第5話

 -すみれの実家-


 外の水道で長靴の泥を落としていると、野菜を抱えた母に声をかけられた。

「今度の公園掃除、お父さんの代わりにすみれ、あんた出てくれない?」

「農産物店の横の公園?」

「そう、今度の日曜日。お父さん腰痛めてるのよ、今」

「まぁいいよ、別に」


 たまの休日が半日潰れるのは痛いが、コウキと別れて会社を辞めてから、私は両親におんぶに抱っこだった。

「助かるわぁ、ありがとありがと」

 私の横を野菜を抱えた母が通り過ぎていった。



 -日曜日 公園-


(ウソでしょ!!)

 私は目を疑った。

 集合時間ギリギリで公園に入ると、すでに輪が出来ていて、その輪の中にコウキの姿があった。


「ああ、すみれちゃん。制服代わりにしようって頼んでた白いトレーナー揃ったって、『A』の店長さん持って来てくださったの」

 商工会の、角田会長の奥さんが、にこやかに近づいて来た。

「えっ、だってあそこのお店……若者向け…じゃ…」

「他のトコはサイズが揃わなくて無理って断られ続けてねえ。じゃあ、って娘から聞いた『A』のお店にダメ元で電話して聞いたのよ。そしたら店長さん快諾してくれて。それに、いいって言ったのに今日も手伝って下さるって言うのよ。美人で、仕事出来て優しくて。私が十歳若かったらつき合っちゃうわねー」

 そう言って、角田会長の奥さんは笑った。

「あ…はァ…」


 ダメだ。

 頭がぐるぐるしてきた。

 気づけば、コウキは角田会長と雑談していて、すっかりこの場に溶け込んでいた。


 やがて軽い説明が終わり、作業が開始すると、

「あっち、落ち葉すごいよ。行こう」

 私の持っていた竹ボウキが、優しく引かれた。

 コウキだった。

「あ…、あ、うん」

 私は頷いた。


「こんなの、高校の頃以来だよ。自分が気づかないだけで、誰かがやってくれていたんだね」

 コウキが落ち葉を掃きながら微笑った。

「私だって今日初めて参加したの。お父さんの代わり」

 私はしゃがんで、コウキと集めた落ち葉をビニール袋に押し込んだ。

「でも不思議だね。やってるうちに夢中になる。それにすみれとやってるからかな、すごく楽しい」

「えっ」

 私は思わず手を止めた。けれど、コウキの方を見る勇気がなく、そのまま固まってしまった。


「ねえ、すみれ。その指輪って、結婚指輪じゃないの?」

 私の正面に影が生まれた。

 コウキが、私の前にしゃがみ込み、私を見つめているようだった。

「え…、えっと……」

「違うの?」


 辿たどるように視線を上げると、コウキの視線とぶつかった。かつて見たことの無いほど真剣なコウキの表情に、私は全てを語る決心をした。

「結婚指輪……じゃない…」

「結婚してないの?」

「してない。恋人もいない」

「そう…」

 コウキが言葉少なに頷いた。

 再び私は下を向いた。コウキは怒っているんだろうか。


「あのね、コウキ」

 私は俯いたまま、言葉だけは続けた。

「この指輪、コウキがくれたんだよ」

「ウソ!?」

「まだつき合う前に、中学の時」

「ウソだ。私、そんなのあげてない」

「ううん、くれたの。お祭りで…」

「祭り?」

「そう」

 私は頷いた。

「私はあの時、確か従姉妹のお姉ちゃんたちとお祭りに来てて…。で、コウキは部活のコたちと来てたの。でね、私たちはカワイイ指輪とかアクセサリー売ってるお店で、みんなめいめい気に入ったの買ってたんだ。で、私はこれが気に入って買おうとしたの。それでお札出して買おうとしたら、お店のおじさんが『釣り銭がないからダメだ』って言って」


 話しているうち、私の目にはあの日のあの光景が、ありありと蘇って来た。


「で、お姉ちゃんたちも、こまかいの、もう持ってなくて。仕方ないからあきらめて帰ろうとしたんだよ。そしたらね、通りかかったコウキが、今みたいにしゃがんで声をかけてくれたの。『すみれ、どうしたの』って」

