第八十層目 八首の蛇


 『蛇』は考えた。何故、自分が今になって長い眠りから目覚めたのかを。

 もしもあの時、あの男にやられた傷が原因だとすれば。いや、それはない。の傷、唾でも付けとけば治る。恐らくとっくの昔に傷は癒えていたはずだ。

 では、あの時に飲まされた酒が原因か。それはもっとありえない。確かに、あの酒は旨かったし酔っ払いもした。だが、それでもただの酒だ。いまこの身に感じている時間のズレは今日昨日の話ではあるまい。そんな長い年月の眠りを要するわけがない。


 とすれば、何故か。蛇にもそれはわからない。

 ただ、一つ確かな事が言えるとすれば、東の方角にあの時の男と同じ様な、大きな力の者が居るという事だ。

 あの男に比べれば些か小さいが、それでも我が庭で感じる気配で言えば一番似ている。

 よし、ちょっくら挨拶をしようではないか。そして、あの時の『礼』をしてやろう。

 そう思った時、蛇は気がつく。


 あぁ、そうか。あの男を打倒する力を得るために、眠りに就いていたのかと。


 目を覚ましてからの蛇は、不思議と体中に流れる力が増加している事に気がついていた。否、いまでもさらに力は加速度的に増加している。まるで乾いた土が雨水を吸い込むように、ひたすらにしみ込んでくる感覚。

 いまなら、あんな男など敵ではない。

 そうほくそ笑んだ蛇は、その巨体をひこずりながら進路を東へと向ける。


 ところで、蛇は気になっていた。先ほどから妙に自分の周りが煩い事に。

 コバエが飛び回り、蟻が何か小石を飛ばしてくる。はじめはその程度捨て置けとも思ったが、こうもしつこいと不快にも思う。

 致し方ない。少し可哀そうにも思うが、どうせいくつでも湧いて出る存在だ。それに、どうにも試してみたくなった。


 新たに手に入れた力が、どういったものなのかを。


 蛇は八つの首をもたげ、口を開く。そして、殺戮の宴は始まった。



 ◇◇◇◇◇◇



『あああぁぁぁぁぁッ!!』

『熱いッ! 熱いッッ!』

『助け......ザザッ......燃え......ザザ、ザー......』


 司令部内に、ひたすらに消えていく命の残滓と警報音が木霊する。

 次々と撃墜されていく隊員達の最期の言葉。いや、悲鳴に誰も声を発することが出来ずにいたのだ。


「......被害、状況は」


 重い口を開いたのは、深夜に差し掛かろうとした時に叩き起こされ招集されたこの場の責任者であり、現防衛大臣でもある男、相良迅だ。


「損害、多数......被害状況は、現在計算中ですが......恐らく、第一陣は全滅とみて良いかと」

「馬鹿なッ......! 一個師団だぞッ!! DM弾の効果はッ!?」

「それが......二十六発の着弾を確認していますが、効果は軽微です」


 大阪カニ騒動の件を受け、自衛隊への風当たりはあまり良くなかった。結果としてグランド・シザースの撃退は出来たが、新兵器のもたらした弊害や、多くの命を失ってしまった事によって世論のバッシングは避けられなかったのだ。

