第25話 青春体験
本を捲る音だけが聞こえる。
週に一度の余計な時間だと思っていたものが、案外良いものであると、晶はいつからか思うようになっていた。
しかし、今日はページをめくる手が妙に重く感じた。
汐里から勧められて読んでいるライトノベルも一巻を読み終え、二巻に進んだ。
手を出したばかりのまだ冒頭であるが、本当に同じシリーズの、同じ作者が書いたものかと疑いたくなるほどに内容が頭に入ってきていない。
登場人物達も、舞台も、何一つ変わっていないというのに、一巻で見た彼らがまるで幻だったように思えてしまう。
「はぁ……」
栞も挟まずに本を閉じ、溜め息を吐きながら目頭を揉む。
そんな晶を、汐里はただただ気遣うように見ていた。
「つまらない、かな?」
「え……いや、そんなことはないよ」
晶は咄嗟に嘘を吐いた。
この本をつまらないと言うことは、勧めてくれた汐里を否定するのと同意だと思ったからだ。
「ふふっ、つまらないって顔に書いてあるよ?」
しかし、取って付けたような嘘はあっさりと見破られてしまう。
汐里は彼女らしい、控え目な笑い声を漏らす。
「1巻は面白かった?」
「面白かった……と、思う。登場人物は生き生きしていたし」
「そっかぁ、よかった。キャラクターが可愛いって評判のシリーズだから」
汐里は嬉しそうに笑う。彼女もこのシリーズが好きなのだとはっきり伝わる笑顔だった。
「1巻が面白かったなら2巻が劇的につまらなくなるっていうことは、あまり無いかもしれないなぁ。コンセプトは変わらないし、それに五条君が読んでるのはまだ最初の方だから……」
「んん……」
「もし、本当につまらないと感じているなら、もしかしたら五条君自身の問題かも……」
汐里は晶の反応を伺いつつ、一歩踏み込む。
汐里の性格を思えば考えもしなかった発言に、晶は目を丸くする。
「私ね、昔、凄くつらかったとき、そのつらさを紛らわせたくて、大好きだった本を読んだことがあるの」
所々つまりながら、たどたどしく、それでも汐里は口を止めない。
晶でも彼女にとって自分のことを話すのは抵抗があるのだと察するには容易かった。
「でも、大好きだった筈なのに全然楽しめなかった。読みづらくて、頭に入ってこなくて、もやもやして……ああ、このままじゃ私、この大好きな本のことも嫌いになっちゃうって」
汐里は悲しげに微笑む。
そして、少し間を置き、晶の目を見つめた。
「私、本はただ私を癒やして、楽しませてくれるものだと思ってた。でも、違うの。本はいつでも変わらず同じことを書いていて、変わるのは私の方なんだって。だから、本が読みづらいって感じたら、きっと私の方に読む準備ができてないんだって……今はそう思ってるんだ」
おそらく汐里の頭にはその大好きだという本が浮かんでいるのだろう。
晶には……手元の本ではなく、ある少女の姿が見えた。彼女は最後に見せた弱く悲しい目で晶の方を見ている。
「……そっか」
「あ、ご、ごめんなさいっ! 私、なんだか説教みたいなこと——」
「いや、全然。たぶん俺もそうなんだと思う。気にしないフリして本当は気にしてるんだ」
菫にそういう特別な感情を抱いているわけではない。
しかし、傷つけてしまっていたらとどこかで気にし続けていた。
他者と殆ど関わらないからこそ、晶は臆病になっていたのだ。
晶は自嘲するように弱い笑みを浮かべ、持っていた本をカウンターに置く。今日はもう読み進めないという意志を込めて。
「ありがとう、汐里。心の靄が少しばかり晴れた気分だ」
別に何か解決したわけではない。前に進んだかも分からない。
しかし、自分が今何を考えているのかようやく晶は自覚できた気がした。
そして、それを気付かせてくれたのは読書体験の機会をくれた汐里であり、感謝の気持ちも確かなものだったのだが――
「しおっ——!?」
バフッと音が聞こえそうなほど急激に顔を赤くし、思わず読んでいた本を落とす汐里を見て晶は自身の失敗を悟った。
いや、気づいたと言ってもいいだろう。
無意識の内に、学生モードではなく素の彼として、汐里のことを名前で呼んでしまったことに。
「あ、悪いっ! じゃなくてごめんっ、友利さん!」
そう、図書室という静黙な環境であるにも関わらず大声を出してしまう。
あいにく連休前ということもあり、他に生徒の姿は無く、両者とも苦手とする注目を浴びるという事態は免れたが。
それでも、気まずさは霧散することなく空気中を漂い続けている。
「ああ、ええと……」
元々不慣れな、弱気な高校生という仮面。剥がれるのは一瞬だ。
遡れば、菫の前であっさり解いてしまったのも、晶がどうしようもない窮屈さを感じていたからだ。
そして菫の時と同様のミスをしたと悟った晶は内心身構える。汐里からも、菫と同じ、あの悲しみをたえた目を向けられるのではないかと。
対する汐里は慌てて落とした文庫本を拾い、晶から逃げるようにその本で顔を隠す。
当然、文庫サイズで顔の全てを覆えるはずもなく、頬も、耳も、首筋までも真っ赤に染まっているのは見えてしまっていた。
互いにとって永遠に感じる沈黙が流れる。
図書室には他に人はなく、助け船を出すものもいない。
チコチコと、備え付けの時計が秒を数える音だけがやけに大きく響く中、先に声を上げたのは——汐里の方だった。
「……ら、くん」
「……え?」
「あきら、くん」
絞り出すような声も、沈黙が支配する図書室にはよく響いた。
汐里は爆発しそうなまでに顔を赤く染め上げ、潤んだ瞳を晶に向ける。
「その、名前で呼ばれたので、呼び返して……みたり……」
まるで霞のように語尾を沈めながら、もじもじとする汐里に、さすがの晶も妙な照れくささを感じずにはいられない。
結局、掘れば掘るほどに気まずくなってしまうこの雰囲気は、「汐里から勧められたライトノベルの感想」という次の話題に行き着くまで、十数分程度継続するのだった。
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