「私が?」

「そう。それで事情を説明したら、『何だ、そんなことか。だったら私が買ってあげるよ』って」

「………」

「実家に大切にしまってたの。私、コウキとつき合ってた頃、かたくなに指輪だけはいらないって言ってたでしょ?」

「うん」

「それはね、この指輪以上にはどんな高価な指輪貰っても喜べないって思ったからなの。あの頃は片想いで、コウキ、めちゃめちゃモテてたし……。だから、コウキから指輪貰ったんだって、もう天にも昇るくらい嬉しかった」

「三百円……、そう、たった三百円だったのに?」

「思い出したの?」

「うん、思い出した。すみれが、ちょうちんの明かりで何度も確かめるように見てた…」

「コウキと別れた後、実家に戻ってこの指輪見た時…、辛くて…苦しかった。でも、自分がしでかした事だもん。もう一度あの頃みたいに片想いになっちゃったって…」

「それが…その今してる指輪…?」

「そう。0から…、ううん、マイナスからやり直し。だって私、コウキの一番会いたくない人になっちゃったんだもん」








(は? 何だよ、それ)

 私はすみれの話を聞いているうち、無性に腹が立ってきた。

 マイナスからやり直し?

 八年だよ?

 八年経って……。何にもないじゃん。

 やっと私たちは再会しただけ。

 ただ、それだけだった。


 遠くで、作業の終わりを告げる声がした。

「…コウキ?…」

 何も喋らなくなった私を心配して、すみれが覗きこむ。

「ねえ、すみれ。後で私のアパート、送ってくれない? 今日歩いて来ちゃったんだ」

「え? うん、もちろんいいけど…。でもいつも乗ってる軽トラだから汚れるかもしれないよ」

「私だってこんなじゃん」

 ジャージには、適度に土埃がついて汚れていた。

「そっか」

 すみれが笑った。

 この日見た、すみれの飾り気のない笑顔は、私の心にこびりついた、かたくなで醜い何かを完全に溶かしていった。








 軽トラくるまに乗り込んでから、極端にコウキの口数が少なくなった。

 車窓に目をやりながら、時々私の話に相槌を打つ程度だ。私はなるべく陽気な話題を見つけようとしたけれど、やはり八年の歳月が私たちの間には目に見えない壁となってそびえているようだった。


「あ、そこ。その白い建物」

「あ、これ」

「うん」

 公園から車で十五分程度。隣町とはいえ、私たちはそれなりに近い場所で生活していたのだ。

「着いたよ」

 サイドブレーキをひいて、私は最後くらいはと、明るく微笑わらった。


 その時。

 コウキの手が伸びて来て、私の腕を掴んだ。

「何? どうしたの?」

「すみれ、私とやり直して。もしも無理なら親友やめる」

 コウキが私の目を見つめて言った。

 一瞬、何を言っているのか理解が出来なかった。

 私がそれに気づいたのは、コウキがこわばった表情で続けた次の言葉だった。

「一分待つから考えて」

「あっ」

 それは、私が高校の卒業式の日、つき合って欲しいとコウキに告白した言葉と同じものだった。

「十秒…」

(えっ……ウソ)

 そうか。

 あの時、私も秒数を数えていた。

「三十秒…」

「わ…、私もやり直したいっ、コウキと、もう一度恋人になりたいのっ」


 私は叫ぶように、ほとばしる思いを言葉にした。

 直後のことは記憶がない。気がつくと、私はコウキに抱きしめられていた。









「すみれも二十秒残したね」

 部屋に入って、すぐに私は確かめるように、もう一度すみれを抱きしめた。

「私が小さい人間だから、迎えにいくのに八年もかかっちゃった。すみれ、ごめんね」

「そ、そんなの! コウキに非なんて一つも…」

 反論しようとしたすみれの唇を、私は私の唇を重ねて塞いだ。


 ケンカをする時間も、問答をしている時間も、私たちは使い切ってしまったのだ。すみれもそれに気づいたのか、私たちは指を絡め、舌を探り、お互いがお互いを好きだという事を、言葉以外のことで伝え続けた。

