第2話

 少し開いた窓から、すみれの声がした。


「………」

 やがて二人の会話が、はっきりと聞き取れた。

 聞き覚えのある声だった。

 誰だろう……。


「ありがとう、留美子さん…」


(留美子さん……⁉︎)

 それはすみれの会社の上司で、ある女性の名前だったことを私はおぼろげに思い出した。

 何かで1、2回挨拶をしたことがあった。

(でも……どうして……)


 あ、そうか。

 忘れ物を届けに来てくれたとか?

 私が居なくて、心細くて寂しかったとか?

 物騒だ、なんて思ったのかもしれない。

 十分考えられた。

 なんだ。

 きっとそうだ。

 私はほっとして、階段を登っていった。


「すみれちゃん…」

 ドキッとする甘い声がした。

「そんなにくっついたら洗えない…」

 それに答える、はにかんだようなすみれの声。

「だって、あなたの後ろ姿…可愛すぎるの…。それに今更照れることないじゃない…」


 二つの影は、私の目の前で重なり合い、一つの大きな影になった。


 私たちの愛の巣が。

 私たちの関係が。

 音をたてて崩れていった瞬間だった。




「ただいま」

「お帰りー!」

 玄関に飛ぶように現れたすみれは、満面の笑顔で私を出迎えてくれた。

 私は昨日実家へ帰り、そして本来告げていた日時の通りに帰宅した。

「うん……」

 靴を揃えるふりをして、用心深く家の中を見回した。

(やっぱ)


 違う。

 他人が出入りした、何とも言えない何かが、私をどんどん不快にさせていった。


「シャワー浴びていい?」

「もちろん。あ、カレー作ったんだよ。食べるでしょ?」

「すみれが作ったの?」

「そうだよ」

 彼女は私の目を真っ直ぐ見つめたまま頷いた。

「私の為に、料理苦手なのにわざわざ作ってくれたの?」

「…うん、そうだよ。コウキ、カレー好きでしょ」

 一瞬。

 彼女の瞳が左右に揺れた。

「ありがと。その気持ちが…嬉しいよ」

 唇のさきを上げ、少しだけ微笑わらってみせた。


 私も。

 すみれも。

 嘘つきだった。


 私は今日、彼女と。

 すみれと別れる決心をしていた。








(大丈夫、気づいてない)

 バスルームの扉が閉まる音がすると、私はほっと一つ、大きく息をついた。


 コウキのことは大好きだった。

 顔も、引き締まった体も、性格も何もかも…。

 でも。

 平凡だった。

 素直で、スレていないコウキに、時々あえて波風を立てるような言い方をしてケンカをしかけた。

 困ったような表情をして、謝るのはいつもコウキの方だった。


 会社の先輩の留美子さんは、入社したころ私の教育係で、優しくて、大人の色気があって、博識はくしきで、私のどんなくだらない話も、どんな難しい話の投げかけにも話を合わせられる、頭のいい人だった。

 そして、しばらくして彼女の気持ちに気づいた。


(コウキとつき合う前に留美子さんと出会っていたら、二人を比べられたのにな)

 時々そんなことを考えた。

 コウキを好きなのに、コウキが運命の人だと落ち着くのに抵抗する自分がいた。


 それに…。

 もっともっとコウキに愛して欲しかった。

 私に夢中になって、でもいつも安心しないでドキドキして欲しかった。

 私はモテるんだよ。うかうかしてちゃダメなんだよって。

 だから。

 留美子さんの気持ちを受け入れた。

 一回だけ。

 たった一回だけの過ちだった。

 そう。

 一度だけ…。








「さ、コウキ食べよ」

 すみれの声とともにスプーンを手に取ったが、持ち上げたスプーンがやけに重く感じた。

 私はカレーをすくい上げて、けれどやはり皿の上にスプーンを置いた。

「どうしたの?」

 すみれが私を見つめた。


「……別れてほしい」

 私は視線を上げた。当たり前のように、そこに愛しい人の姿があった。

 すみれは、少し微笑った。

「え? 何で? どうしたの、いきなり」

「別れてほしい」

 二度目は、自分でも驚くくらい冷静に言えた。

「どうして?」

 すみれもスプーンを置いた。

「え? 何で? 嫌に決まってるじゃん。ムリだよ、そんなの! 理由は? 理由を教えてよ!」

「私の為にも、すみれの為にも言いたくない」

 私は視線を背けた。背けた先に、扉が開いたベッドルームが見えた。

「あっ」

 確かに。

 この時、悲鳴のような、彼女の声を聞いた。


 私はポケットから合鍵を取り出すと、テーブルの上へ置いた。

「私も一旦実家に戻って、考える。この先のこと」

「やだ……、いやだ、別れたくない……。いやだ、やだよ、私、コウキしか……コウキが居なきゃ……」


 全てを覚った彼女の涙は、本当の涙に見えた。顔を振った時、ほどけた髪が肩と背へ広がり落ち、こんな姿で泣き続けてもなお、すみれは美しかった。

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