「そう。助かるわ。じゃあ、佐伯さんお願いします」

「ハイ」

 頷くと。

 仲間たちからの労いの拍手と、感謝の言葉が私に届けられた。それらに軽く会釈すると、キュキュッと椅子を鳴らして何事も無かったように席についた。


「まひる、ありがとー。でもそっか、恋人の誕生日近いって、言ってたもんねー」

 私の背の一部が温かくなる。ゆずきが頬をあて、息を吹きつけるようにして喋っているからだった。

「いーなー。私も欲しーなー」

「自分の恋人に貰えばいいじゃん」

「まひるから欲しい」

「何で」

「同期の星だから。仕事出来るし、きれーだし。性格が男前だから。私なんてミスばっかりだもん。あやかりたい」

 私は首を傾け、まだ私の背に頬をつけたままのゆずきを見た。

 ん? というように見上げているその姿は、計算やわざとらしさなどは微塵もなく、ナチュラルに、純粋にただただ可愛らしかった。



 -カタカタカタ…-


(静かだな)

 日中はあんなに賑やかなのに、今はエアコンの僅かな機械音と私のキーをはじく音がするだけだ。

 陽が落ち、あちこちのビルにネオンが灯りだすと、時々私は外へ目をやり、その美しさを眺めて楽しんだ。


 残業は苦ではない。少なくとも今の私には。

 数日前、私は振られた。年上の同性の恋人だった。

 けれどそれは、つき合う時からの約束事だった。

『私は代々続く家業の総領娘だから、時期が来たら、家業を継いで許嫁いいなずけと一緒になる。それでも、いいの?…』


 -うん、い-

 当時の私は、OKをもらった嬉しさで、彼女の言葉の意味や重さを全く理解せず、満面の笑顔で頷いた。


 日々が過ぎ、私も私なりに大人になっていくと、彼女の言葉が、成長した数だけ私を苦しめた。

 そしてそれは皮肉なことに、彼女への愛情がより深くなることと比例していくかのようだった。


 ある日、彼女が郷里へ戻り、結納を許嫁と交わしたというその日、私たちの関係は、私たちの意志とは無関係なまま、静かに終わった。


「はぁ」


 人差し指でポンッと最後のキーを押す。コピー機が音をたて動き出すと、私はもう一度深いため息をついた。


 出来上がった書類を専用の引き出しに入れ、戸締りをすると、

「終わった…」

 しなやかに伸びをした。

 それなりの達成感にしばしの間ひたり、けれどすぐ現実に戻った。

(お腹すいた)

 予定よりは早い帰宅時間ではあったけれど、七時はとうに過ぎていた。

 タイムカードを押し、警備員さんに挨拶して外に出る。通りには人影もまばらなのに、バス停には、いつもの帰宅時間には考えられないくらい多くの人数が列を作っていた。

(歩くか)

 アパートまでは二キロ程で、歩けない道のりではない。途中のコンビニで夕飯を買って帰ろう、そんなことを考えながら歩き出した。


 一キロも歩いただろうか。

(あれっ)

 私はゆっくりと歩を止めた。


 -手作りサンドイッチ-


 明かりの灯った看板があり、大通りから少し入った路地の奥にそのお店はあった。目的としていたコンビニもこのすぐ先にあるが、なぜだか妙にそのお店が気になってしまった。


(いいや、今日はコンビニはやめた)

 だって、いつでも行こうと思えば行けるんだし。

 今日はあのお店のパンを買おう。こんな日じゃなきゃ行かないから。


 私は心の中で言い訳を考え、つま先を方向転換させた。








「いらっしゃいませ」

 扉の開く音がして、いつものように、私は笑顔で音のする方へ顔を向けた。

「………」

 この日まで。

 そう、この日まで私は、誰かに本気で恋をしたことがなかった。それに対して何の疑問も持たず、悩んだ事もなかった。大好きなパンを作り、そのパンたちに囲まれて仕事をしている自分は、とても幸せだと思っていた。たまに趣味のイラストを描いて、翌日にはまたパン作りをして……。

 なのに。

 私は、三十歳を目前にして。

 溢れるほどの思いと戸惑いをのせて、この夜、たった一度出会っただけの女性に一目惚れしてしまったのだ。

 そのひとは、セミロングの絹のような艶やかな茶色の髪と、こぼれるほどの二重の大きな瞳を持ち、背がすらりと高かった。最近頻繁に流れているコートのCMに出ているモデル、HALにとてもよく似ていると思った。

「た、ただいまの時間は全品半額です……」

 私が声をかけると、

(ハイ)

 というように、目礼を返してくれた。


 そのひとは、野菜のサンドイッチとチョコレートマフィンをそれぞれ二つずつ選び、レジの前に立った。

 -カチカチッ-

(あれっ)

 -カチカチッ-

 すでにビニールに個別包装してあるパンを紙袋に入れるだけだというのに、手先のトングがうまくパンを掴めず、パンはまるで踊るように私を避けた。背中は、汗のスジが何本も流れている。焦れば焦るほど、私はギクシャクとした動きでトングを鳴らすだけだった。

「すっ、すみません」

「いえ」

 女性は穏やかに微笑わらった。

「別に急ぎませんから」

 その言葉に、勇気を出して視線を上げた。


 綺麗なひとだった。こんな人が恋人になってくれたら一生大切に幸せにしてあげるのに、などと、らちもないことを考えていたら、彼女が手にしていたサイフのふちから、見覚えのある何かを見た。

(あっ)

 恋のキューピットが、こんな私を愛しく思ってくれたのだろうか。視線を下げた私は少しずつ冷静さを取り戻し、パンは二つともカサカサと少し乾いた音をたてて紙袋へと入っていった。




 -数日後-


 私はある人へと電話をかけた。

「あ、もしもし瞳子とうこ? 南だけど……。そう、あの話ね、ありがたく受けさせてもらおうと思うの……」



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