 私たちは、八年越しに言葉も時間も越えて、やがてもつれ合うようにベッドへ倒れていき、恋人同士と呼べる関係へと戻っていった。


「夢みたい、コウちゃんとこうしてること…」

 すみれは、繋いだままの私の右手を、指先で確かめるように撫ぜた。

「私もだよ。あと自分の体力にも驚いてる」

 もう、緩やかに陽も傾き始めていた。

「私、さっき、やり直してって言われたこともびっくりして嬉しかったけど、親友やめるって言われたこともすごく嬉しかった。離れていても、別れていても、親友だったんだって。コウキの言葉が嬉しかった」

 天井を向いていたすみれが、こっちを向いた。

 きっと、苦労したのだ。私なんかよりもずっと。どれだけ後悔し、泣き、寂しい夜を一人で耐えてきたのだろう。

「綺麗なをしてる」

 私はそう言った。姉の言葉に嘘はなかった。

 もう一度、上身からだを起こして、唇を重ねた。


「お腹すいたね。私が何か作るよ」

「ううん、コウキは休んでて。私が作るから」

「えっ」

 私はぎょっとして、すみれを見た。

「あー、私が料理出来ないとか思ってるんでしょ」

 すみれはつんとした唇を、さらに尖らせた。

「だって…。ひどかったじゃん、昔…」

「八年も経ってるし、今は実家でほとんど私が作ってるんだから。『いつでも嫁にいけるな』って、太鼓判押されてるんだからね」

「………」








 疑わしそうにコウキが私を見ている。

 目は口ほどに物を言うとはこのことだ。

『マジかよ、作るのかよ』

 そう言っている。

「気が散るから、あっち行ってテレビでも観てて」

 コウキをソファに追いやると、冷蔵庫の中の物を借りて、適当に二品ほど作った。


「はいどうぞ」

 肉じゃがとレンコンのきんぴらをテーブルに並べた。

「………」

 コップを食器棚から出しながら、ちらちらと、コウキの視線が料理を撫ぜた。

 麦茶で軽く乾杯をした後、

『いただきます』

 二人で手を合わせて箸を取った。


 コウキが肉じゃがを一口食べた。

「どう?」

「………うん、美味しい」

「本当に?」

「うん。すごく美味しいよ」

「良かった」


 食事を終えた後、ぽつぽつと思い出話が咲き出した。私の知っているコウキは、せいぜい二十歳くらいまでのコウキだ。その後のことは知らない。こんなに近くにいたのに、風の噂にも私はコウキのことをほとんど知ることはなかった。会話の中で、お互いの空白が少しずつ埋まってゆくようだった。


 やがて時計が八時を回る頃。

「そろそろ私帰るよ」

 テーブルのお皿を重ねながら、私が言った。

 すると、

「じゃあさ、明日からここへ帰って来なよ」

 コウキも立ち上がって、同じようにテーブルの上の物を片付け始めた。私はきょとんとして、コウキの背を目で追った。

「だって、いつでも嫁に行けるって言ってたじゃん。それに、本当だって確信もしたし」

「…それって…」

「また二人で一緒に暮らそう」

 コウキが微笑わらった。

「私だって八年で少しは成長したと思うよ。すみれが不安にならないように、そばでちゃんと支えてあげるから」

「…コウキ…」


(もうだめだ)

 我慢なんて出来るはずが無かった。

 私はコウキの胸に飛び込んでいった。ずっとずっと夢に見て、でもそれは夢でしかなく、もしかしたら夢ですら無い、淡い、淡いものだった。

 あの頃と違い、しなやかで、やわらかな体つきになったコウキの体を、確かめるように抱きしめた。

「いいの?……本当に、私で……」

「すみれがいい、って言ってるんだよ」

 コウキの手が私の背にまわり、私たちはもう一度しっかりと抱き合った。


 離ればなれにあった私たちの秒針は、この時重なり合い、再び一緒に刻をきざみ始めた。そしてそれはもう二度と、止まる事もすれ違う事もなかった。




                  完




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