第39話 対価

「全く、嫌になる。こうやって見ていると、なんとも簡単にやってのけているように見えてしまうからね」


 桜花は親指の爪を噛みながら、悔しそうな素振りを隠そうともしなかった。


「簡単なんかには、見えないけれど……」

「いいや、幽世での戦いは単純な力比べじゃない。妖魔と対峙し、その攻撃の全てを払いのける……それは目に見える以上に圧倒的な力の差が有ってこそだよ、監視者さん」


 事実、桜花と一姫は最初の場所から一歩も動けない。

 充満する妖魔の気配が彼女達にも絡みつき離さない。


(彼女も身を竦ませているってことは、妖魔からの気配を感じているってこと。この世界に彼女が来てしまったことといい……ああ、こっちもこっちで嫌な話だ)


 桜花から視線を向けられていることにも気づかず、一姫はただ触手の攻撃を弾き続ける晶を見つめる。

 何も声をかけられない。

 彼女にできるのはただ、見るだけ。監視者という役目がただの皮肉にしかなっていない。


「どうして、晶はあそこまで戦えるんですか。こんなに、重く、苦しい世界で」

「鈍感なのかもね」

「私は真面目に――」

「僕もふざけてはいないよ。実際、師匠は鈍感なんだ。人の心に。殺意に。だって……あの人の頭には、ただ妖魔を殺すことしかない」

「そんなのは、まるで……」


 兵器だ、という言葉を一姫は寸でのところで飲み込む。

 口に出し、頷かれてしまうのを恐れたからだ。


「あの人にとって妖魔との戦いが存在の全てなんだ。誰も奪わせず、殺し尽くす。僕はあの人を師なんて仰いでいるけれど、教えを受けたわけじゃない。ただ、少しばかり恩が深くてね……でも、とてもあの人のいる場所には届かない」

「会長……」

「ねぇ、監視者さん。君は師匠の……五条晶の監視者だから、師匠のことを一つだけ教えておいてあげるよ」

「晶の、こと……?」

「師匠がどうしてあそこまで強い存在なのか。そして、人として欠けているのか」


 なに、あの人はこのことを公言しているから君に話しても問題無いだろう。

 そう場違いな笑みを浮かべ、桜花は血だらけの晶へと目を向ける。一姫にはその目に宿る感情を読むことはできなかった。


「あの人は捨てたんだ。妖魔を殺す為だけに、人間が持って然るべきものを」

「人間が持って然るべきもの……?」


 桜花はトントンと、人差し指で自身のこめかみを叩く。

 そのジェスチャーと、先の屋上での会話で、一姫は気づく。まさかと目を見開く。


「記憶だよ」


◇◇◇


「記憶……?」


 菫は呆然と呟く。

 相変わらず触手からの攻撃を防ぐため、晶は彼女に背を向けたまま頷いた。


「ああ、それが俺が退魔師として捨てたものだ。正確には5年より前の記憶。今だって1秒経つごとに、5年1秒前の記憶からどんどん消えていっている」


 菫の心を開く為、彼には手札が無かった。

 同年代の、それも女子の心を引き付けるような話題は持っていない。こればかりは近くに御堂一姫という少女がいたのだから、せめて向き合っておくべきだったかもと反省しているが。

 しかし、今更悔やんでも時間が戻る筈もなく、彼は唯一のカードである“自分”を切る他なかった。


「どうして自分がそういう選択をしたのか……もう俺は覚えちゃいない。何分5年より前の話だからな。分かっているのは、俺の頭が5年しか記憶できないポンコツだってことと……妖魔を殺さなきゃいけないってことくらいだ」


 彼は覚えていない。

 もう5年以上会っていない家族の顔も名前も。それ以上の期間会わない同僚や友人――かつての友であり婚約者であった御堂一姫のことさえも。


「冗談……ですよね?」

「こんな状況で冗談を言えるような人間なら、俺は今頃とっくに死んでるよ」


 人間としては欠陥だが、しかし、退魔師として、この記憶の欠落こそが何よりも強い力を生み出していると晶は理解している。


 記憶を失うということは、想像よりも遥かな喪失感を生む。

 ましてや晶は今この瞬間も、少しずつ、5年よりも前の出来事を知らない内に忘れていっている。

 そこにどんな出会いがあっても、どんな感動があっても、決して止めることはできない。


「俺は、毎日記憶を殺している。知らない内に、確実に……だから、妖魔を殺さなくちゃいけない」

「ど、どうして……」

「俺は妖魔を殺す為に、記憶を失くしているんだ。だから、それを成さなくちゃ浮かばれないだろ。どうして自分は消えなくちゃいけなかったんだって、記憶が駆り立てるんだ」


 投資をするのであれば、十分な見返りを得なければ納得はできない。

 家族や友人を失うほどの対価を支払っているのだ。妖魔も殺せないで、一体何の意味があるというのか。


 晶も人間だ。人並みの感情がある。知りたいという好奇心だって持つ。

 未知への興味は人の原動力だ。人間であっても、退魔師であっても、人は誰しも未来を歩むために生きている。


 しかし、彼にとってそれは失うと約束されたものだ。

 興味の裏にはいつも恐怖が張り付いている。出会いも、別れも、なにもかも、5年経てば消えてしまう。


 そして消えた記憶は呪いとなって彼に力を与え続ける。敵を殺す力を。


「俺はどうして、こんな呪いを自分にかけたんだろう……そう思わない日は無い」


 その言葉は自問自答のように、彼の口から零れ落ちる。


「怒りと、悲しみと、後悔と、恐怖と……そういったものが俺に力を与える。俺が永遠に覚えていられるのは、俺が五条晶という退魔師で、妖魔を殺す以外に、捨ててきたものへ報いることができないってことだけだ」


 彼は知っている。

 どんなに楽しい時間も、つらい時間も、5年経てば平等に彼を戦いへと駆り立てる燃料に変わる。

 そして彼は永遠に妖魔という存在を許すことなく、戦い、殺し続ける。それ以外にもう生き方は残ってはいないのだから。


――まるで鬼だな。君は。


 かつて誰かがそう晶を評した。

 5年以内でまだ彼の中にあるが、既に遠く霞んだ記憶だ。


――こんな言葉がある――意味は、『亡霊の泣き声が恨めし気に響くさま。転じて、恐ろしい気配が漂い迫りくるさま』という。なんとも君に相応しい言葉だ。


 切り捨てた過去の記憶という亡霊は、切り捨てたという事実だけを晶に残し、そして、今を生きる晶はその怨念に背を掴まれ、足を止めることもできず、ただ1人の鬼となって妖魔を殺し続ける。


――五条晶。君こそ、『至天』に相応しい。


 退魔師として、これ以上なく強力で、恐ろしい存在に与えられる称号、『至天』。

 いつの日か、これに選ばれた際の記憶も晶の中から消え失せ、そして、最強の退魔師であるという現実だけが刻まれる。


 現在7人だけが選ばれた、退魔師の枠からも逸脱した退魔師である『至天』の1人。

 その二つ名は『鬼哭啾々』。


 鬼だ怨念だと、人の枠組みから追い出された名を受けようとも、彼が揺れることは無い。

 他者からどう定められようが、恐れられようが、彼の生き方は一つだけしか残されていなかった。


 それ以外の夢も希望も、既に忘れてしまったのだから。

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