 どちらかといえば、やはり後者を理由に批判される事が多かった。魔力災害などしばらくはその地域に入れなくはなるが、それでも人命を失うよりも全然軽いものだ。

 だからこそ、今回は早々に新兵器を導入した。それも、大阪の倍以上に。だというのに、この結果だ。

 迅は眩暈を覚える。これはもしや、まだ自分は夢の中に居るのではないかと。


 しかし、現実は常に残酷だ。


「目標、進路を東京へと変更し、時速40㎞の速さで進行。進路上の障害物をものともせずに進んでいますッ!!」

「現在関東圏内の避難状況、9%。このままでは、多大な被害が想定されますッ!!」

「富士吉田市で被害発生ッ! 死傷者多数ッ!!」


 もはや何処の被害で鳴り響いている警報音なのかわからない。それほどに、蛇によって引き起こされた災害の規模は大きい。


「航空隊と陸上師団は目標の足止めを最優先ッ! 別動隊を進路上の市町村に向かわせ、住民の避難を迅速に完遂するように通達せよッ!!」


 司令部のオペレーターたちは必死に指と口を動かし、各司令部へ伝達を行う。

 今だけでいい。今だけ、指が普段の三倍動いてくれ。一秒でも早く指令を伝え、一秒でも早く市民の安全確保に人員を手配しなければならない。

 現場も必死であるが、司令部内のデスク組も必死だった。

 すべてが戦場。誰しもが、人命を、人々の生活を守るために。


「......日本ダンジョン協会に出動要請。現在、日本には二名の......いや、三名の特級化物が居るはずだ」

「了解............返信、ありましたッ! え......?」

「どうした? 報告を」

「えっ、あっ、あの......『出動要請は受理できない』との返信が......」

「......は?」


 迅はあまりにも予想外の返信に間抜けな声を上げてしまった。

 いま目の前に迫っている脅威を見て、何故その様な返信ができるのか。誰しもが、巨大なモンスターの脅威に曝されているというのに。


「ふっざ、けるなッ! 俺が直接連絡を入れるッ!!」

『その必要は無い』

「ッ!?」


 大型モニターに映し出されたのは、日本ダンジョン協会会長、藤原源之助である。しかし迅は、モニター越しで数年ぶりに再会した旧知の人物に違和感を抱く。


「......お前、本当に藤原か?」

『あぁ、そうだ。そして、相良防衛大臣。貴方の要請に応えることは出来ない』

「ふざけるなッ! こんな緊急事態に、お前は自分が何を言っているのか分かっているのかッ!?」

『大阪の一件、忘れたわけではないだろう。先に面子を潰してきたのは、そちらの方だ』

「そ、それは......」


 大阪カニ騒動では、自衛隊の役割はあくまでもグランド・シザーズの足止めだった。弾虎の突入による核の破壊もしくは活動の停止。それが作戦の肝だった。

 しかし、自衛隊は......というよりも、持たざる者達は思ってしまった。自分達にも手段はあるのだと。そうして欲をかいた結果が、あの大阪の大規模魔力災害だ。


「い、いまは面子に拘っている場合ではない事くらい、貴様でもわかるだろうにッ!!」

『拘るな? ならば、何故この場に及んでも頭を下げない。拘っているのは果たして、どちらかな?』

「ぐ、ぐうぅ......大阪の、一件は......本当に、すまなかったと思う。この場を借りて、謝罪する」


 苦虫を口いっぱいに詰め込み、思いっきり嚙み締めた様な表情を浮かべる迅。

 周囲で二人のやり取りを見ていた者は、この緊急事態に何をしているのかと呆れる......ことは無かった。何故なら、これは長い間ずっと存在していた、日本ダンジョン協会と国防に隔たりを作っている壁の話なのだから。

 ダンジョンが現界しておよそ五十年。半世紀の間に変わってしまった力の立ち位置は、老人同士の確執では済まないほどに大きな問題なのだ。


『後ほど、公の場を設ける。そこで先ほどの姿勢を見せる事を約束しろ』

「......わかった」

『目標を旧埼玉方面へと誘導し、そこで迎え撃つ。作戦の指揮はこれより日本ダンジョン協会へと移してもらう。よろしいかな?』

「......了解した。これより、作戦指揮は日本ダンジョン協会へと移行する。各司令部へ通達ッ!!」

「了解ッ! こちら司令部......」


 直ぐさま、各方面へと作戦指揮の変更の報を伝えるオペレーター達。

 その背中を見つめながら椅子に深く座る迅の口元には、誰にも気づかれない程の笑みが浮かんでいた。

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